片隅の風景の、原点。

■毎日の暮らしの中から、心に留まった一コマを切り取り、言葉を組み合わせる。その作業が、最近は、とても楽しい。

コンピュータ、インターネット、そしてデジタルカメラという機械らのお陰で、気負いもなく、とても気軽に、簡単に、毎日の記録が続けられる。

■先日、書棚を整理していたとき、大学時代のファイルが目に留まった。上の写真が、それだ。パラパラとめくりながら、ああ、そうだ。これが、片隅の風景の原点だった、と思い出した。

大学2年の夏休み。どんなテーマでもいいからレポートを出すよう教授に言われた。わたしは、自分の故郷である福岡市東区、香椎・千早・名島周辺の「埋め立てによる海岸線の推移」についてを調べた。

わたしは、周辺の小・中・高校の「校歌」を、その調査の「鍵」と位置づけた。暑い夏の数日、図書館に行き資料を探したり、あちこちの学校を巡って、校歌を書き写させてもらったりした。

■博多湾埋め立ての歴史は古く、たしか明治時代までに遡るのではなかったかと思う。古くは、現在の「国鉄香椎駅」あたりまでが海だったが、今や海岸線ははるか遠く彼方。

埋めてられた香椎潟には、現在、無数の団地が立ち並んでいる。

わたしが幼少期を過ごしたのは「福岡市東区名島汐見町」という名前の町だった。「汐見」という名のとおり、自宅から数分も歩けば、寄せては返す波が在る「海岸」があった。

3歳になるかならないかの、夏の夕暮れ時。浴衣を着たわたしは、父に手を引かれて、波打ち際を歩いていた。ふと、砂に足を取られ、下駄の赤い鼻緒が切れた。

歩けなくなったわたしを背負い、鼻緒が切れた下駄を持って、父は再びゆっくりと歩き出した。

あの夕暮れどきの光景が、わたしにとっての「汐見町の海」の、最初の記憶だ。

■「汐見町」の海は、わたしが小学校に上がる前に埋め立てられ、瞬く間に団地が建設された。やがては「汐見町」という地名すら、なくなってしまった。

わたしはすでに、5歳ほどのころから、失われた海に対する郷愁を心の隅に抱いていた。事情のわからない子供には、海が消えることはあまりにも不条理な出来事だった。

年を重ねるごとに、海岸線はどんどん遠くなる。

ハングル文字が綴られた、洗剤のボトルや空き缶が流れ着く、異国への好奇心をもかき立てられる場所が、遠くなる。

消えてしまった光景を、幼いわたしは時折、懐かしんだ。

■周辺の学校の校歌には、予想通り、「海」に関する言葉が散りばめられていた。

「朝日に映える玄界灘の……」
「香椎潟、千早の里は、緑濃き、森のやしろよ……」
「朝日輝く 香椎潟 窓を開けば 新潮(にいしお)の……」

現在のようにインターネットがあれば、わざわざ出歩かなくても情報は得られたろうが、当時は、歩くしかなかった。

わたしはカメラを携えて、ひたすら歩いた。汐見の海の上に建てられた、いくつかの新設校にも足を運んだ。

団地の群の中を歩いているとき、いいしれぬ感情が襲ってきて、何枚かの写真を撮った。研究とは関係のない、しかしそのままにしておくことができなかった幾枚かの写真を、小さなクリアファイルに貼り付けた。

そして、そこに、言葉を添えた。

大学生だったとはいえ、感情は子供時代の延長で、言葉ばかりが、背伸びしていた。それでも、今読み返すと、当時の自分の切なる感情が、今のわたしの心に刺さる。

当時、写真と言葉とを組み合わせて、自分の思うところを表現することが、とても興味深いことに思えた。

けれど、それ以降は、数枚の写真を撮ったきりで、その作業はいつのまにか、やめてしまっていた。

■いま、こうして、自分のホームページを持ち、本当に、たやすく、自分の視点と自分の言葉を、形にできる。それが、とても幸せなことに思える。

福岡に住む両親は、この「片隅の風景」を見ることを、楽しみにしている。遠く離れていても、なんと近いことだろうか、とも思う。

■物事の興味には、きっと因果関係がある。

過ぎ去った時間が、混沌と入り交じって、今のわたしがここにいる。

記憶があるということの、懐かしむということの、すばらしさ。

そうして、前に向かって、歩いていく。

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