UNFORGETTABLE VISIONS
UPLOADED: FEBRUARY, 2004

Vol. 31 - 60


31. OAXACA, MEXICO, 1992

自分が、実はアルコールに弱くはないのだということに気づいたのは、紛れもなくこの日のことだ。

トウモロコシの歴史と、メキシコの伝統料理を追う取材だった。
オアハカのはずれの小さな村で、結婚式が行われているのを偶然見つけ、取材をさせてもらった。
不意の客にも関わらず、何日も宴を繰り広げている新郎新婦、その家族、そのご近所さんたちは、
我々を、まるで友人のように歓待してくれた。調子の外れた楽隊の演奏。のろのろとしたダンス。
酒を飲み、語り合う男たち。屋外の厨房で、料理をしながらおしゃべりする女たち。
あっちこっちで、ビールやら、テキーラやら、ラムやらを、次々に勧められた。
普段は、すぐに顔が赤くなって酔っていたはずなのに。この日は、いくら飲んでも、酔わなかった。


32. SUZHOU, CHINA, 1992

会社員時代。仕事でも旅行が多かったのに、休暇でも旅行に出かけた。
このときが、初めての中国だった。上海、蘇州、無錫を列車で巡った。
顔かたちは日本人と似ているけれど、彼らの暮らしぶり、気質の、あまりの違いに、とても驚いた。
街中にエネルギーがほとばしっていた。街中に自転車のベルの音が響き渡っていた。
蘇州では、自転車を借り、人民に紛れて走った。ベルを1回引き寄せると、一気に3回、
「チャリン・チャリン・チャリン!」と鳴ることを学んだ。

食事は、たいてい街角の込み合った食堂でとった。探すまでもなく、どれもおいしそうに見えた。
路地裏で、店先で……。この国では、何かを食べている人を、よく見かけた。


33. MECHELEN, BELGIUM, 1999

ベルギーの、メッヘレンという街。ここはカリヨンの学校があることで知られている。
カリヨンとは、教会の塔に設けられた大小数十の鐘を鳴らす、楽器のこと。
聖ロンバウツ大聖堂には4オクターブのカリヨンが二組ある。それを見学に行った。
ピアノの鍵盤のように並んだ棒状の鍵盤を、拳や足で打ちながら、鐘を鳴らすという。

案内のお姉さんが、「打ってもいいわよ」というので、鍵盤を一つ、拳で叩いてみた。

わたしの打ち鳴らした鐘が、街全体に響き渡った。


34. GRANADA, SPAIN, 1999

1996年にニューヨークに移り、ARVINDと出会って以降は、彼との二人旅が増えた。
夏冬の休暇のたび、二人でどこかへ出かけた。わたしは、自分の好きだった場所を旅先に提案した。
ベルギーもそうだし、イタリアからフランス、スペインに至る地中海沿岸、
それからスペインのアンダルシア地方、ポルトガルもそうだった。それに、富士山や京都、湯布院も。
二人だと、一人の時よりも、食事が楽しい。「おいしい!」「おいしいね」と言い合いながら食べる。
これは、チューロと呼ばれる揚げパン。店頭で見つけるや、吸い込まれるように店内に入る二人。
トロリと濃厚なチョコレートドリンクを付けながら食べるのが、ともかく楽しかった。


35. LISBOA, PORTGAL, 2000

リスボンの旧市街を巡りながら、「ここは、インドに似ていて、何だか懐かしい」とARVINDは言った。
そんな彼は、日本のカステラがとても好きだ。
「日本のカステラはポルトガルから伝来した。ポルトガルのオリジナル名はPAO DE LOである」
ガイドブックの記述を、わたしが口にした瞬間から、カステラの源を探す旅が始まった。
何軒ものお菓子屋さんをのぞきこみ、ついに見つけたPAO DE LO。その時の感動といったら!
わくわくしながら、かなり大きなそのお菓子を買い、ホテルに持ち帰って食べた。
日本のカステラよりも、きめが細かくて、ふんわりと柔らかい、スポンジケーキのようなお菓子だった。
とても、おいしかった。次の日も、スーパーマーケットで見つけたので、買った。おいしかった。


36. SINGAPORE, 1991

シンガポールに、ハウパー・ヴィラという、摩訶不思議なアミューズメントパークがある。
かつて「タイガーバーム・ガーデン」と呼ばれていたところだ。
取材のために訪れ、ライター、フォトグラファーとともに、観客席でショーを見ていた。
観衆のなかから何人かが、出演者に舞台へとひっぱり出された。わたしも連れて行かれた。
なぜかわたしだけ、奇妙なガウンを羽織らされ、そしてみんなで一緒に踊らされた。
右から3番目。結構ノリノリで、まるで出演者のように参加しているのがわたしである。
いったい、何をやっていたんだか。


37. SIENA, ITALY, 1998

イタリア、トスカーナ地方の古都シエナ。わたしがとても好きな街の一つ。
中世のころ、フィレンツェと勢力を競い合っていたが、結局は負けた。
そのお陰で、近代化が阻まれ、そのお陰で、いつまでも、味わいのある過去が息づいている。
二度目の訪問はARVINDと。この街で出会った料理のおいしさは、一言では語れない。
到着した直後。遅めのランチをとるためにふらりと入ったこの店。そのキノコのリゾットのすばらしさ。
これが、これこそが、リゾットなんだ! と、目からうろこが落ちた。
なぜかシエナでは、写真を余り撮っておらず。
これは料理を待つ間、旅のジャーナルを書かされているARVIND。


38. PUIGCERDA, FRANCE, 1991

「ボーダレス」という言葉が流行っていた時代。その機関誌の海外特集のテーマもまた、「ボーダレス」だった。だから取材旅行は国境地帯を敢えて走ったりした。フランスとスペインを隔てるピレネー山脈のあたり。国境にあるアンドラ公国に立ち寄り、それからスペイン領に入り、スーパーマーケットで食料を調達し、「ピクニック」を演出した撮影をする。撮影を終え、車内で同行のスタッフとランチを食べていた。すると、小銃を抱えた数名の男性が、窓をゴンゴンと叩く。驚く。ときは折しも湾岸戦争の最中。海外渡航は自粛を促されていた折の取材。あちこちの国で、場所で、厳戒態勢がしかれていた。国境付近の道路で、うろうろする東洋人3人は、近隣の住民に怪しまれて、警察に通報されたようだった。事情を説明して、事なきを得たが。
いったい、何をやっていたんだか。


39. SOMEWHERE, ANDALUSIA, SPAIN, 2000

そのころ、まだARVINDは運転免許を持っていなかった。だから旅行の時、運転するのはわたしだった。
わたしとて、ペーパードライバーで、だから初めての道を走るのは、なかなかにスリリングだった。
本来なら、助手席の彼がナビゲーションをすべきところだが、彼は類い希なる方向音痴である。
本当に、よく道に迷った。特にヨーロッパは市街に入ると、道が込み入っていて、迷いやすい。
「空腹」「トイレに行きたい」「道に迷った」。この三拍子が揃うと、たいてい理性が失われる。
「どっちを曲がるの?!」「知るもんか!」 もめるたび、後部座席に放り出される地図。
このときは、本当に、どこだかわからない道に紛れ込み、けれど、とても見晴らしのいい場所に着いた。
「わたしは写真を撮影してるから、あなた、あそこで道を聞いてきなさいよ」
赤い服を着ているのが、地図を片手にふてくされて歩いていくARVIND。


40. REIMS, FRANCE, 1999

人が何かを作ったり、或いは何かが作られる工程を見るのは楽しい。歴史や伝統が色濃い場所では特に。
フランス、シャンパーニュ地方のランス。いくつものシャンパーン・ハウスが点在する街。
私たちは、その美しい建築で知られるポメリー(Pommery)を訪れた。1858年、39歳で夫に先立たれたポメリー夫人は、夫のビジネスを引き継ぐ決意をした。彼女の類い希なる手腕により、ポメリーは着実に成長を遂げる。そして1874年、辛口のシャンパーンであるブリュト(Brut)を世界で初めて世に送り出した。それはシャンパーンの歴史に残る一大事だった。彼女の他界後は、二人の子供たちがビジネスを引き継いだ。

そのシャンパーンの蔵には、何十年も眠り続けている無数のボトルが、どこまでもどこまでも、あった。
世界中へ毎日のようにどっさりと出荷されていながら、尽きないボトル。ここでは、10年や20年が短い。
区画ごとに、世界各地の地名が、ペンキで記されていた。きっと100年後も、こんな様子のままだろう。


41. ASSISI, ITALY, 1994

いくつの宿に泊まったか知れない。
鮮やかに、記憶に残っているのは、何も高級で、ラグジュリアスなホテルだとは限らない。
小さくて、安くて、だけど個性がある、そんな宿は何年たっても、くっきりと思い出せる。
その場所で、自分が何を考えていたかさえも。

アッシジの、その修道院ホテルもまた、心に刻印された宿。毎朝、礼拝に出た。
名古屋空港での航空機事故が世界中の新聞に記された日の翌日、シスターは犠牲者の冥福を祈った。

簡素な部屋の、ベッドの枕元の壁に、キリストの十字架が、ひっそりとかけられていた。


42. COOPERSTOWN, NEW YORK, U.S.A., 2000

ダブルデー・フィールド。世界で初めて、ベースボールの試合が行われた場所。
ニューヨーク州の中部にあるクーパースタウンは、ベースボール発祥の地として知られる小村だ。
ほんの数ブロックしかないメインストリートには、ベースボールにまつわる店が軒を連ねる。
そして、村の中心にあるのが、「ベースボールの殿堂と博物館」。
この、のどかな村に滞在した2泊3日。取材をしながら、何度も父のことを思い出した。
「野球が青春!」だった父。取材の数カ月前に、肺がんが発覚した。あれから3年余り。
父は今でも、とても元気に、病気と闘っている。
どうしても、父をここへ、連れて行きたい。キャッチボールをしたい。


43. WEIMAR, GERMANY, 1991

ベルリンの壁が崩壊してまもないドイツ。冬。旧西ドイツのアウトバーンは、なめらかに車を走らせる。
検問所の残骸を横目に、かつての国境を越え、旧東ドイツに入った途端、悪路。殺伐とした風景。
しかし、ワイマールの街はちがった。そのひっそりとした、麗美な街の有り様。時間が巻き戻される。
200年ほど前、芸術の街として栄えた土地。ゲーテが宰相をつとめ、リストやシラーが住んでいた。
旅行者もほとんどなく、そこは本当に、静かだった。このあたりは陶器で有名で、マイセン窯も近い。
これは、ワイマールの、真新しい陶器店で買ったワイマール・ポーセリンだ。
東西ドイツ統合で、これから街が激変するであろうことを予感させたころ。
この店の店員はまだ、「クレジットカード」というものの存在さえ、知らなかったのだ。


44. RIALTO BEACH, WASHINGTON, U.S.A. 1999

いったい何人のフォトグラファーたちと、一緒に取材旅行へ出かけただろう。
それぞれの人が、それぞれのやり方で、風景を、人を、物を、捉える。

常に重い機材を抱え、真剣な表情で、ひたすら、シャッターを切る人。がいるかと思えば、
心配になるほどの軽装で、観光旅行者のようにひょうひょうと、カメラを構える人。がいる。
たとえ、同じ企画で、同じ場所を、同じルートを巡ったとしても、
別のライター、別のフォトグラファーで旅をしたら、まったく違う記事ができあがる。
いずれにしても、「撮りたい」と思うものを目がけて、ズンズンと歩いていく人の後ろ姿はかっこいい。

(写真に写っているのは、米国西海岸を約3週間、一緒に旅したツチヤさん)


45. BRIGHTON,U.K., 1995

犬と飼い主って、どうしてこんなにも、似ているんだろう。

自分に似ている犬を飼うから?
それとも、だんだんと、似てくるの?


46. SEVEN MILE BRIDGE, FLORIDA, 2000

マイアミから、ひたすら南西へ向かって、車を走らせる。
Over Seas Highwayは、400を超える島嶼からなるフロリダ・キーズのただ中に横たわる。
島から島へ、40以上もの橋を渡って、最南端のキーウエスト島まで走るのだ。
ドライブのハイライトは、7マイルブリッジ。
その名の通り7マイルの橋が、延々と、大海原に伸びている。まるで海の上を滑るように、走る。
そして、キーウエスト。
鬱蒼と茂る緑や、色鮮やかなブーゲンビリアやハイビスカスや、気だるい潮風が、迎えてくれる。
財宝が沈む海、ハバナ・シガー、美しい巻き貝、水平線に落ちる夕日……。


47. QUEENSTOWN, NEW ZEALAND, 1991

「ねえ、坂田さん、やってみない?」
「え〜、いやだよ。ウチダさんこそ、やれば?」
「坂田さんがやるんだったら、僕もやる。このチャンスを逃したら、もう一生、バンジージャンプする機会なんてないかもよ。それに……日本に帰ったら、自慢できるよ!」
フォトグラファーにそう言われ、やってみようという気になったわたしもわたしだ。
高さ43メートルのカワラウ橋から、川を見下ろしたときの、あの恐ろしさ。頭の中が、真っ白になった。
あの瞬間ほど、自分の愚かさを呪ったことは、あとにも先にもない。
しかし、いったん宙に身体を放り出すと、恐怖は消えた。ボヨ〜ン・ボヨ〜ンと中空で上下する身体。
この写真はそのときのわたしだ。帰国して会社の人たちに、自慢げに報告した。
「えーっ、坂田君、勇気あるなあ! すごいなあ!」と社長はほめてくれた。
「なんでそんなことしたんや。もし君に何かあったら、どうするつもりやったんや!」と上司は怒った。
今思うに、怒られて当然かと思う。いったい、何をやっていたんだか。


48. SHANGHAI, CHINA 1992

上海。ふらふらと街を歩いていたら、行列。行列の源をのぞき込むと、おいしそうなものが!
迷わず列の後ろに立ち
待つことしばし。しかし、道なかばにして、閉店! あまりにもむごい仕打ち。
翌々日の朝。訪れていた蘇州の街で、似たような物を見つけた。喜び勇んで食券を買い、店へ入った。
油がぎとぎとのテーブル。床はゴミだらけ。食べるそばから痰を吐くおやじ。汚らしい店内。
しかしそんなことなど、気にしている場合ではない。食べずに去れるか。
餃子と小籠包を混ぜ合わせたような存在感。見た目はたこ焼き。いかにも食指を動かす形状。
一口かじると、中からスープが飛び出して、顔にかかった。あちっ。気をつけて食べなきゃ。
豚肉の旨味と肉汁の風味。ほどよい歯ごたえ。もう、おいしいったらありゃしない。夕食もここで食べた。


49. CORDOBA, SPAIN, 1999-2000

ピレネー山脈の向こうはアフリカだ。かつてナポレオンにそう言われたイベリア半島。
スペインとポルトガル。たとえばスペインの、独特の空気は、カソリックとムスリムの混沌。
1999年12月31日。2000年になる瞬間を、わたしとARVINDはコルドバの広場で、土地の人々と祝った。

1000年前。前回のミレニアムのころ、コルドバはイスラム世界の中心地であり、
世界で一番、栄えていた街だったということを、帰国してから知った。今はあまりにも静かな地方都市。
グアダルキビール川が、1000年、2000年、そして3000年と流れ続ける。


50. UBUD, BALI, INDONESIA, 1992

村を、自転車で走った。
鮮やかな緑色をしたライスフィールド。
森のさなかに舞い降りる白鷺。
ピーナッツのソースがたっぷりと添えられたサテー。ナシゴレン、ミーゴレン。
かき曇る空、スコール。湿った土と緑の匂い。

あらぬ方角見つめ踊るダンスを見ながら、聞きながら、呆けたように自分の在処をさぐる夜。

色とりどりの果物を頭上に載せて、色とりどりの服を着て、
女たちが向かっているのは、葬送の儀式。


51. PRAHA, CZECH, 1994

途方に暮れてしまうほど、これは好きな情景のひとつ。

地球上には、そういう情景が、ともかくも限りなく、散りばめられていて、

だからそれを、見つけに行く。


52. BRUGGE-DAMME, BELGIUM, 1999

旅先で、自転車を借りて、スイスイと走るのは、旅をしていてとても楽しいことのひとつ。
ベルギーのブルージュから、田園地帯を貫く真っ直ぐな道に沿って、ダムという隣村へ行った。
ブルージュとダムは、
運河で結ばれていて、運河沿いには舗装されたサイクリングロードもある。
フランドルの、見晴らしのいい田園地帯を、ARVINDと一緒に走る。風の匂いも、草の匂いも、いい。
12マイルを走り、ダム村でランチを食べ、しばらく村を散歩したあと、ブルージュに戻ろうとした。
ところが突如、晴れていた空がかき曇り、大粒の雨が降り出した。わたしたちは村に引き返して雨宿り。
30分ほどもしたら、雨はやんだ。まだ雲は厚いけれど、もう降ることはないだろう。再び自転車を駆る。
こんなふうに、グレイの、不安な色をした空もまた、フランドルには似合う。好きな風景。


53. BEIJING, CHINA - ULAANBAATAR, MONGOLIA, 1992

北京発。週に一度の国際列車は北を目指す。我が目的地はモンゴルのウランバートル。
日本で予約していた一等席の引換券は、北京で切符を受け取るとき、二等席になっていた。
窮屈な4人用コンパートメント。乗客は、ウランバートルやイルクーツク、モスクワへ向かう商人らだ。
私と同室だったのは22歳のニェンモチル(左)。その友達のバッドバヤル(右)が、よく遊びに来た。
18歳のバットバヤルは、国境駅で買い占めたビールを、四六時中飲んでいた。
言葉は通じないけれど、いろいろと話した。彼らは、夜と朝、わたしを食堂車へ連れていってくれた。
そして2回とも、彼らはごちそうしてくれた。さらには、
朝食をぺろりと平らげたわたしを見て、
もう一皿追加してくれた。彼らの方がだいぶ若かったのに、まるでお兄さんのようだった。
36時間だけの、忘れ得ぬともだち。 
モンゴル旅日記


54. TE KUITI, NEW ZEALAND, 1992

ファーム・ステイの取材。181ヘクタールという広大な土地を持つ農家で数日を過ごした。
花々が咲き乱れる庭、見渡す限りの牧草地、羊の群、澄んだ水の渓流……。
釣りをしたり、羊の毛刈りを見たり、バーベキューをしたり、森を散策したり……。
こんなにほのぼのとした取材は珍しい。スタッフの人柄もまた、旅を楽しくさせた。
フォトグラファーのノムラ氏、ライターのコバヤシ氏、陽気な二人との旅は、笑いが絶えなかった。
釣りに出かけた彼らが、深夜になっても戻ってこず、ステイ先のおじさんと探しに出かけた。
道に迷って、うろうろしていた彼らを発見したときの安堵。
そのときは慌てても、あとになって鮮明に思い出すのは、むしろハプニングの記憶。


55. SHANGHAI, CHINA, 1992

マーケット、マルシェ、メルカード……。どの国でも、どの街でも、「市場」を巡るのは楽しい。
上海の三角地菜場へ行ったときのメモから。
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市場は殆どが露店だ。鶏の首を切り血を捨てている人、ドジョウを割いて幾匹も並べている人、大声で値段交渉する人、生きたままの鶏や、まるごとの魚を抱えて帰る人々……。全てが賑やかでとにかくうるさい。みんな怖いくらいにテンションが高い。ある肉屋の親子は大声で口げんかをしながら商っている。娘さんは怒りの余り、涙を流しながら母親を罵っている。そうしながら、お客に肉塊を手渡している。よくわからないが、やけにエキサイティングな人たちだ。
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市場にはいくつかの小さな食堂があって、蒸籠から湯気が立ちこめているのが見えた。わたしは、小汚い食堂で、不格好な肉まんと、春雨や湯葉、油揚げなどがぐちゃぐちゃと入ったスープを食べた。こうして、初めてのものを口にする瞬間は、なにしろ、心が躍るものだ。


56.GREAT BARRIER REEF, AUSTRALIA, 1994

世界最大のサンゴ礁、グレートバリアリーフ。そこには600を超える島々が浮かんでいる。
その一つであるハミルトン島は、リゾートアイランドとして有名なところ。
こんなすてきなところへ、恋人と、ではなく仕事で訪れた。

ひとりで過ごすには、なんだか惜しいと思えるくらいにゴージャスなホテル。
まばゆい朝日で目を覚まし、窓を開けば、眼下に鮮やかな、青い海。
あたりを舞い飛ぶのは白い鳥。その一羽が、わたしのバルコニーにやってきた。
白い鳥らは、この愛らしい、黄色い冠を被ったオウムだった。
鳥が好きなわたしは、野生のオウムをこんな風に眺められただけでも、感激の朝だった。


57. GRANADA, SPAIN, 2000

コロンバスが「新大陸」を発見した年、イベリア半島での800年に亘るイスラム支配が幕を下ろした。
ここ、アンダルシアのグラナダで。
グラナダの名を世界的に知らしめているのは、アラビア芸術の結晶、アルハンブラ宮殿。
小高い丘の上の城塞に立つ壮麗な建築物と、優美な庭々。
こんなにも、観光客が徘徊していても、限りなく静謐な風景。

丘を下りて、街を歩く。
アラブの香りがする路地を、ゆるゆると歩く。
薄暗いティーハウスで、アラブの音に包まれながら、甘いミントティーを飲む。
なにも語らず、ただぼんやりと、二人キャンドルの炎を見つめながら。


58. ALASSIO, ITALY, 1994

地中海沿い、リビエラ海岸。
イタリアから南フランスへ入る前に、海辺の町で列車を降りようと思った。
だから、車窓から見え隠れする海を見ながら、どの駅で降りるべきかを、見極めていた。

その海は、アラッシオ、という小さなリゾートの街だった。駅を出て、海辺に向かって歩く。
ブティックが軒を連ねるプロムナードを歩き、まだ季節には早いリゾートホテルのドアを開ける。
窓を開くと一面海の、すばらしい眺めの部屋に通された。青いベッドリネンと青いカーテン。

朝、波の音で、目を覚ます。水平線から上る、こんな朝日を見るのは、初めてのことだった。


59. ULAANBAATAR, MONGOLIA, 1992

わたしが小学生だったときの、クラスの男子たちに、本当によく似ていた。


60. WARTHING, U.K., 1995

3カ月間の語学留学。静かな海辺の町で勉強したくて、ここを選んだ。
老夫婦の家でホームステイをしながら、学校に通った。
この町にいるときに、唐突に、閃いたのだ。

「来年は、ニューヨークに行こう。それもできるだけ、長い間。」

まだ、ニューヨークへは、一度も行ったことがなかったのに。


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