、ガウラヴ・サリアは、1979年、コルカタのマルワリ(marwari)の家庭に生まれた。マルワリとは、北インドを拠点とする商人のコミュニティで、ビジネスの才覚に長けた人々を育んでいる。インドには、マルワリ出身の財閥も少なくないようだ。

ガウラヴは幼少期から、家族や親戚の仕事に打ち込む姿を見ながら育ってきた。彼の叔父は、ダージリンに茶園を持ち、茶の生産に携わっている。一方、彼の父はインドの茶ビジネスの中心地であるコルカタで、茶の貿易を生業としてきた。

一族郎党の旺盛なビジネス精神を目の当たりにしながら、しかし高校時代の彼は「音楽」が大好きで、地元のクラブなどでDJをやり、将来は音楽業界に身を置きたいと思っていた。しかし、当然のことながら、両親は大反対である。ともあれ、将来を確定するにはまだ早い。ひとまずは、オーストラリアのメルボルンにある三年制大学で、コンピュータサイエンスを学ぶことにした。

「音楽業界に入れないとすれば、ITビジネスかな、と思ったんです。それでコンピュータサイエンスを専攻したんですけれどね。学校に行き始めて気づいたんです。ITは僕の"Cup of Tea" (好み)じゃないってことに」

それでも、ともかくは大学を卒業し、2001年、21歳で故郷のコルカタに戻る。ついには大学を卒業したのだから、身の振り方を決めなければならない。IT業界で働くつもりはない一方、「商売」への関心はあった。しかし、音楽の道に進みたいという気持ちは、未だに強い。

親の反対にあいながらも、音楽業界に進むために、ムンバイ行きの手段を考えていた。そんなとき、父親が仕事で、久しぶりにバンガロールを訪れ、この街の急変ぶりに驚くと同時に、ビジネスチャンスがあることを直感した。

「父は言ったんです。僕がムンバイに行くというのなら、絶対に手を貸さない。けれど、バンガロールで茶のビジネスをやるなら、全面的に支援すると。その話は、僕にとって、とても魅力的なものでした」

彼のサリア一族は、三代に亘って茶のビジネスに携わってきたものの、茶専門の喫茶店を開くという試みは初めてだった。

「海外では、お茶専門のティールームは、決して珍しくありません。でもインドでは、初めてのことだったんですよ。インドは世界最大の紅茶産出国でありながら、高級茶の100%はすべて輸出用でしたからね。今だって、ほんの0.00数パーセントくらいしか、いいお茶は国内に出回っていないんです」

たとえば、我々日本人の多くは、ダージリンのファーストフラッシュがどうの、セカンドフラッシュがこうの、アッサムがどうした、と、茶種を知り、飲み方を知り、英国流ティータイムが模倣し、ときに滑稽なほどのこだわりを見せる。

翻ってインドでは、紅茶が一般的に飲まれるようになったのは1900年以降のこと。厳密には、ここ50年ほどのうちに浸透した新しい「文化」なのだ。

更に言えば、国内流通の紅茶は、高級茶製造過程で生じる「屑」、つまりダストティーを集めたものが主流。無論これは、ミルクと砂糖がたっぷりのインドの国民的飲料「チャイ」を作るのに好適ではある。一方、海外渡航経験があり、お茶の味に一家言を持っている富裕層などは、国内ではなかなか入手できない茶を、海外旅行の際に購入するなど、「個人逆輸入」してきた状態だった。

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