■町はずれのオアシス、グリーンホテルへ。
田圃、水牛、白鷺、瘤牛、犬、大人、子供、ヤシの木、羊、豚、バラック、ヤギ、寺院、寝転ぶ牛、水浴びさせてもらう牛、稲、収穫……。
車はマイソールの中心街を通過し、少しはずれたところにあるホテルを目指す。ゲートをくぐり、車寄せに停車する。車を降り、周囲を見回した瞬間、
(ああ、なんだか、ここ、すてき!)と思う。
数十メートル先にある門の向こうは、往来の激しい埃っぽい道路だというのに、門の内側は、まるで別世界である。
ラグバンが予約しておいてくれた、このグリーン・ホテル。2階建ての、ホテルにしては小さな白い建物があり、色鮮やか花が咲き乱れる広い庭がある。
みながチェックインの手続きをしている間、わたしは、長距離ドライブで相当に痛いはずの腰の痛みも忘れ、うれしくなって庭を歩く。
オレンジや濃いピンクのダリア、白やピンクのコスモス、カーネーション、そして、夕暮れの日差しを浴びて、まさに黄金色に輝くマリーゴールド!
インド人がマリーゴールドを好むのは、この花が、まるで「ゴールド」のようだからかしらん。などとこのとき初めて思い当たる。
調べによると、マリーゴールドは、「頭髪の促進を促す」ほか、花のエッセンシャルオイルは「傷、湿疹などの肌のトラブルに有効」で、ハーブテイーとして飲めば「利尿、発汗作用」があり、更には「不眠症、ぜんそくに効果」があって、おまけに「血液を浄化する働き」もあるんだとか。
ついでに言えば、ダリアの花は、天保年間にオランダ人によって日本にもたらされたらしい。なんでもインド経由で渡来したため別称「天竺牡丹(てんじくぼたん)」と呼ばれるそうだ(天竺:インドの古称)。
さて、このグリーン・ホテルには、スイート・ルームを含め何種類かの部屋があるようだが、わたしたちは庭に面した一般の部屋を選んだ。
部屋そのものはシンプルかつ質素で、安宿的な風情だけれど(実際、安いの)、シャワーからはお湯がちゃんと出るし、ベッドのスプリングもそれなりだし、蚊取り線香もあるし、この際、ラグジュリアスな部屋でなくてもいいのだ。
ともかく、この庭!
庭が気持ちいい。ラグバンとスジャータ、ロメイシュとウマは、これからチャームンディの丘という見晴らしのいい場所にある、女神を祀る寺院を観光するという。
そこには「ナンディ像」と呼ばれる、巨大な牛の石像もあり、一応はマイソールに欠かせない観光地の一つらしいが、わたしは少しでも長い間、この庭で過ごしたかったので、行くのをよした。A男もくたびれたようで、ベッドでしばらく眠っていた。
わたしはノートとペン、カメラを携え、ホテルのフロントでポストカードを買い、庭を見渡すカフェのテーブルに席をとる。コーヒーを頼み、しばらくぼんやりと、取り巻く風景を眺めたあと、日記を書き、両親や友人にポストカードを書く。
ここのウエイターたちもまた、とても感じがよい。素焼きのポットから丁寧にコーヒーを注いでくれる。取り巻く一つ一つが、緩やかで、穏やかで、自ずと深いため息が出る。
庭やカフェには、欧米人のゲストがちらほらと見られ、独りで静かに本を読む人も少なくない。
ホテルの説明書によれば、ここはかつて、マイソール王女の邸宅のひとつだったらしい。
「1泊の予定で訪れたゲストが、1カ月ほども滞在していくこともある」という一文に、深く納得する。「長逗留して執筆活動」をするにふさわしすぎる雰囲気でもある。
しばらくカフェで過ごしたあと、建物の中を巡ってみることにした。高い天井、静かに回るファン、古びた家具調度品、グランドピアノ……。
うまく言葉では表現できないのがもどかしいが、一つ一つの部屋に、物語のようなものがあった。
わたしはまたしても、ひどく打たれて、しんみりとする。
部屋にいるA男を呼びに行った。
■ノスタルジー。チェスの夜。
A男をいざない、ホテルの建物の中に入る。古びた、ぎしぎしと鳴る漆黒の階段を上り、薄暗い2階に出る。回廊、ダイニングルーム、ライブラリー、リビングルーム……。
ゆっくりと部屋を眺め、巡りながら、しばらくの間、A男は無口だった。そしてぽつりと言った。
「ノスタルジック……」
このホテルが、彼の母方の祖父母が暮らしていた家にそっくりだと言うのだ。
ところでわたしは、1999年、『muse new
york』の「わたしの母、わたしの故郷」という連載記事で、A男を取材し記事化した。長くなるが、この際なので、全文を掲載する。
僕の名前 「Arvind
アーヴァンド」は、梵語(サンスクリット語)で「蓮の花」という意味です。インドでは一般に、梵語や伝説の登場人物から名前を取って命名します。本当は、「太陽」という意味の名前を付けたかったそうですが、父が勘違いして命名したようです。僕の姉の「Sujata
スジャータ」は、「良い生い立ち、素性」を意味します。
僕はニューデリーの比較的裕福な家庭に生まれました。ニューデリーは英国植民地時代、20世紀に入ってから、インドの首都として英国によって築かれた新しい街で、中心部には美しい建物や公園があります。
父と母はお見合いを通して出会い、お互いのことがとても気に入って結婚したようです。母はインドの大学を出た後、イギリスで修士号を取得、その後、帰国して国連の保健機関(ユニセフ)で仕事をしていましたが、結婚してからは仕事をやめ、家庭に入りました。
僕が両親と姉の家族4人で暮らしたのは8歳までです。父が転勤の多い仕事についていたことで、母は僕と姉の学校のことで頭を悩ませていました。インドは州によって教育制度や言語が異なりますから、転校を重ねることは、僕たちにとって重荷になると考えたのでしょう。結局、僕らは母の父、つまり僕の祖父の家に預けられることになったのです。
僕たちの教育については、おっとりとした性格の父よりも、母の方に絶対的な裁量がありました。
祖父は、当時、大きな砂糖工場を経営していた事もあり、金銭的には恵まれた生活をしていました。そのころすでに妻を亡くしていたので、広い邸宅には使用人が暮らすばかりでした。僕たちの食事や身の回りの世話も、使用人たちがしてくれました。
夕食はいつも祖父と姉と3人で食べましたが、祖父とは当然、話が合わないし、厳格な人だったからくつろげませんでした。なんだかいつも寂しかったのを覚えています。だから尚更、母が来ているときは、本当にうれしかった。
母は、1ヶ月ごとに僕たちのところへ来てくれて、1ヶ月間一緒に暮らしていたのです。叱られてぶたれたこともあったけれど、たいていは穏やかで温かく、ユーモアのある明るい女性でした。
母が父との生活、そして僕たちとの生活をきっちりと半分に分けて両立していたことは、今思えば大変なことだったと思います。
母は好奇心が旺盛な人でしたから、僕たちのために洋菓子の作り方を勉強してくれたりもしました。自分で味噌を醸造して味噌汁を作ってくれたこともありましたよ。
当時、母と姉と3人でよく外出したものです。書店で本を買ってもらったり、市場に出かけてスナックを買ってもらったり。たとえば、サモサやチャートなどは、こちらのインド料理店では前菜として出されますが、本場インドでは、これらはレストランで食べる料理ではありません。市場やストリートの屋台で食べるスナックなのです。決して衛生的ではないけれど、屋台の食べ物はおいしくて大好きでした。
両親は特に勉強をしろと言うタイプではありませんでした。ただ、どうしても僕自身、二番になることが許せなくて、テスト前には一生懸命勉強しました。だから、成績はたいてい一番でした。でも試験の時期以外はクリケットを観戦したり、本を読んだり、気ままに好きなことをやっていました。
インドの学校では一般に、同級生がグループになる「クラス」のほかに、「ハウス」というカテゴリーがあります。7歳から18歳までの生徒が入り交じって、いくつかのグループになるのです。学芸会やスポーツ大会などの行事のときには、ハウス単位で行動します。ですから、同じハウスの生徒たちと遊ぶことも多かったです。
子供の頃は、将来についてあれこれと思い描いてました。クリケットの選手や天文学者、政治家になりたいとか…。クリケットはずいぶん攻略法を研究したから、本を書けるくらいです。でも、実践の方は…全然ダメでした(笑)。
母が白血病に冒されているとわかったのは僕が15歳のときでした。医者からは8ヶ月の余命だと宣告されました。母は成功する確率の低い手術を受けることを拒み、さまざまな情報を集めた結果、食事療法などで病気と闘う決意をしました。
精神的にも、前向きであろうと努力する人でしたから、それから約5年、がんばって生きていてくれました。母が亡くなったのは、姉が結婚式を終えた直後、僕がアメリカの大学に進んで1年目のことです。
僕は、誰よりも、母のことが大好きだった。だから、すっかり痩せてしまって死の床についていた母の姿を見たときは、心が張り裂けそうでした。
母が亡くなってから、姉が遺品の中から日記を見つけました。それは、発病して以来、毎日、書きためていたものです。僕と姉、そして父のことを、どんなに思ってくれていたかが痛いほど伝わってきました。
母が亡くなってすでに6年の歳月が流れますが、今でも時々夢に現れます。母の死は、僕の中でまだ折り合いのついていない事実として横たわっているのです。
砂糖工場の経営者であり、政治関係の仕事もしていた祖父は、確かに写真を見る限りにおいても、厳しく、毅然とした人物のように見受けられる。
まだ小学生だったスジャータとA男。その家は、広くて、美しかったというが、しかし祖父と3人暮らしでは、確かに寂しかったろうと、今初めて、具体的に想像できる。
A男の親族は少なく、一見みな、仲が良さそうに見えるが、しかし世界中のどこにもあるように、彼らにも親族同士のトラブルがあった。
その結果として、A男の祖父母、母、そして自分たちの思い出が詰まった家は、祖父の死後、取り壊された。そのことを、A男は折に触れ、悔やんでいた。
そして今、その思い出の家によく似た空間に、わたしたちはいる。
「このダイニングルームも、本当にそっくり……。こんな部屋で、僕たち毎晩、夕食を食べてたんだ」
二十名近く座れる広々としたテーブルに、ポツンと座る3人が、今、目の前に見えてくる。
……。
A男がチェスをしようと誘う。わたしはチェスをやったことがないのだが、彼がどうしてもやりたいというので、ルールを教えてもらいながらやった。
ずいぶんと長い時間、やった。途中で飽き飽きした。
普段なら、面倒になって「もうやめる!」と言うところだが、今日だけは、A男に付き合おうと思った。
初心者を相手に、真剣に考え込み、策を練るA男。
そんな彼を見ながら、わたしもまた、彼との出会いによって、思いもよらない場所で、思いもよらない感情を味わっているものだ、と思う。
ニューヨークで出会ったわたしたちが、インドの古都で、郷愁を分かち合う。なんの因果だろうか。
■そして、クリスマス・イブの夕食
薄々気がついていたが、今日はクリスマス・イブなのであった。
クリスマスを祝うネオンがガーデンを取り巻き、人々はキャンドルライトに照らされてテーブルを囲む。
昼間に比べると少々肌寒いものの、星を見上げる屋外のダイニングは気持ちがいい。
ロメイシュ、ウマ、ラグバン、スジャータの4人は、すでにテーブルについて食事を始めていた。
今日はせっかくのイブだから、わたしたちは二人でテーブルに座ることにする。でも、4人のテーブルから数メートルしか離れておらず、ロメイシュが皿を片手にやって来て、
「これ、余ったから食べなさい」と言ってくれたりする。
ビールを飲み、食事をしながら、A男はずいぶん長いこと、自分の子供時代のことを話していた。
「本当に、ここはいいところね」
わたしがそう言うと、彼がいつもの台詞を言う。
「ミホ、よかったね。バーンズ&ノーブルで僕を見つけて」
わたしたちの出会いは、マンハッタンのバーンズ&ノーブルのスターバックスカフェで相席したのがきっかけだった。1996年7月7日。
込み合った店内で、唯一空いていた彼の前の椅子を選んだのは、わたしである。だから、つまりは、わたしが彼を見つけたことになるらしい。
「バーンズ&ノーブルで僕を見つけてくれてありがとう」
とは決して言わないA男。
まあ今日のところはクリスマス・イブに免じ、反論することなく、大人しくうなずく。
食事を終えて、しばらくの間、わたしたちはコーヒーを飲みながら、黙っていた。見上げれば、星がきらめく空。
わたしたちは、多分それぞれに、我が身の来し方行く末についてを、ただ茫漠と、考えていた。