■初日のニューデリー。家族揃ってお買い物、など。
夕べは1時過ぎに就寝したので、時差ボケを早めに解消するためにも8時間は寝たいところだった。しかし、まだ夜の明けぬ早朝より、小鳥のけたたましいさえずりにより起こされる。しばらくベッドでゴロゴロしていたものの、8時には起床。二人して、ヨガを行う。
その後、シャワーを浴び、使用人(料理番)が煎れてくれる熱い紅茶を飲み、新聞などを読む。その後、階下に下り、朝食だ。
●コラム1:家の構造と、使用人について●
A男の自宅は4階建てで、各階にリビングルーム、2ベッドルーム、2バスルーム、キッチンがある。つまり各階が独立した構造となっている。
1階は「借家」にしているため、よその家族が住んでいる。2階は父ロメイシュの母、つまりアルヴィンドの祖母「ダディマ」の住まいとロメイシュの部屋、そして「公共の場」である。
3階は通常、だれも使っておらず、従って私たちはニューデリー滞在中、このフロアを使用している。
4階はロメイシュの妻、ウマのフロア。数年前、ウマとロメイシュが結婚してからは、事実上、ロメイシュもここに寝泊まりしている。インテリアその他は、センスのいいウマの趣味で華やかにまとめられており、2階3階の、地味で誰の手も入っていないインテリアに比べると、雲泥の差である。
せめて2階の公共の場くらい、ウマがうまくインテリアを整えればいいのに、というのが、私たち夫婦の意見の一致するところだが、まあ、ダディマとの間にいろいろあるのだろう、ウマは一切、関わりたくない模様である。どの国も、嫁姑関係は、同じね。
ちなみにA男の家には計5、6人の使用人 <ドライバー(男)、料理人(男)、ダディマの介護人(女)、掃除人(女)、門番2人(男)> がおり、そのうち半数は、A男宅の裏に住んでいる。
界隈の家を見渡すとみな同じような構造になっているが、家の建物の裏側に螺旋階段があり、それぞれの階に6畳一間ほどの使用人部屋が設けられている。つまり使用人は住み込みで働いていることになる。
いい使用人を見つけるのは簡単ではなく、世間ではいろいろとトラブルが絶えないようだが、マルハン家で働く人々はみなとても感じがよく、いい関係を築いているように見受けられる。
ちなみに4階在住のウマは、基本的に家事一切を自分で行う。彼女はとても独立心が強く、家事などを他人に任せるのがいやらしい。少々潔癖性のところもあり、自分できちんと掃除洗濯しなければ気が済まないようだ。だから、あまり太っていないのかも知れない。
マルハン家の食事は料理専門の使用人、ケサールが作ってくれる。細くて小柄な熟年男性だ。
彼はカトちゃんの紹介で数年前からマルハン家に働いている。非常に礼儀正しく寡黙で、そして少々神経質らしい。料理に対しては非常に厳格で、あらかじめ食べたい料理をきちんと申請しておかないとならないらしい。急に変更を頼んだりすると混乱するらしい。
すごく大人しそうに見えるけど、掃除番の使用人仲間を大声で怒鳴りつけたりして、結構小うるさそうな側面もある。
ちなみに今回、いつも毛糸の帽子を被っていた。インド人、寒さに弱いらしい。たいして寒くもないのに、巷じゃ毛糸の帽子を被っている人が本当に多い。
そういうわけで、朝ごはんもまた、彼が作ってくれる。テーブルに座り食べたいもの、たとえば「トースト2枚とスクランブルエッグ」と言う具合にリクエストすると、用意してくれる。
「お茶」と言えばお茶が「コーヒー」と言えばコーヒーが、テーブルに供される。本当に、怠惰になってしまう生活だ。らくちんだけど。茶碗の上げ下げ不要。掃除洗濯不要。本当にらくちんすぎる。
洗濯物など、丸めて床に置いておくと、夕方、ピシッとアイロンが入った状態でベッドの上に置かれている。パジャマにもTシャツにもアイロンがかけられている。甘やかされ過ぎである。
朝食を食べているとダディマが起きてきた。ウマも上階から下りてきた。ここで初のご対面である。夕べは深夜の到着だったから、二人とも寝ていたのだ。起きて待ってくれていないところがあっさりしていていい。
ここで家族一同、再会を喜び合う。私たちはお土産などを渡し、しばしの歓談。ほどなくして、ダディマがウマに目配せし、ウマが私に赤いジュエリーケースを渡してくれた。蓋を開けると、きらびやか、かつ派手な金のネックレス! 私好み! マルハン家からの贈り物らしい。ありがたく、ちょうだいする。
■朝食後は、なぜか家族揃ってお買い物。
特に何をしようと考えていたわけではないが、なりゆきで、なぜか初日早々、買い物に行くことになる。今回の旅行でわたしは、「刺繍入りのカシミアのストール」と「ゴールドのバングル」だけは自分のために買おうと思っていた。
義理の両親の前で自分の買い物をするのはあまり気が進まなかったので、自分たちだけで出かけたかったのだが、なぜか自動的にウマとロメイシュもついてくる。
4人で、前回も「お土産購入」に立ち寄った国営の一大ギフトショップ「セントラル・コテージ」へ行く。ここはコンノート・プレイスという繁華街の一画にあり、インドのさまざまな民芸品・工芸品が販売されているのだ。
ストールは別に今日買わず、下見をする程度にしておこうと思ったのだが、とても気に入った絵柄の物が見つかったので、即、購入を決めた。
ストールの一面に施されている刺繍はもちろん手縫いで、陳列されているものは一つ一つデザインや色柄が異なる。とても気に入るものを見つけるのは簡単ではなく、だから迷わず思い切って買った。
決して安くはないけれど、けれど海外で同じ物を買うとしたらきっと倍近くするだろうし、ましてやアメリカなどではなかなか手に入らない。ストールは洋装にも合うので、応用が利くのもいい。
ともかくいいものを見つけられてよかった。
その後、やはりコンノート・プレイスの一画にあるレストランでランチ。ここで南インド名物の「ドサ」という料理を食べるのだ。
●コラム2:南インドの料理、ドサ●
「ドサ
Dosai」とは米の粉で作られた巨大なパンケーキ。ドサとはベジタリアンの多い南インドの、基本的には「朝食」らしい(ちなみにニューデリーは北インド)。
「プレーン・ドサ」と、中にスパイスで味付けされたジャガイモやタマネギが入った「マサラ・ドサ」がある。いずれもスパイシーなカレー、チャツネ、ココナツミルク風味の付け合わせなどと共に食す。
ドサは、バターがたっぷり塗られた「バター・ドサ」もあるが、いずれも、パリッと香ばしく焼かれていて歯ごたえがよく、非常においしい。
ドサはトロリと濃厚なヨーグルト飲料「ラッシー」とともに味わった。ちなみにラッシーにはスィートとソルトがある。甘みが強いのも、また塩味が利いたのも今ひとついやだったので、プレーンを頼んだら、持ってきてくれた。
食後は南インド産のコーヒーを飲む。小さなステンレス製のカップに注がれたコーヒーは、すでにミルクと砂糖が入っていて、普段ブラックで飲む私には少々甘いが、しかしコーヒーの風味は濃厚ながらマイルドで、とてもおいしい。「大人のためのコーヒー牛乳」といった味わいだ。
濃くしたい場合は、リクエストすると濃厚なコーヒー(エスプレッソ)を持ってきてくれるので付け足すことができる。うれしいサービスだ。
南インドに旅するのが楽しみになってくる。
ランチのあとは、なぜか今日中にお土産購入を済ませよう、ということで、スンダ・ナガール・マーケットにある紅茶専門店へ行く。ここには前回も訪れおいしい紅茶をたっぷり購入しており、ぜひまた買いたいと思っていたのだ。
この店には極上のダージリンティーが用意されている。ダージリンティーといってもその種類は実に多彩。葉の部位や茶摘みの時期、品質、その他によりさまざまに異なる。
シャープで若々しいファーストフラッシュ(4月-5月摘み)ではなく、まろやかでフルーティーなセカンドフラッシュ(6月-8月摘み)を買うことは決めていたが、ほかにも「シャンパーン・ティー」や「マスカテルMuscatel」といった種類もある。
これは試飲するしかあるまい。と、A男ともども、5、6種類は試しただろうか。お腹がタプタプになりそうだったが、しかし、お土産用、自宅用と大量に購入するのだから、吟味して購入したいものである。
結局、セカンドフラッシュと、少々高価なオーガニックのマスカテルを主に購入し、自宅用にかなり奮発して「シャンパーン」も1つ買った。
インドの物価から考えると相当に高価なお買い物だが、日本や欧米諸国で購入することを考えると多分半額以下である。それに、こんなに質のいいお茶には、簡単に巡り会えない。
上質のお茶は、日本茶にせよ、烏龍茶にせよ、紅茶にせよ、実にかぐわしく香り豊かで、しあわせな時間を与えてくれるものである。
お茶を購入したあとは、ウマが用事があるとかで、今度はカーン・マーケットという商店街へ。以前ここで、A男が結婚式用の衣装を縫製したのだ。わたしのサリー用のブラウスもまた、ここで縫製してもらったのだった。
マーケットの雰囲気は2年半前と少々趣を異にしていた。インド版スターバックスともいうべく「バリスタ・カフェ」というのがオープンしていたのだ。その後、このバリスタ・カフェをデリーの随所で見かけることになる。
カーン・マーケットを出るころには、だんだん日が暮れ始めていた。夜はA男の従兄弟宅のパーティーに招かれていたので帰った方がいいとも思ったのだが、わたしが思わず漏らした一言「今回の滞在中、バングルを買おうと思っている」を聞き逃さなかったウマ。
ロメイシュと相談して、マルハン家御用達のジュエリーやさんへと連れていってくれる。わたしは正直なところ、自分のものばかりを家族の前で買うのは気が引けたのだが、ジュエリーは信頼のおけるところで買うのがいいと言う二人の言葉に納得。素直に従うことにした。
第一、買うとなれば、一応、夫であるA男にも「相談」が必要である。しかし当のA男はくたびれたのか、「もう買い物はいやだ」という顔をしている。
ちなみに金のバングルといっても、そんなにたいそうな量を買うつもりもなく、予算もリーズナブルに300〜400ドル程度と決めていた。
生涯身につけられると思うと、安い物である。と思う。
取りあえず下見に、ということで、ジュエリーショップが点在する商店街に立ち寄った。数々の箱に収められたバングルを、ざっと眺めていく。
気に入った物も見つかった。取りあえず今日のところは「下見」ということで、また改めて来ることにした。
●コラム3:家族の絆、ゴールドのジュエリー●
インド人はゴールドが好きである。いや、インド人に限らず、中国やシンガポールやタイあたりに行くと、まばゆいゴールドの専門店をあちこちで見かける。
インドでは古くから、ゴールドは「長寿」「美」「生命」の象徴として捉えられているようだ。
わたしは日本にいたころからシルバーよりもゴールドが好きで、しかも黄みがかった22金、24金あたりが好みであった。タイに旅行に行ったとき、ゴールドのブレスレットを買った経験もある。
そもそも、日本人の好む、小振りで繊細で控えめなジュエリーは好みではなく、大振りで存在感のあるものが好きだった。
そんなわたしにインドはあまりにうれしい国であった。
結婚式のために初めてインドを訪れたとき、マルハン家はまず、新しいネックレス(幅広のチョーカー風ネックレスで、研磨されていないダイヤの原石が埋め込まれている)を私に贈ってくれた。
その他に、ダディマから、彼女が若いころに身につけていたゴールドのネックレスを、そして今は亡きA男の母の形見から、やはりゴールドのネックレスと6連のバングルを譲り受けていた。
ちなみにインドのゴールドのジュエリーは、一般に柔らかすぎないが黄金色が美しい22金が多いようだ。
チョーカー風のネックレスは相当に派手なため、さすがに私も日常に着用するには気が引けるが、祖母、実母より譲り受けた二つはいずれも、ちょっとお洒落をしたときに洋装に合わせられるため、お気に入りである。特に黒の衣服によく映える。
そして今回、前述の通り、また新たにネックレスをいただいた。
今回、ジュエリーを巡って実感したことは、これが「家族の絆の証」であると言うことだ。子供のいない私たちだから、こう書くのも矛盾があるが、つまり、ジュエリーは世代と世代を結ぶ、一つのシンボルでもあるように思うのだ。
ゴールドは、いつまでも残る。何十年、いや何百年たっても、輝き続ける。もしも私たちに子供がいたならば、わたしが今もらっているジュエリーは、その子供たちに引き継がれていくのだろう。
そういう願いを込めて、私に贈ってくれているのだろう……、と思うと少々困惑しないでもないが、まあ、気にすまい。
私は外出するとき、A男の亡母が愛用していた6連のバングルを身につけている。そういう家族の絆を「重たいもの」と感じる人も少なくないだろう。
一般のインド家庭に似合わず、A男の家族が私たちの生活に深く干渉しないせいもあり、わたしは比較的面倒を考えず、身につけている。
日本人である自分がインド人の家族の中に巻き込まれていることを、とても興味深く感じている側面もある。
A男の母のバングルは上品な輝きを放ちながら、私たちを守ってくれているようにも見える。
かつて、買ったばかりのハンドバッグを盗まれたことがあったのだが、その日に限って、わたしはバングルを身につけていなかった。以来、なんとなく、バングルはお守りのような気がしている。
■いとこの家に招かれて、身近な親戚が集う夜
A男は基本的に「小家族」だ。A男の父、ロメイシュは一人っ子だし、実母は兄一人の二人兄弟である。
その兄夫婦の、やはり「一人息子」である従兄弟とその妻が、自宅で私たちのためにパーティーを催してくれると言うので家族で出かけた。
従兄弟の妻は料理が上手で、家の料理人に自分のレシピを教えて作らせているほか、自らいくつかの料理とデザートを作っていた。部屋のインテリアも感じよくまとめられていて、とても居心地がいい。
A男の家族や親戚、古い友人は、英国、米国の大学、あるいは大学院を出た人が多く、また海外旅行の経験、あるいは海外との交流のある仕事についている人が多いので、私が日本人であると言うことに、全くと言っていいほど違和感を覚えていないように見受けられる。
なにしろA男のおじ、ランジットは、つい数週間前、仕事で日本へ訪れたとのことで、あれこれと日本の話しに花が咲く。
その妻、つまりA男のおばニナは、長年、インドの「ファミリープランニング・アソシエーション」(人口増加問題などを検討する組織)のプレジデントで、去年からは全世界のプレジデントを任され、やはり日本にも行ったことがある。
ちなみに彼女はジョージタウン大学を卒業しており(その後、インドで博士号も取得)、今から30年以上前、我が家の近所に住んでいたと言うから面白い。
「ジャイアント・スーパーマーケットで買い物をして、その横のサロンで髪を切ってたの!」などと、懐かしそうに話していた。どちらも、今でもまだある。
ちなみにニナは若いころ、ユニセフ(国連児童基金)の仕事で渡米していたA男の実母とニューヨークで偶然知り合い、それが縁でランジットと結婚することになったらしい。
「日本は今回、組織にかなりの資金を投資してくれたの、ありがたいわ」と言っていた。
インドの人口問題については、また後ほど書くとしよう。
そんなわけで、みな余りにも自然に接してくれるので、わたしもまったく気負うことなく、真に会話そのものを楽しめるのがいい。
何人かのゲストと話をしたが、最も印象に残っているのは、シルバーのサリーを品よく着こなした初老の婦人である。彼女の母親と、A男の母方の祖母(すでに他界)が大学時代の友人だったらしい。
当時、女性で大学に進む人は少なかったなかで、A男の祖母は非常にすばらしく先進的で優秀な人物だったらしい。A男の実母がすばらしかったとの話は聞いたことがあったが、祖母の話は聞いたことがなかったので、興味深くさまざまを聞けた。
その婦人は、実は一度、本を出版したことがあるという。それは1903年、インドに生まれたとある女性の伝記だという。その女性の話を聞いて、強く感銘を受ける。
おいしいインドの家庭料理とデザートを堪能し、新しい物事を教わる会話もまた有意義で、とてもいい夜だった。