■眠れぬ夜。クラフト・バザールを巡る朝。
到着した日はよほど疲れていたのだろう、ベッドの寝心地の悪さに気づくことなく寝入った気がする。しかし、夕べは違った。あまりのベッドの「堅さ」に、A男も私も、夜中に何度も目が覚める。
前回来たときには、こんなに硬かったとは思えないのだが……。ベッドはスプリングではなく、なんだか「畳」のような素材でできているのだ。腰痛には硬いベッドがいいというが、あまりにも硬すぎである。
まだ夜も明けやらぬうちから目覚め、「ああ、眠れぬ」「寝心地が悪い」とぼやく二人。ふだん誰も使用しないこのベッドルームは、蒲団も何かしら、埃っぽい。ということに今更気づく。
父、ロメイシュは「息子夫婦が来るから蒲団を干さなきゃ!」なんて気配りがあるわけでもなく、ましてやウマは無関心だし、これらの寝具がどのような状況で今ここにあるのかを想像するに、なんだか急に背中がかゆくなってくる。姫気分半減。
今日は蒲団を干してもらおう。そう思いながら起きあがる朝。
今日も軽めのヨガをやり、シャワーを浴び、お茶を飲む。バスルームで「ああ、ヘアドライアーがないから、髪がまとまらない!」とA男のぼやく声がする。
そう。昨日、持参していた「ナショナルくるくるヘアドライヤー(A男のお気に入り)」が壊れたのだ。それもこれも、インドの不安定すぎる電力供給のせいである。
●コラム4:インドの電力供給●
インドはでは、(多分)全国的に、恒常的に、電力が不足している様子で、停電は日常茶飯事である。しかも、停電していない間でさえ、安定した一定量の電流が供給されるわけではなく、まるで寄せては返す波のように、変化を見せる。少なくとも、首都ニューデリーでは。
時折、蛍光灯などがチカチカとディスコティックに点滅を始めたりするが、それは蛍光灯が古くなっているせいではなく、電力が一時的に弱まっているせいだ。
従って、オフィスにせよ自宅にせよ、「自家発電装置」を備えているところが多い。A男の家も、自宅裏に発電庫がある。
また、コンピュータには専用のバッテリーチャージャーの使用が不可欠である。不意の停電でも電源が落ちてしまわぬよう、また、一定量の電力を常時供給しコンピュータを傷めないよう。
ところで米国とインドでは、電源の差し込み口の形が違う上、電圧も異なるので、変圧器とアダプターを持参していた。変圧器があれば、普通、世界各国、使用できるはずの電化製品である。
「くるくるドライヤー」とて、同じであろう。そう思い、コンセントに差し込み、ドライヤーのスイッチを入れた途端、耳慣れない、いつもとは違った「ゴーッ」という電気音が発生したかと思うや、次の瞬間、微かな煙を噴きだして、ドライヤーは息絶えてしまった。
呆然とその様子を見つめる私たち。瞬間、2年半前の記憶が蘇る。デジャブ? ああ、前回も、私たち、同じ失敗をやったじゃないの! またドライヤーを壊してしまったよ!
お互い、前回の失敗を覚えていなかったことをののしり合ったりするが後の祭り。「ドライヤーがないと、髪型が決まらない!」といつまでも文句をいうA男。
だいたい、女性である私がヘアドライアーの使用に躍起になるならまだしも、なぜそんなにも短髪なA男がクルクルドライヤーを必要とするのか。わけわからん。
ともかく、初日にしてドライヤーは壊れた。ノートブックのコンピュータやカメラのチャージャーにはあらかじめ、変圧装置がコードに備え付けられているが、不安この上ない。どきどきしながら使用する。これらは最終的に問題なく、使用し続けることができた。
さて、本日はA男が午後、2軒の会社をリサーチのため訪問することになっている。従って、午前中の空いた時間に、二人でクラフト・バザールに出かけることにする。「二人で」と言っても、外出は常時、ドライバーのカトちゃんに頼っている。タクシーに乗ることや、バスやオートリクショー(三輪自動車)を使うことはない。
地図を片手に一人であちこち出歩きたい私としては、なんとも窮屈な気がしないでもないが、それがマルハン家の習慣とあらば、従っておくべきだろう。ま、楽といえば楽だし。
いつでもどこでも、目的地を告げて、そこまで連れていってもらうばかりだから、いまひとつ土地勘がつかめなくてもどかしい。A男が恐ろしく方向音痴な大人に育ってしまったのも、無理はないかも知れないと思う。
さて、「ディリ・ハート」と呼ばれるそのクラフト・バザールは、デリー観光協会とニューデリー市議会の共同事業の一環としてオープンした。
広々としたオープンエアの敷地内に、インド各地の伝統工芸品を売る露店が軒を連ねている。
陶器、絵画、彫刻、家具、木綿、シルク製品、サリー、衣類、人形、ガラス製品、ジュエリー、籐製品など、数々の手工芸品が一堂に会し、インドの多様性を垣間見られる場所でもある。
ローカルの職人が自ら店を出しているケースも少なくなく、あちこちで、値段をめぐって交渉する店主とお客の姿が見られる。私たちは別段、買い物をする予定はなかったが、美しい細密画を見つけたので4枚ほど購入した。
米国の物価に照らせば、言い値でも決して高くはないが、こういうところでは値切るのが常識である。A男は巧みに交渉している。最終的には当初の3割引程度の値段で購入できた。A男、得意気である。
帰国して、これらの絵に合う額を買う方が、多分高くつくと思う。
バザールの一画にはフードコートもあり、インドのスナックや軽食を出す店が数軒並んでいる。私たちは朝食が遅かったこともあり、チャートという軽食を食べた。
ところでインドの人たちは、カメラを見せ、ゼスチャーで写真を撮らせてくれと頼むと、気さくに応じてくれる。人物を撮影するときは相手に無礼にならぬよう、気を配っている身としては、非常にうれしいことである。
■日本人女性と会う。ゴールドのバングルを買う。
昼過ぎ、A男を打ち合わせ先の会社まで送ったあと、私は昨日訪れたカーン・マーケットのバリスタ・カフェへ向かう。ここで人と会う約束をしていた。
渡印の数週間前、わたしのメールマガジンやホームページの読者だというニューデリー在住の女性、Mさんからメールが届いた。『街の灯』を購入したいとのことで、もしも私が今回持参すればニューデリーのどこへでも取りに来てくださるとのことだったので、お会いする約束をしていたのだ。
Mさんは、旅行で訪れたインドが好きになり、2年少し前よりニューデリーに暮らしはじめ、日系企業の現地採用として仕事をしているとのこと。インド舞踊も習っていらっしゃるとか。
好きで暮らしはじめたとはいえ、ニューデリーでの生活はなかなかに大変なことが多いようで、日本人の視点からの意見を聞けたのはよかった。
特に、日本のようにインフラが整い、生活基盤が安定したところから、インドの庶民生活に飛び込むというのは、相当なギャップがあることだろう。
しかし、インフラの悪さ、サービスの悪さは、インドほどではないにしても、米国も相当に悪い。ワシントンDCは極度に悪い。慢性的に財政難のワシントンDCは、まず道路が劣悪。
つぎはぎだらけの凸凹で、腰痛の際などバスに乗ったら、余計に腰を痛めるというものだ。台風だの雪だののたびに停電したり交通が麻痺したりする脆弱さにも辟易である。
この間など、ロシア大使館前の通りの水道管が破裂して、水がとめどなく路面からあふれていたが、何日経っても誰も何もしようとせず、2週間以上放置されていた。
数カ月前はワシントンDCのど真ん中、ダウンタウンで、古くなったガス管から漏れたガスが、道路を走る車に引火し、車全焼(幸い運転手は逃げ出した)、路面はメラメラと、しばらくの間、燃えていた。
もちろんあたりは地下鉄も含め通行止めである。テレビで現場の映像を見たときには、ほとほと呆れてしまった。
ワシントンDC。超大国の首都、ワシントンDC。知らない人なら誰もが「近代的な設備の整った美しい街」と想像するであろうワシントンDC。でも、実際は、ガタガタなの。
なんてことを、今ここでぼやいている場合ではない。つまり、私は「先進国の首都なのにこれ?」という経験を積み重ねているため、インドはインフラが整っていなくて当たり前、という気持ちが強く、少々の話には、余り驚けなかったのは事実である。
加えて言えば、インフラ、サービスという点においては、ニューヨークも、相当ひどいし。なんてことを自慢げに書くのもどうかと思うが。
そんなこんなでおしゃべりをしていると、打ち合わせを終えたA男がカフェにやって来た。ミーティングの内容を、いきなりダダダダーッと話しはじめるA男。打ち合わせそのものは今ひとつだったらしいが、さまざまな情報を得られたようである。
Mさん曰く、A男はホームページで見る写真より「実物の方がいい男」らしい。そうかなあ……、と思いつつも、
「実物の方が変ですね」
といわれるよりはずっとうれしいものである。まあ、そんなことを言う人もあるまいが。
その後、Mさんと別れ、A男の2回目の打ち合わせに私も同行する。と言っても、私は待合室で旅日記を書きながらである。今回はA男と内容を共有するため、毎日英語で旅日記を記すことに決めたのだ。英作文の勉強にもなり、一石二鳥である。
打ち合わせののち、自宅へ戻り、ウマとロメイシュとともに、ジュエリーショップへ。なんだかすでに、ゴールドのバングルは「買うべき」と決まっているらしい。自動的に、そういう運びになっていた。
車中、ウマが
「ミホ、滞在中、ピアスの穴を空けましょうよ」と誘う。
ピアスの穴は、昔、一度空けたことがあったが、化膿してしまい、そのままなくなってしまっていた。インドのジュエリーはネックレスとピアスがお揃いになっている場合が多いので、ウマは揃いで買わせたいようなのだ。
わたしもいただけるジュエリーが増えるのは大歓迎である。これを機に空けてみようかとも思う(最終的には時間が取れず、空けずじまいだったが)。
ウマ。普段は無口であっさりしているけれど、お買い物となると、何だか積極的である。私とウマは、サリーのデザインとか、家のインテリアとか、ジュエリーの好みが結構似ているので、彼女も楽しいのかも知れない。
何しろ、A男の姉、スジャータが資本主義的消費生活、とでもいうべく「華やかなもの購入」にまったく興味がないので。
ちなみにウマは、前夫との間に一人娘がおり、その娘は夫と共にアラブ首長国連邦のドバイに住んでいる。昨年、孫娘が誕生したため、しばしばドバイを訪れている様子。ドバイにはインド人が多いらしい。
■ラグバンの両親宅へ。A男が大好きなブカラ・グリルで夕食
バングルは、一つ一つが異なるデザインで、実に多彩なデザインがあった。次々に箱を開いては閉じ、開いては閉じ、そして気に入った数種類の中から、厳選して購入した。
さほど時間をかけることなく、好みのデザインのバングルを見つけられて、大変幸せな気分である。
さて、次なる目的地は、スジャータの夫、ラグバンの両親宅訪問である。なぜそんなに遠い親戚の家まで旅行中に訪ねる必要があろうか、という気がしないでもなかったが、なにしろここはインド。バングルも入手できたことだし、郷に入れば郷に従うのである。
ラグバンはバンガロールでエイズワクチンの研究をしているとても優秀な科学者だが、父君(世間は彼をドクターと呼ぶ。A男も名前を知らずドクターと呼ぶ)は、インドで最も有名な科学者の一人らしい。
何をどう研究しているかはよく知らないが、政府との関わりが強く、政府の運営する企業のCEOを務めるなどビジネスマンの側面もあるらしい。
世界科学者会議などでは日本へも訪れ、日本の天皇陛下や首相とも数回、懇談した経験があるという。ちなみに彼が重役を務めるインディア・インターナショナル・センターの礎石は天皇陛下が皇太子時代に施したものだ。
そんなわけで彼は日本に対する関心も高い。彼の妻、つまりラグバンの母もまた、知的な女性である。それでなくても、こぼれんばかりの大きな目の周囲に、くっきりと塗ったアイラインがあまりにも濃すぎて、直視するのに少々勇気がいるが、しかし、フレンドリーでやさしい女性だ。
彼らの家は、それにしても質素だ。古びた団地に住んでいて、部屋は薄暗く、内装も、あるんだかないんだか、という感じで、まったく頓着していない様子。生活全般が、ともかく質素・簡素、という印象だ。
バスルームに行く途中、ついたての裏側にまわって驚いた。あたり一面、小型のスーツケースで埋め尽くされているのだ。
彼ら夫婦が頻繁に旅行に出かけているとの話は聞いていたが、その無数に積み重ねられた、古びたスーツケースの山が、彼らの生き方を示しているように思えた。
彼らは旅行の際、大きなスーツケースを使わず、この小さなスーツケースに必要な物だけを詰め込んで、身軽に旅をしてきたのだろう。そして古くなったスーツケースは捨てることなく、多分、収納ケースとして利用しているのだろう。
お金のあるなしではなく、お金の使い道、自らの価値観というものが、明確に決まっている人の潔さ。ここまで徹底した生き方ができるのも、すばらしいものだと思う。
ラグジュリアスな環境が好きな私には、どうにも無理な暮らし方だけど。
二人はもう、70歳を優に超えているはずだが、若者のような感性の話し方をするのも印象的だった。
数カ月前に、中国を訪れたときの感想を、二人交互に、熱っぽく語る。そうして、私たち若者の話を、対等の立場で、丁寧に聞く。本当は、軽く挨拶をしておいとまするはずだったのが、私もA男も話し込んでしまい、ウマとロメイシュが時間を気にし出すほどだった。
彼らの家を出たあと、A男と出会って以来、もう、何百回も聞かされていた、ブカラというタンドーリ料理のレストランのあるマウリア・シェラトン・ホテルに向かう。この店の料理は抜群においしいというのだ。
●コラム5:タンドーリチキンに代表される北インドの料理●
ベジタリアン料理の多い南インドに対し、ニューデリーを含む北インドの料理は肉料理が多い。タンドーリ・チキンやマトンのカバーブなどは知る人も多いだろう。
タンドールと呼ばれる大きな釜で、長い串に刺した肉や魚介類を蒸し焼く。ダル(豆の煮込み)やマライ・コフタ(野菜団子のカレー)、サグ・パニール(ホウレンソウとカッテージチーズのカレー)などとともに食す。
家庭で食すカレー類はあっさりとしていて、スパイスもマイルド、決して重くないが、レストランの料理はクリーミーでリッチな味わいのものが多い。
北インド料理と言えば、ビリヤーニと呼ばれる炊き込みご飯(具は肉や野菜などいろいろ)も定番だ。また、主食としては、日本では、小麦粉で作られた「ナン」が有名だが、それ以外にもあっさりとした味の丸くて平べったい「チャパティ」や「ロティ」といったインド式パンがある。
A男があまりにもブカラの料理のことを絶賛していたので楽しみにしていたのだが、実際のところ、そんなにおいしいとは思えなかった。
味付けがどれも濃すぎて、全体にヘビーなのだ。むしろわたしには、昨日、従兄弟の妻が作った料理の方がずっとおいしく感じられた。
多分、A男は子供時代、毎日家庭料理を食べていたから、たまに食べる外食が、とてもおいしく感じたのかもしれない。その記憶をずっと引きずっていたのだろう。
インド料理は家庭料理が一番ではなかろうか、との思いを新たにした夜だった。食後のA男は、ちょっと無口だった。ちょっと可哀想だった。
ところで、私はチャパティよりナンが好きだ。だからいつもふわふわのナンをオーダーする。ところが、ナンをオーダーしなかったロメイシュとウマが、私が気づかぬうちに自分たちの皿に取っていた。
わ、わたしのナン……。
そのナン、返して。とも言えず。そんな些細なことで、心中ムッとしてしまう、わたしは心の狭い女である。しかもここにわざわざ書くし。
さて、マウリア・シェラトン・ホテルではブータンの観光振興に関するレセプションらしきものが開かれていたようだった。ブータンはネパールの東、中国とインドに挟まれた小さな王国である。
ブータンから来た男女が民族衣装に身を包み(男性の服は丈の短い着物でまさに座敷童のような風情であった)、ホテルのフロントで関係者に資料を配っていた。彼らの顔は東アジアの我々ととても似ている。
そんな彼らの傍らを過ぎ、カトちゃんの車が来るのを待っていたら、関係者の一人から
「あなたもブータンからいらしたのですか?」と尋ねられた。
韓国人、中国人、香港人、シンガポール人に間違えられることはあったが、「ブータン人」に間違えられたのは、生まれて初めてのことで、なんだか知らぬが、ちょっと照れた。
なんだかブータン王国が急に身近に感じられた。いつか行ければと思う。