モンゴルの時代を担う若者たち

 夕刻、ホテルのロビーでうろうろしていたら、押見さんや時田さんに夕食に誘われた。彼らは、今夜がウランバートル最後の夜なので、青年実業家のバッドさんたちと夕食をともにするらしい。またもやごちそうになることにした。

 レストランでは中田さん、永田さん、そして酒井田くんが、すでに食事を始めていた。窓から差し込む夕陽が、テーブルの上をほんのりと、茜色に染めている。電気はついていない。どうやらまた、停電らしい。

 ウランバートルでは、停電は日常茶飯事。ちょっと暗いな、と思っていたわたしに、永田さんがぽつんという。「美穂さん、ぼくはウランバートルが大好きです。夜になると暗闇に包まれるこの町が、大好きです。東京が明るすぎるんです」と。

 ほどなくして、バッドさんとその友人が現われた。二人とも、スーツ姿にネクタイを締めている。彼らはともに26歳。その若さで、バッドさんは、ウランバートルで会社を経営している。中国と物々交換のような形で貿易を行っているという。近いうち、再び日本を訪れ、数年、日本の某大手企業で働くことが決まっているらしい。「日本の企業でビジネスをしっかりと学んで、モンゴルに戻ったあと、それを活かしたいです」と、真剣な表情で語る。

 彼らだけでなく、現在のモンゴルのエリートたちは、みんなとても若いらしい。「今のウランバートルには、日本の明治維新のときのように、若いエネルギーが満ちあふれています」と、永田さんがいう。

 中田さん、そしてバッドさんたちのビジネスの話を、わたしたちは黙々とヒツジ肉のステーキを食べながら、聞いていた。一生懸命に語り合う彼らを見ていて、彼らのプロジェクトがうまくいけばいいと、心からそう思った。

 永田さんの農業研究に関するお話も、いろいろとお聞きすることができた。永田さんは、ほかの学者のように研究室に閉じこもるのではなく、あちらこちらを歩いて回って、自分の目で確かめながらの「実地の研究」を、ずーっと続けているらしい。農作物を取り巻く諸々の問題(たとえば、人間の健康、地球の環境)などについても、わかりやすく教えてくださる。

 素人の素朴な質問にも、ひとつひとつ丁寧に応じてくださったことが、とてもうれしかった。

 

終わらないウランバートル・ナイト

 食事のあと、酒井田くんと時田さん、バッドさんとその友人、そしてわたしの5人でバヤンゴール・ホテルのバーへ繰り出した。小さなバーは、世界各国のビジネスマンらしき人たちでいっぱいだった。ジュークボックスの前では、モンゴルの若者たちが踊っている。ゴビでいっしょだったロレンソも、紛れて踊っている。

 そんなにぎやかな中、バッドさんが、わたしの目をじっと見つめて、真剣に訴え始めた。「ミホさんは、出版関係の仕事をしているんですよね。モンゴルのことを、日本の人に正しく伝えてください。お願いします。いいことも、悪いことも」。

 アルガランタ村で出会ったジャーナリストのおじいさんと、まったく同じ言葉を彼が口にしたことに、わたしは驚き、そして戸惑った。モンゴルについて何の知識もなく、だたふらりと旅行に来たわたしには、正直なところ荷が重すぎる。しかし、彼は「ミホさん。お願いします」と何度も繰り返す。

 彼はかつて5年ほど、日本に留学していた。あるいはそのとき、いかに日本人がモンゴルについて何も知らないというかということを、痛感させられたのかもしれない。彼らがモンゴルの発展を願って懸命にがんばるなか、自分たちの国のことを、正しく世界の国々で認識してもらいたいと願う気持ちは、とてもよくわかる。飛行機で数時間の、とても近い国なのに、わたしたちはこの国のことを、あまりにも知らない。

 ひとしきり飲んだあと、わたしたちは、ロレンソたちに誘われて2次会に行くことになった。ウランバートル・ホテルのバーだ。2カ所しか飲む場所がないというのは、迷わなくていい。わたしたちは、冷え冷えとした夜道を15分も歩いて出かけてた。バヤンゴール・ホテルで働いている青年や、中田さんたちのガイドの青年もいっしょだ。わたしたちはここでも、ジューックボックスの前で踊って、飲んで、騒ぎ続けた。

 

ソドノムさんとザハへ

 9月20日(日曜日)。今日はザハに出かける。ザハとはウランバートルの郊外で、毎週、水、土、日曜に開かれる自由市場のこと。アルガランタ村に行った日に出会った、地質学教授のタイワン氏の奥さんであるソドノムさんが、連れて行ってくれる。ある日、「ザハに行きたいと思っている」と話したら、ソドノムさんが連れていってあげるといってくれたのだ。そのことを酒井田くんに話したら、いっしょに連れていってほしいという。

 なんでも、ザハは危険だということで、ジュルチン・ツアーズではガイドに連れていってはいけないと通達しているらしい。

 ソドノムさんは待ち合わせの場所に、大きな英語の辞書を持って現れた。彼女は中学校の教師。国語の先生でありモンゴル文字の先生でもある。英語は数カ月前に始めたばかりらしく、わからない単語を一つ一つ辞書で確認しては、話を進めてくれる。モンゴルでは、かつてロシア語が必須科目だったが、最近になって英語教育が始まったという。

 ザハは、街の中心からバスで10分ほどのところにあった。辺りの家々は市街地の団地とは全く違い、古びたバラックのようなものばかり。非常に貧しいという印象を受ける。バスを降り、砂利道を歩く。小さな子供たちが、自転車の車輪の輪を、棒でコロコロと転がしながら遊んでいる。

 市場の入り口で入場料を払い、門をくぐる。一目ザハを見るなり、愕然とする。これは市場ではなく「人場」だ。運動場ほどの広い敷地は、人、人、人で埋め尽くされている。いったいどこで何が売られているのか、さっぱりわからない。見えるのは人だけ。危険だから連れていってはいけないと言う意味がよくわかる。満員電車の中で買い物をするようなもので、身動きすら取れないのだ。

 わたしはどうしてもデールの帯が欲しかったので、目的をその一つに絞り込み、人混みに突入する。ソドノムさんを先頭に、わたしたちは互いの服をつかみ、はぐれないように努めた。ソドノムさんが「帯はどのあたりで売ってますか」と尋ねつつ、人混みをかきわけかきわけ、進む。結局、広場を囲むように立ち並ぶ露店にはたどり着けず、人混みの中で商っていたおじさんかれあ、オレンジ色の帯を買う。帯と言っても、長さ4メートルほどの布だ。酒井田くんもデールを買ったので、帯は二人で切り分けることにした。

 本当はもっといろいろな物を見たかったのだが、あまりの人の多さに圧倒されて、見物どころの騒ぎではなかった。いったい何が売っていたのだろう。衣類らしき物は時折、目に付いたが、トラックに積まれたヒツジ以外、食糧などはあまりなかったように思う。

 ザハがウランバートルの人たちの大切な商品購入の場であるということだけは、身にしみてよくわかった。


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