坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ
Vol. 98 6/18/2003
久しぶりに大幅に髪を切ったり(長髪から中髪へ。ちなみに東京時代は超短髪)、腰痛再発につき「REIKI(霊気)」に行ってみたら、いい感じで治癒しつつあったり、阿川尚之公使の講演に行ったり、またも日印カップルでパーティーしたりと、書いておきたい事柄はあれこれとあったのですが、すべて「二つの事件」で霧散しました。 一つは、ついにグリーンカード、つまり永住権を取得することができたこと。 もう一つはインド人一家がとうとうやって来たこと。 それもいつの間にか予定が延びていて「滞在1カ月以上(!!!!!!!!!!!!!)」になっていたこと。 この二つの出来事を前にして、他のトピックスはいずれも影が薄いため、今日は2点に絞って書くとします。
●ついにグリーンカード取得! それは6月11日水曜日の夕方だった。郵便受けを開けると、移民局(イミグレーション)からのレターが、わたしとA男あてにそれぞれ一通ずつ届いている。いつもなら、部屋へ向かうエレベータの中で、封筒をビリビリと破いて中を確認したりするのだが、その日はしなかった。 他の郵便物を無造作にテーブルに置き、移民局からのレターだけを恭しく持って、デスクに向かい、椅子に座る。まずは自分宛のメールから、封筒の端を、注意深く、丁寧に、ハサミで切り落とす。 中には一枚の、見慣れた移民局のフォームが入っていた。深呼吸して、冷静に、ゆっくりと、文字を目で追う。 「あなたの永住権申請は認可されました。ついては、下記の要領に従って、指定の移民局に出頭のこと……」 間違いない。ようやく、ついに、とうとう、やっとのことで、永住権を手にすることができるのだ。 不思議と、静かな心境だった。 たまたまその日、腰痛が再発していたこともあり、噂に聞いていた「REIKI」のセラピストを訪ねて「気」の調子を整えてもらっていたせいだろうか、感情に抑揚がなく、なんだか他人事のような気分で、「よかった」と思った。 1996年に渡米する直前から、思えばビザとの戦いは始まっていた。1年の語学留学予定で学生ビザを申請していたにも関わらず、すでに30歳になっていたわたしは、半年期限のビザしかもらえぬまま渡米した。 思いがけずこちらの日系企業に職を得て、H1Bビザと呼ばれる専門職ビザ(一時就労ビザで期限は計6年・要更新手続き)を取得したものの、本来なら在日米国大使館に郵送で手続きできるはずのプロセスが弁護士の手落ちで一時帰国を要求された。このころから、ビザを巡ってのさまざまな「面倒」が始まった。 古くからの読者はご存じだろうが、予定の一年を過ぎてもニューヨークに滞在することを決めたわたしは、どうしても独立したく、あれこれと調べた末、就労ビザの「自給自足」をするため、ミューズ・パブリッシングを設立した。 以来、これまでの6年間、思い出すだにゾッとするようなビザ、弁護士、移民局を巡る攻防が、何度繰り返されたことだろう。A男にせよ、わたしにせよ、これまで、この国に正当なステイタスで就労することを優先順位のトップに置いて、方向性を選択してきた。 ビザを巡るさまざまな苦悩に立ち向かっている人は、この国には無数にいる。無数の事情がそこにはあり、無数の困惑に満ちている。それでも、人にはそれぞれに、この国で暮らさねばならない、暮らさずにはいられない、何らかの理由がある。 たとえば、渡米当初、永住権抽選に当選していたり、あるいは米国人との婚姻によって苦労なく永住権を手にしていたら、今とはまったく違った人生を送っていたかもしれない。ミューズ・パブリッシングを設立することもなかっただろう。それから先の「もしも」は予想が付かない。 いろいろあったが、今となっては、いかにも優等生的なコメントではあるが、 「なにもかもが、これでよかったのだ」と思える。 7年という歳月が、長いか短いか、知らない。でも、今のわたしには「ちょうどよかった」と感じる。今となっては、本当に、ちょうどよかった。 A男にしても、永住権を手にするまでは、今の会社を辞められないという、どこかいつも切迫感があった。それは目に見えない力で首根っこをつかまれている感じである。無論、永住権を手にしたからといって、会社を辞めようというのではない。 自分は「自由に移動ができる」とわかっていれば、同じ場所に立ち続けることも苦ではない。「決して動くな」と脅迫されて立ち続けるのとは、精神的なゆとりが違う。 実はわたし自身のH1Bビザはすでに去年、有効期限の6年を終わることになっていたので、それに続くビザとして、別の就労ビザ(ジャーナリスト・ビザ)を申請する手続きを進めていた。 しかし、A男が就職し、幸いにも彼のキャリアだと短い期間でプロセスが終了するとわかり(といってもテロや戦争の影響で、最終的に2年半かかった。ちなみに申請から取得まで5年6年はざらである)、弁護士によると、妻は途中からプロセスに合流できるというので、ジャーナリスト・ビザの申請を途中でやめ、A男と一緒に申請させてもらうことにしたのだ。 だから、わたしの場合、A男のお陰で永住権が手にできた、というわけだ。 わが性格上、なんとか自力でグリーンカードを取りたいと考えていたが、弁護士によれば、ミューズ・パブリッシングの力では、わたしのスポンサーになる「力量」が不足しているらしく、たとえ永住権を申請したとしても何年かかるかわからないと言われていた。 だから、多少の葛藤はあったにせよ、A男と同時に取得できたことは、実にありがたく、また幸運なことだった。 帰宅したA男に移民局からのレターを見せると、とても喜んでいた。レターを持って移民局に行くのは、平日の午前中ならいつでもよかったのだが、翌々日からインド人一家が来ることもあり、その前に取りに行こうということで、翌日木曜日、彼は会社を休んで一緒に行った。 10時半頃、指定されたヴァージニア州アーリントンにある移民局に到着。必要書類に指紋を押したり、あらかじめ用意していた顔写真などを渡した後、パスポートに永住権所持者であることを意味するスタンプを押してもらう。 ちなみにグリーンカードと呼ばれる身分証明書(外国人登録受領証)は、半年から1年以内に郵送されてくるらしい。何ゆえに、そんなに時間がかかるのか、相変わらず意味不明かつ緩慢な手続きの多い移民局だが、ともかく、このスタンプさえあれば、永住権と同様の効力があるから構わない。 これでもう、何にも煩わされることなく、堂々とこの国に暮らし、堂々とこの国で仕事ができる。いつでも出たいときに海外に出られ、いつでも戻ってこられる。空港の出入国管理で足止めを食うことも、非礼な扱いを受けることもない。 それにしてもこの日の移民局のスタッフはみな「驚くほど好印象」で感じがよかった。最終段階で、 「このスタンプは、本当に、永住権の資格があるんでしょうね!」と、くどいほど、何度も尋ねるA男に、 「長いこと待たされたから疑いたくなる気持ちもわかるけど、でも、もう、何の心配もないんですよ。これさえあれば、大丈夫」 と、気のよさそうな黒人のお兄さんは、さもおかしそうに、笑いながら答えた。 晴れやかな気持ちで移民局を出たあと、入り口の前で二人並んで記念撮影をし(何となく)、ジョージタウンのシーフードレストランへランチを食べに出かけた。 運河を見下ろす窓辺の席に座り、スパークリングワインで乾杯し、好物のクラブケーキ(カニ肉料理)を食べた。 そのあとなぜか気前よく、新しいサンダルを買い、オープンしたばかりのKATE SPADEでピンク色(内側が若草色)のかわいらしい財布を買い、満ち足りた午後だった。 ------------------------ ■「永住権」と「市民権」の違い 「永住権」と「市民権」について混乱している人が多いようなので簡単に説明する。 「永住権: permanent residence」とは、生涯にわたって、米国に自由に出入りでき、かつ自由に仕事ができる権利であるが、あくまでも「外国人」に対して与えられるものである。 他のビザなどが「非移民ビザ」と定義づけられているのに対し、永住権は「移民ビザ」という定義がなされている。つまり、わたしは、これまで7年もの間、A男に至っては10年以上、米国に暮らしていたが、二人とも「移民」ではなかったわけだ。 永住権は、長期間、米国を離れて生活すると剥奪される恐れがあるほか、選挙権も陪審義務もない。また、不動産の購入や遺産相続など、さまざまな面において、あくまでも「外国人」として扱われるため、市民権保持者に比べると不利な点は多い。 永住権がグリーンカードと呼ばれている理由は、かつて、永住者のID(身分証明書)である外国人登録受領証(I-551/alien registration receipt card)がグリーンだったことに由来する。現在はグリーンではない。 グリーンカードは10年ごとに更新が必要となるが、新たなカードに書き換えることが目的で、改めて審査が行われるわけではない。 一方、「市民権: citizenship」とは、米国の「国籍」を有する人のこと。「市民権を取得する」ということは日本における「帰化する」という言葉に等しい。 たとえ両親が日本人で市民権を持っていなくても、米国で子供を生むと、その子供は自動的に市民権の保持者、つまり「アメリカ人」になる。 ただし、日本国は「二重国籍」を認可していないため、成人する際に、米国と日本のどちらか一つの国籍を選択せねばならない。 ちなみに、移民が市民権を獲得するには、永住権を取得して、少なくとも5年が必要とされる。その後、必要な手続きを行った末、数年を経て市民権を取得することとなる。 市民権を持つということは、アメリカ人であるということなので、もちろん選挙権もあれば陪審義務もある。例えば将来、母国から両親など家族を呼びよせる場合、市民権を持っていると、手続きが比較的、簡単になる。 中国や韓国からの移民の多くは、時機が来たら市民権をすぐさま申請し、祖国から家族を呼び寄せるケースが多いようだ。 わたしがもし、5年後、市民権を申請して取得することになったら、わたしの日本の国籍は抹消され、日本のパスポートは無効となる。書類上のわたしは、「日本人」でなくなり、「アメリカ人」になるというわけだ。 将来、自分が市民権を取得することになるのかどうか、まったく予想もつかないので、今は考えない。ともかく、ひとまず永住権を取得できたことを喜ぼうと思っている。
●ついにインド人一家、到来。 「仲良く楽しくいられるよう努力できるのはどんなに長くても3週間だから、そこんとこ、よろしく」とA男に頼んでいたにも関わらず、義父ロメイシュと義姉スジャータが訪れる数日前になって、義姉からのメールをチェックしたA男が言った。 「あれ? パパとスジャータの帰国予定日が7月15日になってる!」 ええっ? 7月2日じゃなかったの? いつのまに? なんで? どういうこと? 詳細は省くが、ともかく、知らないうちに予定が変わっていた。彼らは1カ月以上、滞在するらしい。 1カ月以上。それは1年のうちの1割近く。 1カ月以上。それはまるで、子供の夏休み。夏休みといえば、長い。かなり長いぞ。 たとえば、我が家にゲストルームがあるならまだしも2ベッドルームだ。一部屋は我々のベッドルーム、もう一部屋はミューズ・パブリッシングのオフィス、つまりわたしの書斎、残るはリビングルームのみである。 彼らには、リビングルームのソファーベッド(2つ)に寝てもらう予定だが、それにしたって、1カ月は長い。 毎日の、朝晩の食事、土日の全日、それに加えて10日間は、前回のメールマガジンに書いたが、ボストン経由でラスベガス、及び国立公園の旅で「ベッタリ同行」である。その翌週の独立記念日(3連休)は例のヴァージニア州にある温泉宿へ2泊3日する予定である。 こう書いていると、なんだか楽しそうに思えるかも知れないが、いや、実際楽しいのかも知れないが、いや、そうは問屋が卸さない。 考えてもみてほしい。気の合う友達、あるいは肉親とだって、数日間も一緒にべったりといたら、もめ事の一つや二つ、発生するものである。それを、文化も生活習慣も食習慣も価値観もなにもかも違うインド人と1カ月も共有するのは、なかなかに強烈だ。 あいにく、夫の家族はやたらと温厚でのんきだから、「いやだわ」などとぶつくさ思ってしまうわたしが、自分自身を責めてしまうことにもなり、精神衛生上、よくない。 まあ、わたしがここで改めて書くまでもなく、このような経験をしている人はごまんといるのだろうけれど、書かずにはいられない。それでもって、「それしきのことで憤慨するとは甘い」などとお思いの貴兄もおられようが、黙ってはいられない。人間ができてないのね、と情けなく思うけれど。 スジャータはイエール大学にて遺伝子学だかなんだかのPh.D.(博士号)を取得したにも関わらず、現在は生物学の研究者かつ教授である夫のもと専業主婦をしている、非常におとなしく、物静かで、だけど話題によっては語り始めると妙に長い、不思議な女性である。 ちなみにA男より2歳年上の32歳。彼女は今、「ヨガ」をライフワークにしていて、毎朝3時間、ヨガをやっているという。毎朝、3時間、である。 インドでは毎晩9時頃寝て、毎朝4時おきらしいが、それだけは勘弁してもらい、10時過ぎに就寝、6時起床にしてもらった。 調子のいいA男は、 「僕もスジャータと一緒にヨガを始めるよ!」 と宣言し、このところ毎晩10時半には就寝、6時に目覚ましを鳴らすという、まるでやはり、夏休みのラジオ体操なみのスケジュールでの生活が始まった。 目覚まし鳴り響き、3人が起きてドタバタやっているのに、わたしも寝ているわけにも行かず、一緒に1時間ほどヨガをやったりして、もう、朝っぱらから健康的なことこの上なく、いやになってしまう。 朝食はともかく、夕飯はインド人の好みを考慮し(だいたい考慮しようがないのだが)、料理の品数も増やすなど、それなりに手間もかかる。金曜に彼らを迎えてまだ5日しか経過していないが、もう、すでに気が遠くなりかけている。 渦中にある現在は、何を書いても単なる愚痴にしかならないため、月日が流れて笑い話になった段階で、書くこともあろうかと思う。それまで何とか、やり過ごそうと思う。 ところで昨日は、スジャータが料理を作ってくれたのだが、肉・魚類を一切使わぬヘルシーで味の薄いベジタリアン料理。むろん、彼らはベジタリアンではないのだが……。 以前わたしが、健康のために週に1、2回は野菜だけにしようとA男に提案した際には、 「僕は絶対、肉か魚か、どっちかなきゃ、いやだ! 野菜だけじゃ退屈!」と言い張り、 やはり健康のため少々薄味にしたときには 「僕は濃い味が好き。インド人はスパイシーな味が好きなんだから」 などと言って醤油(!)をバシャバシャかけていた男が、スジャータが作った、ほとんどスパイスを用いない薄味料理(インゲンの炒め物、豆の煮込み、ホウレンソウとミルクチーズの煮込み)を口にして、 「おいしい! スジャータ、おいしいよ! これだったら野菜だけでもいいな」 などと言いやがったときには、テーブルの下で拳がふるえたね。 いや、実際、スジャータの料理はおいしかったし、本当に健康的でもあるし、いいのだが、わたしの提案には耳も貸さない男が、何を調子のいいことを! と呆れたまでだ。 あれ? わたし、うっかり愚痴を書いているかしら? いけないいけない。 無論、このような事態は、結婚以前から何度かあった。わたしがまだニューヨークに住んでいた頃、付き合い始めて翌年から、ロメイシュやスジャータは泊まりに来ていたし、その後、このメールマガジンの発行を開始する直前にも、2週間以上、行動を共にしたことがあった。 そのときは、A男のMBAの卒業式とMITの同窓会(5年に一度開催で家族も参加する)を兼ねて、フィラデルフィアやニューヨークやボストンをうろうろしたあと、ロメイシュ、スジャータ、その夫のラグバン、わたしたちの5人でイエローストーン国立公園に旅行に行ったりしたのだ。 思えばあのときも、いろいろあった。喉元過ぎて熱さを忘れていたが、今、あの熱さがまざまざと蘇ってきた。ふ〜っ、熱い熱い! そういう意味では、結婚前も結婚後も、さほど変わっていない。ただ、ロメイシュがやたらと、「僕らは家族だから」と口にする以外は。 最初は、インド人の家族ってのも、ユニークだな、などと好意的に捉えていたが、だんだん、「家族だからなんでもありなのか?」という気にもなってきた。 たとえば4人で食事をしているとき、3人の様子を見ていると、ふと、茫漠とした感情にとらわれることがある。 (なんなんだろ。この人たち。わたし、なんで、この人たちと一緒にいるんだろう) と、深く、思索したりしてしまう。大げさか。 身近だったはずの、というか夫であるはずのA男すらも、なんだか「見知らぬ遠い国の誰か」に見えてくるから不思議だ。まあ、こういう感情は、国際結婚に関わらず、誰にでもあることなのかもしれないが。 そういうわけで、これから向こう1カ月、つつしんで、この試練を受け止めようと思う。 (6/18/2003) Copyright: Miho Sakata Malhan |