インド旅を終えて

果てしなく長い旅日記を、最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。

以下、旅を終えたあとの所感を、書き記しています。ほとんどが、すでにエッセイ(メールマガジン)にて紹介したものであることを、あらかじめお断りしておきます。


旅を終えて、数日間は疲労と時差ボケで寝てばかりいたが、それからは、ともかくこの旅日記を書きたくて、長いことコンピュータに向かっていた。

ともかく、インドに行ってよかった。それが第一の感想だ。

インドから戻り、新しい年が明け、それと同時に、ずいぶんと心持ちも変わった。

生活を、シンプルに戻そうと思った。身軽になろうと決めた。

色々な「情報」や「癒着」や「しがらみ」などで、がんじがらめになったりするような生き方は、絶対にするまいと決めた。

そんな風に思うのは、インドに行ったせいもあるが、それとは別に、自分の身近に、ここ数年の間、厄介な病と闘っている人たちがいることが大きな理由かもしれない。

わたしは、彼らの生き方を通して、自分の在り方を顧みた。自分がやりたいこと、必要だと思うことを、取捨選択する審美眼を養い、それを遂行する力を身につけたいと考えるようになっていた。

そんな折の渡印は、わたしにとって、将来の方向性を見極める、いい機会となった。


東京での暮らしに終止符を打ち、ニューヨークに渡ったのが1996年。ニューヨークの磁力に引きつけられたまま、そこに住み着き、2001年に結婚、テロ、そして2002年、ワシントンDC移転。

DCに移ってからは、この街で、自分にできることを模索してきた。『街の灯』の最終的な出版作業をしたのも、『muse DC』を出し始めたのも、あらためて英語の学校に通ったのも、この街でだ。

これから先も、ここを「好きな街」とは呼べないにしても、ここに住む必要性がある以上、ここで今できることを、前向きにやっていく気持ちでいるにはかわらない。

しかし、今回の旅行前と旅行後では、同じ「ここでできることをやる」にしても、その心意気が大きく変わった。だから、インドへ行って本当によかった。

去年までのわたしは、「米国に住む日本人とインド人」である我々夫婦が、将来「どこに行きつくのか」がよく、わからなかった。それは一抹の気持ち悪さだった。

ニューヨークに戻りたい気持ちがあった。しかし同時に、新しい場所へ行きたいという衝動もあった。夫の仕事を考えると、サンフランシスコという選択肢もあった。サンフランシスコ。DCよりは、多分、わたし自身に合うかもしれない。そんな風に思っていた。

でも、なにか釈然としなかった。

去年の終盤あたりから、「ひょっとして、インドはどうか」という考えが、わたしたちの間で何度か話題にあがった。それは、一つの「新しいひらめき」のようなもので、具体的に実現するかどうか、まだ考えられなかった。

苦労の果てに、ようやくグリーンカード(永住権)も取れたのだし、それなりに快適な暮らしができる「先進国」から「発展途上国」に住むのはどうだろう。という迷いも当然あった。しかし、旅を終えた今のわたしには、もう確固たる意志がある。

わたしにとって、今回は2度目のインドだった。前回は結婚式のイベントで精一杯で、「落ち着いた気持ち」で旅ができなかったインドだったが、今回は、自分なりに、2週間で出来る限りのインドを見てこようと思った。

そして、2週間の間に、今まで見えていなかった自分の行き先……遠くに見える光の在処……の輪郭が、浮かび上がってきた。光と言うよりは、色。ニューヨークを除く米国での遠い将来を考えたとき、わたしに浮かぶ色のイメージは、寒色系だった。たとえば、ブルー、グレイ、ブラウンなど。

しかし、インドでの将来を思うとき、オレンジや黄色、ピンクが思い浮かぶのだ。

インドという国の余りにもの多様性と特殊性。好奇心をそそる物の多さに打ちのめされた。それは、一つの国が、一つの世界であるかのような、地理的な違い、言語の多様性(少なくとも15種類)、文化や習慣の違い、人の肌色の違い……。

無限にあるとさえ思えるような、サリーの色とデザインにも、文化の深みと歴史が反映されているとさえ思うのだ。サリーの色を染める人々は、いったい、どうやって、あの微妙に異なる色を表現しているのだろうと思う。たとえば、赤、ピンク、黄色、緑……といった括りの中に、更に何十もの、赤があり、ピンクがあり、黄色があり、緑がある。

どこかユニークな背景を持つビンドゥー教といい、インド映画のばかばかしさといい、人々の様子といい、理屈抜きで、なにかが「ほとばしって」いる。

3泊4日のゴア(ビーチリゾート)旅行を除いては、ほぼ夫の家族と同行で、何かと窮屈な側面もあったが、しかしわたしは「夫とその家族を通して経験したインド」に出会えたことを、本当に本当に、幸運だったと思わずにはいられない。

わたしはもし、A男と出会わず、独り旅でインドに行ったとしたならば、インドに住みたいと思うことはなかったと思う。わたしはインドと、とてもいい「出会い方」をしたと思う。

日本にいたころ、わたしは旅行が好きで、あちこちを旅したが、今になって思うのは、なぜあのころ、インドに行かなかったのだろうということだった。そのことを、先日A男に話したら、いつになく、運命論な答えが返ってきた。

「それは、僕と一緒に行くためだよ。もしも美穂が一人でインドに行っていたら、インドを嫌いになっていたことも考えられる」

A男の仕事の都合もあるし、これから先の方向性を考える上で、少なくとも数年は米国で暮らすだろうが、そう遠くない将来、インドに行こうということを、わたしたちは決めた。

今回の旅は、わたしだけでなく、A男にとっても大きな転機となった。彼が故郷に対して持っていた、複雑に屈折していた感情が、やわらかくほどけていったように思う。

インドに移り住むことは、決して「たやすい」ことではないことくらい、百も承知だ。しかし、わたしは「利便性」や「たやすさ」を優先順位の上に置かない道を選んできたし、その方が自身のエネルギーを滔々と循環させることができるからいいのだ。

いつ、どのような手段でインドへ移るかという具体的なことはまだ決めていないが、近年、IT都市として国際化しており、更には気候がよい南インドのバンガロールが第一候補ではある。

日本とヨーロッパの中心に位置し、双方へ約8時間で行けるという「ロケーションのよさ」も魅力だ。また、旅する日々が待っている気もする。北はヒマラヤ山麓、ダージリン、タール砂漠にブータン王国……、南はケララ、チェンナイ、スリランカ……。行ってみたいところがたくさんある。

無論、インド移住を考えていることは、インドの家族に伝えていない。万一、実現しなかったときに、彼らを失望させたくないからだ。

いずれにせよ、わたしたち夫婦が、将来の居場所について同意を得られたことは、非常に幸運だったと思う。


わたしがインドに対する興味と愛着を示したことで、夫との関係も、変わったように思う。

今まで、「国際結婚」という言葉を、あまり意識せずにきた。だいたい、最初から、好きになったのも、結婚したのもインド人だったし、以前に結婚したためしもないから、他の「国内結婚」となにがどう違うのかの比較のしようがない。

結婚とは、それが同国人とであれ、異国人とであれ、厄介なことであるには違いないから、ことさら国籍の違いを悲観的に思うこともなかった。

けれど、旅を終えて、こうして心の移ろいをまざまざと体験して初めて、わたしたちの間には、実はやはり、大きな溝があったのだということに気づいた。

今回の渡印によって、その溝は、ずいぶん浅くなったように思う。彼と出会ってまもなく8年になるが、ようやく一緒に、スタートラインに立った、という気がしている。


■「先進国」「発展途上国」という、言葉について考えた。

世間では、「第三世界」であり「発展途上国」であるとされるインドから、わたしたちは「先進国」であり「超大国」の首都であるワシントンDCに戻ってきた。

空港から自宅へのタクシーの道中、その広く、見晴らしの良い、美しいハイウェイをなめらかに走りながら、わたしは、自分がここに住んでいることすらが、なにか夢の中のことのように思えた。

道は凸凹、都市の空気は悪く、街は汚く、喧騒に満ちたインド。無論、田舎の田園地帯はのどかで穏やかで、都市部のそれとは異なるが、いずれにせよ、至る所が「濃密」なインド。それに対し、この国の、なんという爽やかさ。淡泊さ。そして希薄さ。

わたしは、旅の間、しばしば自分の「価値観の場所」を定めるのに混乱した。物価の違い、貧富の差、生活水準……。

わたしは、子供のころこそ、まだまだ「発展途上国」だったはずの日本に育ったが、大人になってからは、すっかり「先進国」となった日本の価値観の中で生きてきた。そして、「先進国」とか「発展途上国」という概念を、特に疑うことなく、さりげなく、受け止めてきた。

わたしは、その、あくまでも「経済」もしくは「産業文明」においての尺度であり区別である「先進国 Developed」とか「発展途上国 Developing」といったくくりが、地球規模で、なにかとんでもない勘違いを育んでいるように思えた。ちょっと大げさかもしれないけど。

あくまでも「経済的」なはずの、その「優劣の基準」が、国全体の文化や、さらには人間個人個人にまで及んでいると、勘違いをしている「先進国の住民」が、米国をはじめ世界中に散らばっている気がするのである。

わたしの経験のなかで、それが顕著でわかりやすい例を挙げたい。奇しくもそれは約十年前、わたしがモンゴルでの旅行を終え、北京に戻り、空港の近くのホテルに宿泊していたときのことだ。

わたしはホテルの近くにある家族経営の小さな食堂で、一人、その店自慢の水餃子を食べたあと、店の従業員の女の子と親しくなり、筆談を交わしていた。道路脇にあるその食堂の料理はとてもおいしく、トラックやタクシーの運転手が常連客のようだった。

夜、昼とそこに通ったわたしが、今夜、街のホテルに移ると言ったら、家族揃って「うちへ泊まりにおいで」と誘ってくれ、団地住まいの彼らの家に1泊させてもらった経緯がある。

さて、わたしが食事を終えたころ、日本人の男性二人と、通訳の中国人女性が店に入ってきた。

40代ほどの日本人男性が、通訳を通して、餃子を頼んだ。すると当然のように、店自慢の水餃子が出てきた。なにしろ、その店は水餃子の専門店だったのだから当然だ。するとその男は通訳を介して、従業員の女の子に言った。

「なんだこれは。俺は焼いた餃子が食べたいんだよ。カリッと焦げ目のついたヤツ。焼いたの持ってきてよ」

通訳は、戸惑う従業員に訳して伝えた。

ほどなくして、焼かれた餃子が出てきた。それを見て、彼は言った。

「ああ、だめだよこれじゃ。全然うまそうに見えないだろ。餃子はちゃんと並べて焼かなきゃ。こんな風にバラバラじゃなくて」

通訳はまた、従業員に伝え、再び餃子の皿は下げられた。北京には、日本の中国料理店に出てくるのと同様、きれいに並んで香ばしく焼かれた餃子を出す店はもちろんある。しかし、中国では、水餃子や蒸し餃子が一般的で、焼き餃子を出さない店も多いのだ。

しかし、従業員は3度目にして、その男の言う「日本的な見栄えの餃子」を持ってきた。すると、その男は言った。

「そうそう、これだよこれ。俺たちはこの近くにある松下電器で働いてるんだが、これから日本人が増えるから、これをメニューに加えるように、って言ってくれ」

通訳は、なんと訳したか、知る術もない。

わたしは、怒りと恥ずかしさとくやしさで、胸がドキドキして、呼吸が苦しくなった。けれど、そのころのわたしには、その人に何かを言う勇気がなかった。それがまた、情けなかった。10年過ぎたいまでも、まるで昨日のことのように、はっきりと思い出せるほど、印象的な出来事だった。

あの日本人の男は、例えば、イタリアのミラノのレストランで、

「これは俺が好きな、表参道のイタメシ屋のピザと違う。焼き直すように言ってくれ」

と言うだろうか。

「日本人旅行者がたくさん来るから、日本人に合うものをメニューに加えろ」

と言うだろうか。

あるいは、ニューヨークのダイナーで

「このハンバーガーは大きすぎる。トマトもタマネギも分厚すぎる! もっと薄くて食べやすいのを出せ」

と言うだろうか。

無論、インドのレストランで、「日本風のカレーを出せ」と言うことは考えられる。

ここで、細かいことを解説せずとも、お察しいただけると思うので、書かない。つまり、あの日の松下電器のあの男性は、多くの、先進国に住む人々の、シンボルのようにも思えるのだ。

遠い過去の時代から、繰り返される「支配される側」と「支配する側」の力関係。それによって発生する、とんでもない思い違いと勘違い。

少なくとも、わたしにとっては、「文化的・歴史的 発展途上国」である米国よりも、「文化的・歴史的 先進国」のインドの方が、遥かに興味深いということを、今回の旅行を通して知った。

そして、米国や日本という「経済的な先進国」の一員として、自分がさまざまな事柄を「評価」していることにも気がついた。そのことに気づいただけでも、今回の旅はいい経験だった。

多分、これからさき、わたしの中でもさまざまな混乱が発生することになるだろうけれど、それを喜ばしいこととして受け止めようと思う。

BACK