JUNE 20, 2005/ DAY
8
SANTA FE (NEW
MEXICO) -CUBA (NEW
MEXICO)
サンタフェから、ネイティヴ・アメリカン居住区を走り抜けて、モニュメント・ヴァレーを目指す
瞬く間に3泊が過ぎ、心和むサンタフェのそよ風ともお別れだ。今日はいよいよ、ユタ州にある国立公園のひとつ、モニュメント・ヴァレーを目指す。本当は、サンタフェの北部、車で1時間弱の場所にある「タオス・プエブロ
(TAOS
PUEBLO)」(ネイティヴ・アメリカンの部族の一つであるタオスの集落)を訪れるつもりでいた。
タオス・プエブロは、アドビ式の「多世代住宅」が見られ、過去から変わらぬネイティヴ・アメリカンの暮らしぶりを垣間見られる場所。これらの建物はユネスコの世界遺産にも指定されている。
人気の観光スポットでもあるのだが、人気があるだけ観光客も多い。陶器や革細工、銀製品など工芸品のショップも多く、伝統的なダンスなども見られるらしいが、わたしも夫も、どうもそういう場所へ行く気分ではない。
更には、タオス・プエブロに立ち寄っていたら、遠回りをせねばならず、従ってモニュメント・ヴァレーまで、主にはハイウェイを使わなければならなくなる。たとえそれが相変わらずの茫洋の荒野であったとしても、できればローカルの風景を眺めながら走りたい。今回は、タオス・プエブロを諦め、いくつかのネイティヴ・アメリカン居住区を通過するルートでモニュメント・ヴァレーに入ることにした。
地図を見るとわかるが、米国にはあちこちにネイティヴ・アメリカン居住区
(Indian
Reservation)というのがある。行政その他について、今、詳しい知識がないのでここでは触れないが、ネイティヴ・アメリカンたちの伝統的な暮らしを維持することが尊重され、商業施設の進出などに大きな制限があるように見受けられる。
さて、名残り惜しむ思いで荷造りをし、すでに日差しでサウナ化している車内に荷物を積み込み、出発である。まずは、サンタフェ観光の拠点、空港のあるアルバカーキ方面に向けてインターステイト25を南西に走る。しかしアルバカーキには入らず、途中でルート550に乗り換え、今度は北北西に進路を移す。
どこがどこなのかよくわからない、単調な荒野が続く。それでもただひたすらに、少しずつ少しずつ、マイルを重ねながら走って行く。果てしなく思えても、少しずつでも、確実に移動している。確かに次の目的地に近付いている。
サンタアナ・インディアン(SANTA
ANA)、ジア・インディアン(ZIA)、ヘメズ・インディアン(JEMEZ)、アパッチ・インディアン(APACHE)……と、次々に現れるネイティヴ・アメリカンの居住区を走り抜けて行く。時折、荒野のただ中に、バラックのような簡素な家屋がぽつぽつと見える。とても人が住んでいるとは思えない大地のありさまだ。
そんな光景に不似合いな、ときに「カジノ」の看板が見られる。政府がネイティヴ・アメリカンの暮らしを助成する優遇措置のひとつとして、カジノ経営を奨励しているとの話を聞いたが、それは大自然のなかで、古くからの伝承された生活文化、習慣のなかで暮らしを営み続けている彼らの生き方に、全くそぐわないように思える。
ネイティヴ・アメリカンと白人社会の軋轢は、改めて書くまでもなく、深く長いものだ。かつて白人社会は、ネイティヴ・アメリカンをして、「悪の象徴」のごとく捉え、流布した。西部劇に現れるインディアンたちは野蛮で原始的で残忍だ。ヒーローはいつでも、「侵略した側」の白人であった。
しかし最近では、ネイティヴ・アメリカンに対する意識の塗り替えを、国を挙げて図っているように思える。彼らの生活の智恵や哲学を説く書物も多く著されている。昨年は、スミソニアンのミュージアム群に、ネイティヴ・アメリカン専門のミュージアムが誕生した。
米国内だけでなく、日本でもまた、インディアンのジュエリーなど工芸品がはやったり、ヒーリングやインナートリップの地としての注目度も高い。
さて、わたしたちは相変わらず真直ぐに伸びている道をひた走る。やがてキューバ(CUBA)という町でランチ休憩をとることにした。
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