■最後の朝。ケサールのミルク粥。シッダールタとスジャータ。
約2週間のインド旅も、いよいよ、今日を以て最後である。深夜の便で、ニューデリーを発つ。
朝、目を覚まし、お茶を飲んだあと、しばらくは階下に行かず、荷物の整理をしていた。すると先に階下でクリケットの試合を見ていたA男が、電話でわたしを呼び出す。
「ミホ、ケサールがミホのためにミルク粥を作ってくれたらしいから、早く下りておいで」
昨日、わたしが30分を待ちきれず、トーストを食べたことを、ケサールは気にしていたらしい。
テーブルには、鍋にたっぷりのミルク粥が入っていた。それは、ほんのりと甘く、小麦が香ばしく、そしてミルクがとても柔らかで、不調な身体を、芯から温めてくれる味だった。
ところで、今から約2500年前、ゴーダマ・シッダールタ(仏陀)は、北インドのボードガヤ(ブッダ・ガヤ)で、長い修業の果てに悟りを開いたとされている。
苦行ののち、疲弊しきっていたシッダールタに、「スジャータ」という村娘が「ミルク粥」を差し出した。そのミルク粥のおかげでシッダールタは生気を取り戻し、その後、悟りを開いたという。
さて、朝食のあと、3階へあがり、再び荷造りの続きをする。A男は相変わらず、いつ終わるともしれないクリケットに見入っている。昼頃、家の庶務に関する打ち合わせのため、来客があると聞いていたので、しばらくは外出できないだろうからと、わたしものんびり片づける。
打ち合わせは想像以上に長引いている。キッチンではランチの準備ができている。A男とロメイシュ以外は、空腹に耐えかね、各自、お皿に料理を盛って、打ち合わせをしているダイニングテーブルではなく、リビングの方で食べる。
そのランチ。「ラジマ」と呼ばれる金時豆の煮込み、ダル(小さな豆の煮込み)、トマトとキュウリのサラダ、オクラのカレーと、どれも野菜ばかりなのだが、これまたとてもおいしくて、キッチンとリビングを何度か往復し、おかわりをする。
今回は、最後の最後まで、胃腸絶好調でよかった……と切に思う。
■またもやインド映画DVDショッピング。芋三昧
3時頃になってようやくA男も解放され、外出となる。本当は、昨日訪れたアンサル・プラザにもう一度行きたかったのだが、A男はインド映画のDVDの品揃えが豊富な店があるグリーンパーク・マーケットという商店街に行きたいという。
しかたなく、まずはそこに行くとする。グリーンパーク・マーケットは、比較的きれいで、マクドナルドなどのファストフード店もある。
A男は書店の中にあるミュージックストアに入り浸り、もう、信じられないほど入念に、あれこれ選んでいる。
わたしは、満腹にも関わらず、どうしても食べておきたかった「焼き芋風」の露店を見つけたので、それに挑戦することにする。見た目は日本の焼き芋(サツマイモ)と似ているが、食べ方が違う。
おじさんがナイフできれいに皮を剥き、それを手のひらの上で一口大に切り、小さな器に移したあと、ライム汁とマサラ(スパイス)をかける。その器を両手で持ち、上下に揺らして全体に味が行き渡るよう混ぜるのだ。
お察しの通り、おじさんの手に、芋の表面がまんべんなく触れる。おじさんの手は、きれいかもしれないけど、汚いかもしれない。
……これはチャレンジだな。
しかし、最後の最後でお腹を壊すのはいやだ。リスクを冒してまで食べるべきじゃないと判断し、おじさんに、「皮をむかずに、そのままちょうだい」と頼んでみた。
すると、おじさんは、新聞紙の切れ端にマサラを入れ、薬包のように器用に包み、ライムを1個、それに丸ごとの焼き芋をビニール袋に入れてくれた。
商店街を歩きながら食べる芋。人々を視線を感じつつ味わう芋。日本のサツマイモとほとんど同じで、濃い甘みのする芋はおいしかった。しかし、温度が均一に伝わっておらず、一部、しっかりと火が通っていないところがあった。日本の石焼き芋に軍配があがる。
焼き芋を食べ終えてもまだ、A男はDVD選びの最中である。業を煮やしたわたしは、いつもなら、「わかった。もう、先に行く!」と単独行動に走るところだが、いかんせん、カトちゃんはひとりだし、車も一台だ。
無闇に商店街を何往復もして、我ながら、訝しいったらありゃしない。仕方なく、コーヒーでも飲もうとマクドナルドに入る。すると、フライドポテトが妙においしそうに見える。インドのジャガイモはおいしいから、これもひょっとするとおいしいかもしれない。
今日はもう、最後なのだから。そう思い、フライドポテトもオーダーする。豆やら芋やらばかりを食べて、わたしは大丈夫だろうか。
フライドポテトは、アメリカのものと、さほど変わらぬ味だった。
そんなこんなで、ようやくA男が買い物をすませたころには、すっかり日が暮れようとしていた。A男はこれから家に帰って、親戚に挨拶の電話をしたいという。な、なんだと?!
「わたしはずっとモールに行くんだと思って待ってたのに、今日は一日、あなたの用事に付き合っただけじゃない! 荷造りも一人でやったんだからね!」
と食ってかかってはみたものの、
「今夜で最後なんだから、僕は家族と過ごしたい」と言い張る。
「なによ。今までだって、ずーっと家族と一緒だったじゃないよ!」
「でも、ともかく、帰りたいの! 買い物はもう、いい!」
カトちゃんは英語がわからないとはいえ、喧嘩していることくらい即座にばれる。思えば前回も、車中でしばしば、もめたものだ。
マルハン家に関わって15年の彼。
A男やスジャータが渡米するときにも、アンジェナが亡くなったときにも、ウマとロメイシュが再婚したときにも、そしてA男がわたしと結婚したときも、いつでも彼は、この家族と関わってきたのだと思うと、他人であるけれども、他人とは言いきれない、奇妙な縁だと思う。
各々の家のドライバーたちは、きっと仕える家庭のさまざまを知り尽くしている。駐車場で、住宅街の裏で、休憩中のドライバーたちが集っておしゃべりをしているところをよく見かけるが、彼らには、きっと「ゴシップ」が尽きない。
『家政婦は見た!』をはるかに上回る情報量であろう。
■ダディマからの贈り物。語り合う夜。最後の晩餐。
家に戻ったら、A男はまたもや、2階でテレビを見始めた。親戚に電話するんじゃなかったのか、と思いつつ、今日一日、自分のやりたいことをできなかった妻は、むくれて3階の部屋に戻った。
A男のばか。と思いながら、新聞をパラパラめくっていたら、ドアをノックする音がする。ドアを開けると、ダディマの世話をしている使用人が立っていた。彼女が
「これは、ダディマからのプレゼント」
と言って、紙包みを渡してくれる。
ちなみに彼女は、もう何年もダディマの世話をしていて、ダディマのよき「話し相手」でもある。前回訪れたときは独身だったけれど、この2年のうちに結婚して、現在は臨月だ。臨月にも関わらず、階段を上り下りし、家の雑事を軽々とこなす、働き者の女性である。
ドアを閉め、ベッドの上でその紙包みを開ける。そこには、ストールと、手袋と、厚手のソックス、そしてヒンディー語で書かれた手紙が入っていた。
ここ数日、わたしがあまりに寒い寒いと言っているのを、彼女は心配して、こうして「暖かくなる物」の三点セットを贈ってくれたのだ。
ストールは、地味なベージュで好みじゃないし、手袋は軍手みたいで、しかもどぎつい青だし、厚手のソックスも安っぽくてダサダサだし、困ってしまうほど趣味に合わない品揃えだったが、なんだか、目頭が熱くなった。泣かせるじゃないのよダディマ……!
使用人が買ってきたのか、それとも彼女が持っていたものをくれたのか、それはわからない。でも、そんなことはどうでもいいのだ。
ああ、もう。A男の言うとおりだ。最後の夜なんだから、家族と一緒に過ごそう。
ダディマがくれたストールを巻き、ソックスをはいて、さすがに手袋はしなかったけど、階下に下りた。
階下では、外出から帰ってきたスジャータと、4階から下りてきたウマも含め、皆で集まったばかりのところだった。
ロメイシュが、ずいぶん前に買っておいて飲まずにいたらしいシャンパーンをキッチンから持ってきた。それをA男が景気よく開け、みなで乾杯する。
グラスを片手に、ナッツなどをつまみつつ、あれこれと、とりとめもなく話をする。昨日のパーティーの話になると、終始、おとなしかったウマが言う。
「わたし、パーティーって本当にだめなの。みんなの、表面的な会話が苦手で。ある人と話していて、その人がわたしの集中してなくて、視線がたまに泳いだりするのがわかると、もう、いやなの。だからあまり話さないの」
なるほど。ウマが静かだったのは、そういうことだったのか。なにしろ、彼女は親戚の集まりではいつも無口なのだ。親戚の集まりが何かと多いインドにおいて、それはある種、わたしよりも大変な思いをしてるんじゃないだろうか、とも思う。
いや、わたしは別段、大変な思いをしているわけではないな。
視線云々の話をしていたら、ダディマが、
「わたしとミホは、目で会話をしている。だから通じ合っている」
と言う。最早、我々はエスパー状態である。だいたい、彼女がそう言っていることを、通訳を介さずわかるところからして、すでにわたしはエスパーである。
話は各方面に散らばったが、ロメイシュがインドの物価について具体的な話をしてくれたのは興味深かったので、これも極めて私事ではあるが、目安として記しておきたいと思う。
ニューデリーなどの都市では、土地や家などは先進国並みに高いエリアも少なくないが、全体的な物価はやはり安い。
マルハン家の住まいは、持ち家であるため、家賃を払う必要がないが、それ以外の、基本的な生活費(家族3人分の食費、光熱費、使用人5人への支払い)は、1カ月1000ドル程度でまかなえるらしい。
インドの物価に照らして考えるに、それは高いに違いないが、ともかく1000ドルだそうだ。
ちなみに、カトちゃんへの月給は100ドル。これは一般のドライバーにしてはいい給料だという。彼は前述の通り、マルハン家の裏にある使用人宅(六畳ほどの部屋一室)に家族5人で住んでいるが、冷蔵庫、冷房、テレビがあるという。
「洗濯機はまだないので、奥さんが手洗いをしている」とのこと。
無論、ウマの話しによれば、家電製品はすべてロメイシュが譲ったものらしいから、厳密に言うとその給料で買えるのかどうかはわからない。
そんな話を聞きながら、わたしは自分の子供時代を思い出した。今、日本は家電があふれた「産業文明大国」で、いかにも豊かそうだ。しかし、わたしの幼少期、昭和40年代初期の日本は、今に比べるとはるかに貧しかった。
わたしが物心ついたときには、我が家に白黒テレビや冷蔵庫はあったものの、洗濯機はわたしが生まれたあとに購入されたように思う。
まだ都市ガスが完備していなかったので、お風呂は薪をくべて焚いていた。ガスのお風呂に変わったのは昭和44年か45年ごろだった。
トイレは、昭和53年に転居するまで、「くみ取り式」の「どぼんどぼん便所」であり、バキュームカーもおなじみだった。だからインド式のトイレも平気なの。
お向かいのアパートに住んでいた友達の一家は、長女が中学校にあがったあとも、4人で6畳一間に住んでいた。洗濯は裏の洗い場で、おばちゃんが洗濯板を使って洗っていた。
色々なものにあふれた現在のわたしたちからみれば、過去はいかにも「不便」そうだが、それは決して「不幸」ではなかったと思う。
翻ってインドには、貧富の差によって、「産業文明の差」、「時代の差」が生じ、それらが渾然一体と入り組んでいるように思える。
そして、その格差は、部外者(非インド人)の目から見ると、いかにも不条理に見える場合もある。
しかし、今のわたしは、その不条理な現状を、評価したり批判したりはできない。なにしろ、あまりにも知らないことが多すぎるからだ。
この国全体を通しての、もしも「常識」があるとするならば、それは、奇妙な歪みを備えながら、現在のわたし自身の想像の埒外にある。
インドという国が、独特の「磁場」を持ち、独自の「地軸」で回転しているようにさえ思える。
G.N.P. per
capita /1998
一人あたりの国民総生産(年間)
JAPAN
|
$
32,350
|
UNITED
STATES
|
$
29,240
|
FRANCE
|
$
24,210
|
UNITED
KINGDOM
|
$
21,410
|
PORTUGAL
|
$
10,670
|
SOUTH
KOREA
|
$
8,600
|
MEXICO
|
$
3,840
|
CHINA
|
$
750
|
INDIA
|
$
440
|
Source: The World Bank, The 2000 World Bank
Atlas.
そして夕食。スキポール空港で買ってきておいたワインの、最後の1本を開け、再び、みなで乾杯する。
ケサールたちが、テーブルに料理を運ぶ。ニンジンとグリーンピースの煮込み、ダル(小さい豆の煮込み)、そしてマトンのシチュー。
それらを各自、お皿に盛って食べる。その料理を一口、二口と食べているうち、またしても、わたしは目頭が熱くなり、ご飯が喉に通りにくくなった。今日のわたしは衰弱しているのか、どうも感傷的だ。
その料理は、本当に、本当に、おいしかった。
この旅日記では「おいしい」を連発しているから、「またかいな」と思われそうだが、この夕食は、単なる味覚としてのおいしさとは異なるものだった。
ケサールの料理は、スパイスもマイルドで、野菜が柔らかくほどよく煮込まれていて、そして、とろけるようなマトンもまた、本当にやさしい味だった。これから飛行機に乗るわたしたちに、軽すぎもせず、重すぎもしない、気遣いのある味。
ひょっとすると、同じ料理を、たとえば別の時刻の別の場所で、別の人たちと食べたとしたなら、取り立てて、なにも感じなかったかも知れない。
取り巻くすべての要素が、料理の味に集結して、身体に染み込んでいった。
わたしとA男は、同じように、料理に感じ入っていた。無論、A男は目頭が熱くなったりはしていないが、これが最後とばかりに旺盛な食欲で、「おいしい。おいしい」と言いながら食べている。
この時点で、A男はすでに、旅行前日に買ったばかりのジーンズを履けなくなっていた。
「ケサールをアメリカに連れてきて、レストランを開いたらすごくはやると思うよ!」
とA男が言う。
するとウマとスジャータが口を揃えて言う。
「ダメダメ! ケサールには無理」
「ケサールは器用ではないし、機転が効かないから。我が家の料理だけで、もう精一杯よ。レストランなんて開いたら、神経症になるわ!」
「でも、料理も最初のころに比べると、本当にうまくなったわよ」
ケサールは、マルハン家のためだけに、毎日料理を作る。普段はさほどありがたがられないけれど、たまに訪れる息子やその嫁に、心底喜ばれる料理を作る。
そんな料理を作れる、使用人。
わたしは、本当に、いろんなことが、よくわからなくなってきた。自分の心が、かなり混乱していることは、わかった。
■そして、ニューデリーを去る。
夜10時過ぎ。いよいよ出発だ。夜遅いので、空港への見送りはいらないから、と家族に告げる。ひとり一人と、何度も抱擁を交わし、家を出る。
夜の別れというのは、なんだか胸に迫っていけない。
わたしたちはカトちゃん、いや本名、ティージ・ビールの車で空港に向かう。
車は、昼間とはうってかわって静まり返った道を、滑らかに走っていく。わたしたちは、それぞれに、窓の外を眺める。
ふと、A男の方を見ると、頬が濡れて、光っていた。彼は、声を殺して泣いていた。
やっぱり、夜の別れはよくない。
しばらくして、ほとぼりの冷めたA男が、言った。
「僕は、18歳でインドを離れて、お母さんが死んでから、インドのことを思い出すのがいやだった。インドのことを考えると、悲しい気持ちが蘇ってくるから。
それに、インドは、貧乏で汚い、第三世界だし。
でも、インドがどんなに問題を抱えた国でも、やっぱりここが僕の国で、僕はここが好きで、僕はインド人である自分を誇りに思う。
ミホ……。また一緒に、インドに来ようね」
(その前に、日本へ行く約束を忘れないでね)
と言いたいところだったが、我慢して、その言葉を飲み込んだ。
そして、夜景を見つめたまま、冷たい彼の手を、ギュッと握った。