タイワンバヤルのプロフィール

 ゴビ砂漠への航空券の手配を済ませて、タイワンバヤルさんがホテルに戻ってきたのは、3時過ぎだった。それまでの間、わたしはウランバートルの町を彷徨していた。厚い雲が垂れ込め、どんよりと沈んだ空気に満たされた町を。

 旅行者専用のドルショップに入り、紅茶の葉を1箱と、ジュースを2本買った。町中に商店はない。驚くほどに店がない。建物と建物の間に距離があるせいか、目的地に達するまでに時間がかかる。ほんの数時間の間に、ずいぶん歩いた気がした。

 タイワンバヤルさんは頬を真っ赤にして、息を弾ませながら、この部屋の扉を開けた。今日はいつもより寒いらしい。太陽が出ているか出ていないかで、まったく暖かさが変わるのだと彼女は言う。今日は太陽を見ていない。寒いのは仕方ないようだ。

 彼女は今夜、このホテルの、私の部屋に泊まることになった。それというのも、わたしというこの無謀な旅行者を、明日、早朝の便で南ゴビ砂漠へ連れて行くために。

 この親切な彼女のことを、ここで少し触れておきたい。タイワンバヤルさん。通称タイワン。ウランバートルに九つある大学の中の一つ、モンゴル大学が彼女の学び舎だ。彼女は現在1年生。日本語学科に在籍している。1年生で日本語を学んでいるのは全部で15名。みんな昨年の9月から習い始めたばかりだ。しかし、彼女のように、ガイドとしての仕事ができるのは、積極的で優秀な彼女くらいなのだという。もちろん自分の口から「優秀」などとはいわなかったが、多分そういうことだろう。

 彼女は本当は、昨年の10月、ロシアのイルクーツクにあるコンピューター学校に入学する予定だった。しかしながら、ゴルバチョフとエリツィンの交代劇による政情不安により、その道は絶たれ、モンゴルに留まることになった。仕方なくモンゴル大学に入学することを決め、日本語学科専攻を決めた。そのとき日本語に対して、特に思い入れはなかったようだ。

 彼女の両親は、ウランバートル市内の科学アカデミーに研究員として勤務している。父親のメインプロジェクトはヒツジの交配について。野生のヒツジと飼育されているヒツジをうまく交配し、品質のよい毛や肉を持つヒツジに改良するため、研究を続けているらしい。母親も動物の研究をしているという。

 3人の兄のうち、1人はモスクワで研究員として働き、もう1人の兄はドイツで駐在大使として勤務している。家族が集まると専らモンゴルの政治や経済、将来の展望などが話題にのぼるらしい。インテリ家族だ。そんな彼女は、夏休みの今、ゆっくりと休暇を過ごすことができないほど忙しい。「去年は家族で別荘(!)に行きました。今年はどこにも行っていません」という。

 1986年以降のモンゴル改革、その後の独立などの影響により、今年になって急激に増えた日本人観光客(NHKのモンゴル特集に触発されて訪れる年配の人が多いらしい)に対応するべく、彼女は休む暇もなく、ジュルチン・ツアーズに駆り出される。日本語を話せるガイドが不足しているせいだ。大学生である彼女に賃金は支払われない。

 現在、夏休み中の彼女は、ほぼ毎日ガイドとして働く。半官半民、いや、実質的には国営のジュルチン・ツアーズの依頼を、彼女は断れない。わたしははじめ、なぜ、彼女が私のために、こんなにも無償の行為を率先して行ってくれるのかが疑問だった。いくら日本人と話す機会があって勉強になるとはいうものの、毎日休むまもなく無償で働くなんて考えられない。

 しかしながら、彼女と話をしていくにつれ、何も知らなかったモンゴルのことが、そして彼女の行動の理由が少しずつわかり始めた。

 

タイワンが教えてくれたモンゴルの話

 タイワンから聞いたモンゴルの話を記しておきたい。ペレストロイカを契機に、事実上、旧ソビエト連邦から独立したモンゴルだが、現在、あらゆる物資が不足し、経済状態は非常に悪化している。モンゴルの産業を支えているのは、主に自国の鉱物資源と家畜。鉱業の中心になっているのは銅やモリブテンの選鉱。家畜産業は羊毛、カシミヤ、ラクダ毛の加工をはじめ、精肉、酪農、皮革製品の加工など広範にわたる。

 これら主要な産業の基盤になる各工場は、かつて、資金、技術ともに、旧ソ連および東欧諸国の援助によりできたものがほとんどだ。現在、これら工場の機械類は、たいへん老朽化しており、新しい機械や部品が必要な状況だという。ところが、それらを旧ソ連から買い入れる資金がない。それに長い目で見ると、いまさら性能の悪い旧ソ連の物を買うというのもナンセンスだ。かといって、資本主義諸国から新しい機械を導入するお金など、なおさらない。先進諸国の経済協力により設立された工場もいくつかあるらしいが、それはほんの一部にすぎない。

 モンゴルには多額の債務がある。だから、他の国々に頼ってばかりいるのではなく、リスクを背負ってでも、自国で産業の基盤を作らなければならないのだとタイワンはいう。

 かつてモンゴルで採掘されていたという石油を、来年から再び掘り始めるべく研究が、今、なされているらしい。採掘した石油を自国で精製し、それを資源に工場の機械を造る。もし、このプランが実現すれば、現在80%以上輸入に頼っている石油も、かなり自給自足の状態になるのだという。まず石油を掘り、次に機械を作り、そして産業を興す。なんだか、気が遠くなるような話だ。

 それにしても、タイワンはモンゴルの将来について、驚くほど真剣に語る。「わたしはモンゴルが発展するために、よくなるために、わたしができることをします」という。彼女のわたしに対する一連の奉仕は、国の債務を減らすという目的の延長線上にある。外貨を落としていくわたしたちを案内するのは、国の発展につながるというわけだ。

 だから、ジュルチン・ツアーズという事実上、国営の会社で無償の労働をする。しかし、わたしたち旅行者といえば、モンゴルの物価に対して破格のお金を、至る所でばらまくことになる。

 ほかの若い人たちは、どう考えているのだろう。タイワンに尋ねてみた。みんながみんな、自分のように真剣には考えていないだろう、しかし、だれもがモンゴルの発展を願っているのは事実だ、と彼女はいう。それにしても。タイワンは実に何度も「発展」ということばを口にする。彼女にとって「発展」とはいったい何なのだろう。広く、国民が就労し、賃金を得て豊かな食料を手にし、遊牧を捨てて安定した生活を始めることなのだろうか。

 「モンゴルはぜひ発展します」と、少し誤った日本語で断言する彼女に、わたしは「そうですね」とうなずくよりほかになかった。

 

札束の山

 午後11時。街はしんとして、深い眠りについている。もう一つのベッドで、タイワンが寝息を立てて眠っている。明日は早く起きてゴビ砂漠への飛行機に乗らねばならない。だが、今日一日のことを、綴っておかずにはいられない。

 今日の午後、タイワンは、一旦私の部屋を訪れた後、再び出て行った。ひとつはわたしの航空券のリコンファームのため、もうひとつはわたしが頼んでおいた通貨の両替のためだ。モンゴルの通貨の単位は「トゥグリク」。このレートが実に曖昧だ。基本的に換金はUSドルで行われるのだが、日本出発前に聞いた話だと1USドルが40〜50トゥグルクだった。

 しかし実際の通貨の価値は1USドルが250〜270トゥグルクだという。これは列車の中で、バッドバヤルとニェンモチルが教えてくれた。僕たちと両替しよう、というようなことをしきりにいっていたのはそのせいだ。

 両替をしてくれる銀行が閉まっていて困っているわたしに、「父に頼んで両替してもらいましょうか」とタイワンがいってくれたので、頼んでいたのだ。

 リコンファームと両替を済ませ、再びタイワンがホテルに戻ってきたのは午後8時過ぎのことだった。彼女は片手に大きな袋を携えていた。部屋の鍵が閉まっているのを確かめてから、彼女はおもむろに、テーブルの上に袋の中の物をドサドサと広げた。広げられたそれは、なんと数十個の札束だった。わたしが彼女に両替してほしいと頼んだ50 USドル紙幣2枚は、数十個のトゥグルク紙幣に姿を変えていた。

 いったいこんなにたくさんの紙幣を、どうやって使うというのだ。彼女はそれらを一枚一枚、わたしの目の前で数え始めた。わたしの「いいよ、多分あると思うから」ということばを遮るように、「いえ、おとうさんが計算してくれたので大丈夫と思いますが、わたしは数えるべきです」といって、黙々と数える。

 ほとんどのお札がよれよれで、なぜかしらヒツジ臭い。そう。モンゴルに着いてからずっと思っていたのだが、ホテルのベッドやタオル、それに魔法瓶のお湯までがヒツジ臭く感じられる。まあ、それはいいとして、とにかく彼女はすべてのお札を数えた。お父さんの計算に間違いはなかった。「お金持ちになったみたい」などといって騒いではみたものの、この大量の札束が、今のモンゴルの経済状態を教えてくれているようで、なんだかしんみりとした気持ちになってしまった。

 

注文のできない料理店

 計算が終わり、一息ついたころには、時計は最早9時を回っていた。二人とも夕食はまだだ。ホテルのレストランはすでに8時で閉店している。わたしは半ばあきらめていたが、タイワンは使命感からか、食事はぜひとるべきだといって譲らない。ホテルの人に聞き出したところ、朝の4時までやっているレストランがあるからそこに行こうという。

 いやな予感がした。昨夜の件もある。この町に、そんなに遅くまでやってる店なんて、とてもあるとは思えない。お嬢さん育ちの彼女は、あるいはかなりの世間知らずなのではないだろうか。もちろん、わたしは激しく空腹状態だった。だからこそ、徒労はしたくないと思ったのだ。今日は諦めようよ、というわたしに、しかし彼女はかたくなだった。仕方がない。出かけるしかない。

 わたしたちは、冷たい風が吹き付ける夜道をとぼとぼと歩き始めた。改めて、暗い。町にはほとんど街灯がない。広い広い真っ暗な広場を抜け、広い広い真っ暗な通りを横切り、ひたすら歩く。死んだように静かな町。雲間から大きな月が顔を出している。あまりの心細さに夢うつつの心地になる。

 タイワンはタイワンで「こんな夜道を歩くのは初めてです。夜道は危ないからです」という。そんなことをいうんなら、なんで出かけたがるのよ、といいたかった。「女の人は、夜歩くと危ないです。わたしたち、男の人に見られたらいいですね」という彼女の言葉に、なぜかしら大股で、大手を振って歩き始めた自分が悲しかった。

 30分も歩いただろうか。真っ暗な団地の中の、真っ暗な広場の中心に、ぽつんと明かりが灯った、小さな平屋の建物が見えた。まさかあそこが、と思ったと同時に、彼女が「あそこです」と指差した。いいようのない不安がよぎる。

 頭の中で、宮沢賢治の「注文の多い料理店」の話が渦巻いた。決しておもしろおかしくいっているのではない。このような「危険じゃないのにとても怖い」気持ちを味わったことは、これまでの人生、そうなかった。恐る恐る扉を開ける。タイワンも結構ビビっている。中に入り、薄暗い細い通路をわたる。と、その先にぽつんと机があり、そこに白髪のおばあさんが、背中を丸めて座っている。

 何ゆえにこんな不気味なシチュエーションなのだ!

 彼女とおばあさんはしばし話をしていた。どうやら、この通路の奥にバーがあって、しかも10時にオープンするという。もちろんレストランなんかではない。ここが本当にバーなのかさえ信じがたい。ただ薄暗く、不気味な建物。本当にお客が来るのだろうか。こんな怪しげな店に…。わたしはもう、とっととホテルに帰りたかった。ご飯なんて食べなくてもいいと思った。

 こういうわけで、わたしたちは再び、来た道を引き返した。もう二度と歩きたくない。寂寥とした夜道。合計1時間の、虚しき、夜の散歩だった。ちなみに今夜もシャワーは壊れていた。ああ…。


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