坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ

Vol. 92 3/17/2003

 


戦争になりそうだ。

1カ月以上ぶりのメールマガジンとなってしまった今日。久しぶりにも関わらず、世の中が混沌の極みで、加えて曇天で、気分が冴えません。

個人的には調子のよい日々を過ごしています。

この1カ月もまた、いろいろなことがありました。まず、雪が多かった。ニューヨークもワシントンDCも例年に比べはるかに積雪量が多く、寒い日が続きました。特にわたしたちが、南仏・スイスを旅行していた2月14日以降の一週間、DCはひどい大雪に見舞われ、空港も一時閉鎖になったりと交通機関にも著しい支障が見られたよう。あの時期、予定通り出国・帰国できたわたしたちはとてもラッキーだったかもしれません。

久しぶりのヨーロッパは、とても楽しい時間を与えてくれました。アメリカ東海岸からヨーロッパは比較的近いし航空運賃も安いし、もっと頻繁に出かけたいと思うのですが、ここ数年はビザの更新などの問題で海外に出られないタイミングもあったので、今回、A男の出張に便乗という形でも出かけられたことはとてもよかったと思っています。

今回の旅は、まずカンヌ(地中海、コート・ダジュールに面した南フランスのプロヴァンス地方)に5泊滞在しました。A男がカンファレンスに参加している間、わたしは列車に乗ってニースその他、小さな村などを訪れました。

A男のカンファレンスが終わった翌日に、TGV(フランス版新幹線)に乗ってスイスのジュネーブへ。ここで1泊した後、A男のリクエストでスイス・アルプスの観光拠点の一つ、グリンデルワルドに1泊。ユングフラウの山頂(標高4158m)にほど近い観光ポイント、ユングフラウヨッホ(標高3454m)まで、登山列車で上りました。

その後、インターラーケンに立ち寄り、夜、チューリヒに到着して1泊、翌朝の便でDCに戻ってきました。

 

……旅行中の具体的なエピソードを書くと、またもや長大なメールマガジンになってしまうので、それはここでは紹介しません。旅の記録は、ホームページの方に「写真日記」として掲載しているので、お時間のあるときにぜひご覧ください。

http://www.museny.com/mihosakata/msmhome1.htm

 

●あぁ。戦争がはじまる。

毎週月曜日の午前中は家事に専念しているが、今日は洗濯をしながら、掃除機をかけながらも、テレビはつけっぱなし。ニュースが気になる。

我が家の窓からはワシントンDCの市街が見下ろせる。

ホワイトハウスも、キャピトルも、ワシントンモニュメントも、ここのアパートメントから見下ろせる近距離にある。今、チェイニー副大統領が外出したのか、いつものように何台ものパトロールカーに先導された車がアパートメントの前の通りを走り去っていった。

米国の首都に住み、こんな身近な場所で、さまざまな決断が下されているにも関わらず、テレビの映像を眺めていると、ホワイトハウスも、バグダッドも、どちらも、自分とは遠いところにあるような気がする。

自らの選択で、この国に住んでいるにもかかわらず、この国を治めている人達のやり方に、自分の心が少しも寄り添っていないからだろう。普段より以上に、自分の存在の「宙ぶらりん」さを感じている。もしもニューヨークに住んでいれば、また違った気持ちかもしれないが。

それにしても、「それがどんな人間であれ」、有力な人はどこまでも有力で、無力な人はどこまでも無力だと思わずにはいられない。「無力」が「有力」になるためには、なにが必要なのだろう。

メールマガジンで戦争に関してのコメントを書くつもりはないが、先週の土曜15日、ワシントンDCでも大規模な反戦デモが行われた。その様子を写真に収め、ホームページに掲載している。わたしのコメントは一切記していないが、写真には、人々が掲げるプラカードが写っているので、彼らの主張は読みとれることと思う。

http://www.museny.com/mihosakata/msmhome1.htm

 

●わたしは「アメリカ合衆国に住んでいる、日本生まれ・日本育ちの日本人」

米国と日本以外の国の旅先で、

「あなたはどこから来たのですか?」

と尋ねられるとき、少々戸惑うことがある。たとえば、それがホテルのチェックインのときや車を借りるときなど、事務的な手続き時の質問ならば、

「米国のワシントンDCからです」

と即答できる。

しかし、世間話などを始めた見知らぬ他人からの質問になると、少々の説明を加えた方がいい場合がある。

「米国のワシントンDCに住んでいますが、わたしは日本で生まれ育った日本人です」

より突っ込んだ会話に発展した場合、あるいは相手が日本に行ったことがある場合などは、

「故郷は日本の南にある福岡という町で、大学を卒業してから上京し、しばらく東京で仕事をしていました。96年からニューヨークに移ったのですが、1年前から、夫の仕事の都合でワシントンDCに住んでいます」

となる。

「わたしは日本人で……」とか「彼はインド人で……」といった会話を繰り返しているうち、無論、それはアメリカで生活をしていても、頻繁に口にする言葉ではあるのだが、「日本人」とか「インド人」とか、「アメリカ人」とかいう表現の「曖昧さ」「覚束なさ」を感じる。

今回、「日頃とは異なる風土」に身をおいたことで、さらにその思いを強くした。

話が少々横道に逸れる。

普段着のまま、気軽に標高3000mを越える地点まで「観光」できる設備を作り上げたスイス人の気質は、いったい何に因るものだろう。アルプスの、登山列車に揺られながら、思いを巡らせた。

ヨーロッパはこれまでも旅をしたことがあるし、南仏やスイスを訪れたのも初めてのことではない。しかし、今回の旅を通して、改めて痛感したことがあった。それは、わたしが日本に住んでいたころにはさほど気にとめなかったことだ。

「国土が、地理が、人格を形成する」

ということだ。当たり前のことだと思われるかも知れない。が、この事実は「グローバルに世界を考える」上で、意外に軽視されているような気がする。

わたしは学者ではないし、専門書を読んだこともないので、人種による先天的な人格の違いというのがどの程度存在するのか、わからない。わからないなりに感じるのは、地理的要素が人格に及ぼす影響の大きさである。

「日本人だから」、一般に繊細で几帳面で礼儀正しくて島国根性なのではなく、

「日本に住んでいるから」、一般に繊細で几帳面で礼儀正しくて島国根性なのだ。

アングロサクソンだろうがゲルマン人だろうがアフリカ人だろうアラブ人だろうが、日本という場所で生まれ育ったら、一般に繊細で几帳面で礼儀正しくて島国根性のある人間性が育まれるのではないだろうか。

圧倒的な迫力を持つ山々を仰ぎながら、自然の力強さを肌に感じながら暮らしているから、スイス人は一般に几帳面になり、頑固になり、精密な時計を作ったりする。

地中海からの暖かい海風を受け、降り注ぐ陽光が心地よいから、イタリア人は一般に朗らかに愛を語り、陽気に歌を歌ってしまう。

年がら年中、灼熱の太陽が照りつけ、ちょっと歩けば汗が流れる、ちょっと働けばどっと疲れる、だからインドネシア人は一般にあくせくしない。

車がなければ生活が成り立たぬほど広大な国土で、都市部をのぞいては家も大きく、だからアメリカ人は一般に、大ざっぱで行動も粗雑で声も大きい。

結局のところ、何が言いたいかというと、「日本人は**だ」とか「アメリカ人は□□だ」といった表現は、非常に曖昧で、数々の誤差を孕んだ言い様ではないか、ということだ。

それよりむしろ、

「日本に住む人は**だ」

「アメリカに住む人は□□だ」

と表現するほうが、的確な気がする。

だって、「日本に住む日本生まれのアメリカ人」の方が、「アメリカに住むアメリカ生まれの日本人」よりも、多分、一般に繊細で几帳面で礼儀正しくて島国根性なはずなのだ。

「市民権」を取得していれば、たとえ英語の話せない移民であれ「アメリカ人」だ。だからチャイニーズやコリアンが、先に渡米し、移民となった(米国籍を得た)家族を頼ってグリーンカードを申請、その後、市民権を得て永住するケースなども多く、そのような「アメリカ人」も確実に存在する。しかし、彼らのメンタリティーや生活習慣は「中国人」もしくは「韓国人」そのものである。

なぜこんなややこしいことを長々と書いているかといえば、わたし自身が、自分の存在感について、最近、非常にもやもやした気持ち悪さを感じているからだ。

わたしは日本人だが、日本に住む日本人ではない。インド人と結婚した今となっては、多分将来も、日本に帰ることはないだろう。「日本が嫌いでニューヨークに来たのではない」と思っていた(思おうとしていた)が、実際のところ、日本はわたしにとって、住み続けたいと思える国ではなかった。

一方、ブッシュ大統領が「われわれアメリカ国民のために!」と言うのを聞いても、わたしはアメリカ人(市民権を持つシチズン)じゃないから関係ない、たとえこの国に住んで、働いて、税金を納めているにしても……と思う。

確かにわたしは宙ぶらりんだが、わたしのような曖昧な立場の人間は、多分世界中、たくさんいる。

……。

と、ここまで書いて、結論めいた言葉が浮かばないことに気が付いた。きちんと責任をもって話を「締めくくり」たいのだが、うまく頭がまとまらない。書きっぱなしで恐縮だが、ともかく、今回の旅で、自分としては一番強く、感じたことがこのことだったので、記しておく。

 

●国際線の空港に見るアメリカの素顔。そして我が身の上を思う。

もう、ずいぶん前に、ビザ(査証)のことについて書いたと思う。母国以外に長期間住む人にとって、まず大切なのは、その国が滞在を許可するビザを持っているかどうか、ということだ。

 

ビザの種類にもさまざまあるが、駐在員など会社がスポンサーとなってくれる場合は別として、個人で渡米し、長期滞在を望む人の多くは、ビザの問題で相当の労力、金銭、時間を費やすことになる。

わたしとA男も、このビザの問題では、一言で書き尽くせない苦労をしている。

だいぶ前にも書いたが、そもそもわたしがミューズ・パブリッシングを設立したのも、「会社を作りたいから」ではなく、フリーランスとして働く手段として、自分の就労ビザのスポンサーを自分でしたかったら、というところにある。

詳細を綴ると長くなるので省くが、ともかくわたしはこれまで「H1-Bビザ」というカテゴリーの就労ビザで働いてきた。これは合計6年間の期限で、すでにわたしのビザは半年前に切れている。

しかし、わたしは、A男の会社をスポンサーに、夫婦セットでグリーンカードを申請しており(合計で数年かかる)、現在はその最終段階にあり、申請の途中でH1-Bビザが切れたとしても、不法滞在していることにはならない。

現在、彼もわたしも、グリーンカードが発行される前の「仮の滞在許可証」のようなものを持っていて、それがステイタスになっている。

アメリカ国内にいる分には、「仮の滞在許可証」でも、特に支障はないが、海外に出るときにこのステイタスだと少々厄介なことが起こる。

出国する分にはなんら問題はないが、米国に戻ってくる際、入国審査のときに、パスポート以外の書類も提示せねばならない。その書類の中には、あらかじめ弁護士を通して、移民局から取り寄せるまた別の「許可証」のようなものも含まれている。

更には、A男が働いている会社からの文書(明らかにA男が勤務していることを証明する)、給与明細、銀行の残高証明なども携行しておくことを、弁護士に勧められている。

H1-Bビザの有効期限が切れた後(A男もわたしも同時期に切れていた)、わたしたちは日本、カリブ、今回のヨーロッパの計3回、この国を出た。そして戻ってくるたび、米国の空港で「いやな思い」をさせられている。

特に前回と今回のいやな経験について、記しておこう。まずは、前回、年末にカリブに行ったときのこと。

このときには、ビザの件以外でも、別の「いやな思い」をしたので、長くなるが書き添えておく。

グランドケイマンからDCへの直行便はなく、従ってマイアミで飛行機を乗り換える。つまり、マイアミで入国審査を通過することになる。

ホリデーシーズンということもあり、入国審査の前は長蛇の列だ。列は「USシチズン(米国人)」と「USシチズン(米国人)以外」の二種類に分かれている。

わたしたちは、クネクネと蛇行した「USシチズン(米国人)以外」の列に並ぶ。DCへの便の乗り継ぎまで1時間半。しかし、列を待っている間に30分が過ぎる。

わたしたちのだいぶ前に並んでいたインド人らしき夫婦が、一旦、カウンターで資料をチェックされたが、内容に不備があったため、改めて列のはずれにあるカウンターまで用紙を取りに行き、書き加えるよう審査官に指示されていた。

書き加えた後は、改めて並ぶ必要はなく、ここに戻ってこいと指示されていたらしい。再び彼らがその窓口へ行こうとしたら、列の中程で、アメリカ人の中年男性(白人)が、大声で、非常に無礼な口調で、こう叫んだ。

「おい! お前ら! 『この国』じゃ、割り込みはやっちゃいけないんだよ!

『この国』じゃ、きちんと並ばなきゃならないんだよ!」

人々が一斉に、そのアメリカ人を見る。インド人夫婦を見る。インド人夫は言う。極めて穏やかな口調で。

「僕らは一度並んで、資料を整えてからここに来るよう言われたんだ」

しかし、彼の、なまりのある英語を遮るかのようにアメリカ人は叫ぶ。

「いろいろ言うな! ともかくみんな並んでいるんだ! 割り込みはだめなんだ! この国に来る以上は、この国のルールってものがあるんだ」

審査官も周囲のどよめきに気づいたのか、叫ぶアメリカ人に声を掛けた。

「ちょっと君! 何を言っているんだ。君はアメリカ人なのか?」

「そうだ! それがどうした!」

彼はそう言って、ぞっとするほど誇らしげに、おのれの米国のパスポートを、ヒラヒラと掲げて見せた。

そんな彼を、周囲の人々は、冷ややかな目で見る。

(バッカじゃない?!)

心の中で叫んだ人は、わたしだけではないだろう。

審査官は言う。

「君、ここは『アメリカ人以外』の人が並ぶ列だよ。そんなに割り込みが許せないなら、『アメリカ人』専用の列に行ったらどうだい? 向こうなら列は短いし、すぐに終わるよ」

「俺は、ここに並んじゃいけないのか? えっ?! ここじゃ、手続きできないっていうのか?!」

「いや、ここに並んでも手続きはできるが、不満があるなら、『アメリカ人』専用の列にいけばいいと言ったまでだ」

「俺は、ここに並びたいんだ! 俺に構うな!」

……あほたれ。果てしなく、どこまでも、あほたれである。

このアメリカ人は、別に酒に酔っているわけではない。しらふの、多分、尋常な人間だ。そして彼のような思考回路を持ったアメリカ人(この場合、アメリカ生まれアメリカ育ちのUSシチズン、アングロサクソン)は、多分少なくないと思う。多いとは思いたくないが、少なくない。

まず、自分たちのようなアメリカ人が世界一だと思っている。自分の勘違い(インド人の割り込み)を認めない。更に発覚した自分の間違い(違う列に並ぶ)を認めず、逆に虚勢を張る。どう考えても自分が間違えているのに、いかにも正しい姿勢を貫こうとする。だめ押ししてでも、自己主張する。

まあ、しかし、この程度の出来事は、特に珍しいことでもなく、自分が被害を被るわけではないから、単に不快感を味わう程度ですむ。

わたしたちにとっての問題はここからだ。

わたしたちは夫婦なので、入国審査のカウンターも二人に立つことができる。一緒に資料を提示し、そして、現在の「仮のグリーンカードの身の上」を証明する資料を見せる。その場では必要なスタンプを押してもらえないため、わたしたちのパスポートなど資料一切は「青いファイル」に入れられ、審査官に連れられて移民局のオフィスに通される。

その狭苦しいオフィスには、大勢の人々が憮然とした表情で、待っている。カウンターには、青、赤、黄色の三色のファイルが、入室した順番通りにズラリと並んでいる。実に、ズラリと。

窓口の向こうには、鼻歌混じりにファイルをめくる、一見ご陽気な若い黒人男性の係員。その傍らには数名の、ただ雑談しているだけの白人黒人男女入り交じった係員。少なくともその場には5名の人間がいる。しかし、その5名の人間は、わたしたちがそこにいた1時間近くの間、多分、別の部署の人間だからだろう、ひたすら「雑談」をするばかりで、働いていなかった。

従って、ファイルの作業をしているのは、黒人男性一人きり。ホリデーシーズンの、マイアミという恐ろしく込み合う空港で、移民局の男性は、たった一人で、膨大な資料を開き、コンピュータに入力し、スタンプを押す。しかしそこに「責任感」とか「プレッシャー」といった職業意識は、ひとかけらも感じられない。ともかく、とろいのだ。

待っている人には、国際線の乗り継ぎの人もいる。アメリカに入国するのが目的でなく、ただ「乗り継ぐ」ためだけに、ここに通される人もいる。

しかし、ここで待たされて、予定の便に乗れない人がいる。

パスポートやステイタスに何らかの問題があるからこの部屋に通された、「赤いファイル」の人もいるが、わたしたちのように、入国する上で経なければならないプロセスがあるため、この部屋に通されている人間、つまり「青いファイル」の人間が、圧倒的に多いのだ。

結局、この時は、「乗り継ぎの便の出発まで1時間しかない」状況だったのに、30分たっても、40分たっても、ファイルの列は進まない。

とはいえ、移民局のスタッフが、黙々と働いているのなら文句は言わない。

時に歌い、時に踊りを加えてみたり、また時に同僚と冗談をかまし合い、もう、微塵も、真剣に仕事をしていないのだ。あえて、できる限りとろとろと仕事をしているとしか思えないのである。その様子を見ながら、待合室の人々は、みな口を一文字に閉じ、拳を握りしめているのである。

もう、このままでは予定の便で帰れない。どうなるんだろうと思っていたところに、もう一人のスタッフが、これまたちんたらと登場した。すると、それまで一人でたらたらやっていたスタッフは待合室の人々に向かって両手を広げ、笑顔で叫んだ!

「ヘイ、みんな! 喜べ! 助っ人が来たぜ! これで予定の便に乗れるかもしれないよ! おめでとう!」

はらわたが煮えくり返るとはこのことである。お前は何様のつもりなのだ! そしてわたしたちは、何なのだ?! 幼稚園の園児か? 

結局、このときは、幸か不幸か、二人体制になったお陰で、わたしたちの資料は出発の十分前にスタンプが押された。わたしたちは、大急ぎでゲートへ走り、長蛇の列の身体・荷物検査の列を、時間がないからと一番前に回してもらい、更にターミナルを走り、よりによってこんなときに限って出発のゲートが変更され、一番遠いゲートまで更に走り、もう、息も絶え絶えに出発直前(というか、もう、ゲートが閉じられようとしていた)飛行機に乗ることができた。猛烈に疲れた。

でも、今思えば、このときなど、まだましだった気がする。今回、ヨーロッパの帰りには、精神的な屈辱を受けたからだ。

9/11以降、いやそれ以前からあったことだ。特に肌の色が浅黒いA男は、アラブ人とも見られる場合がある。ただ、それだけで、もう、彼は不愉快極まりない待遇を受けるのだ。

今回、スイスからDCへは直行便に乗ったから、乗り継ぎの心配もないし、少々、移民局のオフィスで時間を取られても大丈夫だね、といいながら、入国審査の審査官と共に、オフィスに入った。青いファイルを持って。ファイルをカウンターに渡し、椅子に座る。

マイアミのときに比べると待っている人の数は少ない。カウンターの向こう側には、移民局のスタッフが5名ほど。みな白人で、一様に太っている。やはり彼らも、雑談をして笑ったりなどしてざわめいている。5分ほどたってから、そのうちの一人が、ぼそっとA男の名を呼んだ。

「アルヴィンド・マルハン」

「イエス」

A男はそう答えて椅子をたち、カウンターに立った。すると彼は、すこぶる偉そうな、人を見下したような態度でこういった。

「お前、自分の名前、知ってるのか?!」

「どういう意味ですか?」

「だから、お前、自分の名前を知ってるのかって、聞いてるんだよ。自分の名前を言ってみろ!」

「……アルヴィンド・マルハン。だけど」

「じゃあ、お前、なんで返事しなかったんだ?! 俺はお前の名前を3回も呼んだんだぞ!」

そんなの、大嘘だ。彼は、A男の名前を三度もよんでない。それでなくても、地獄耳のわたしが、注意深く、カウンターの動向を見つめていたのだ。彼は、A男の名前を呼んではいない。単に「いちゃもんをつけている」だけなのだ。

普段は温厚なA男だが、差別的な待遇を受けることは当たり前だが大嫌いだ。ときどき、そういう差別的な人間と激しく口論するなど、怒りをあらわにすることもある彼だが、ここで感情を出してはならないことはもちろん心得ている。じっと我慢している。

結局、A男をカウンターに呼び出したものの、意味があるとは思えない質問をし、更に、ダラダラと作業を進める。

カウンターの前に、車椅子に座ったイスラム系の老女がいた。黒いベールを被った彼女もまた、スタッフから多分、「いわれのない」文句をいわれたらしい。ついに、泣き出してしまった。

泣き出した彼女を見てスタッフが言う。「目障りだ! あっちへ行け!」

再び、彼らの一人が誰かの名前を呼んだ。はっきりと言わないので聞き取れないが、最初に「A」が聞こえた気がした。だからA男は立ち上がって、カウンターに行った。さっきの件があったので。

「僕の名前、呼びました?」

「呼んでないよ。なに言ってるんだ?! 邪魔するなよ!」

次にわたしの名前を呼ばれた。

さっきの「3回名前を呼んだ男」が、わたしのパスポートにくっついている紙切れを見て言った。

「これはなんだか言って見ろ!」

「えっ……?」

胸の鼓動が高まる。まずい。パスポートに「出国カード」がくっついたままだ。これは普通、米国から出国する際、つまり飛行機にチェックインする際、航空会社のスタッフがパスポートから取り出して収めるものであり、出国の際には必ず米国に残して行かねばならないものなのだ。

普通は自分で何をすることもなく、任せきりだったので(それが普通)、パスポートにくっついたままだということに気づかなかった。つまり、航空会社のスタッフにも問題があったといえるのだが、この場に於いて、全責任はわたしにある。

黙り込んだわたしに、彼は脅すような口調で言う。

「これを残して出国しなかったってことが、どういうことだか、わかってるんだろうな」

できる限り、相手を困惑させようという彼の磨き抜かれた「意地悪さ」に一瞬、感心するものの、その対応の非礼さに、拳がふるえる。

「この裏面を読んでみろ! 読めるんだろ?!(英語)」

そこには、確かにこのカードを出国時に残さねばならないこと、またそうしなかった場合は、将来、米国に入国する際、遅延させられる可能性がある、ということが書かれている。気づかなかったとはいえ、わたしに非がある。

ドキドキしながらも、卑屈になるのは絶対にいやで、しかし、相手の機嫌を損ねるような態度をとったらどんなことになるのか想像もつかないから我慢して、低い声で答える。

「読んだけど。で、どうすればいいの?」

「わかったんだな。わかったんなら、今度から守れ。さもなくば、お前は二度と、この国には入れない!」

そして、彼は、わたしのパスポートにスタンプを押し、書類にもスタンプを押し、ともかくは、米国に「入国させてくれた」。

次はA男の番だろうと思いつつ、A男の隣に再び座ろうとすると「3回名前を呼んだ男」はわたしに向かって叫んだ。

「お前はもう終わったんだから、ここから出ろ!」

A男を残して、外に出る。ガランとしたフロアで、わたしたちのスーツケースがぽつんと残されている。スーツケースを引き取り、再び、移民局のオフィスの近くまで行き、A男が出てくるのを待つ。

わたしとA男は条件が同じはずなのに、5分経っても、10分経っても、彼は出てこない。わたしの近くには、黒いベールを被ったイスラム系の若い女性が立っていて、彼女もまた心配そうな顔をしている。彼女が声をかけてきた。

「あなたもハズバンドを待っているの?」

「ええ。そう。あなたのところも?」

「そうなの。もう、30分以上も待ってるの。わたしたち、サウジアラビアからトロント(カナダ)に行く予定だったのに、雪で着陸できなくて、あちこちで足止めをくって……。出発してからもう24時間も過ぎているのに、こんなところに連れてこられて、しかも夫だけ、連れて行かれるし……。わたしたちは、何の問題もないのよ。なのに、どうしてこんなに時間がかかるのかわからない。心配だわ。子供たちも3人もいて、早くトロントに行きたいのに……」

ふと見ると、5、6歳の子供たち3人が、ターミナルを駆け回っている。子供は事情を知らず元気だが、彼女は心配でならないらしい。当たり前だ。来るつもりもなかった国で、飛行機がたまたま着陸したからという理由で入国せねばならず、にもかかわらず、身分を根ほり葉ほり調査されるのだから。

そうこうしているうちにも、A男が憮然とした表情で、オフィスから出てきた。

あれから、「3回名前を呼んだ男」に、いちいちこまごまと無意味としか思えない質問を受け、嫌味を言われ、無闇に待たされ、ようやく出てこられたらしい。

気の毒なサウジアラビアの女性に、「気を付けてね。グッドラック!」と言って別れを告げる。

どんよりとした気持ちでタクシーに乗る。

ちなみに、わたしたちが、たまたまいやな移民局のスタッフに出くわしたわけではない。さまざまな友人知人の話を総合するに、移民局でいい待遇を受けた人は、あまり(ほとんど)いない。

雪景色を眺めながら、夕暮れのハイウェイを走る。二人とも、口を開くと、いろいろな不満や疑念や戸惑いが口からあふれ出しそうで、だから黙っていた。せっかく楽しい旅だったのだ。

二人の間には、大きな箱がある。機内に持ち込んで、大事に持ち帰ってきた箱。この箱には、スイスで買った「鳩時計(カッコウ時計)」が入っている。

A男が子供のとき、家族で初めてスイスを訪れたときから欲しかったカッコウ時計を、今回、ようやく手に入れることができたのだ。

「この時計は、大事にすれば、何十年でも持ちますよ」

店の人がそう言ったこの時計を、わたしたちは、わたしたちの家に飾る。それを楽しみにして、帰ってきた。

しかし、わたしたちの住む家は、わたしたちの祖国ではない。ひょっとすると、何かの弾みで、一度この国を出たら、この時計のある「我が家」に帰ってこられない可能性もあるのだ。

そう思うと、自分の立場が、ひどく心許ないものに思えてきた。いろいろなことが、くやしくて、腹立たしくて、おぼつかなくて、泣けてきた。

わたしたちは恵まれているケースだということは重々理解している。何ら致命的な問題があるわけでもなく、日々、この国で生活をしている。しかし、こうした折、自分の立場の危うさを、いやというほど痛感させられる。

異国に住むには、いろいろな不自由を甘んじて受け入れなければならない。それは理解している。わたしはこの国の、いやな部分に接することができるのも、自分にとっては多分、いい経験なのだと思っている。

そして、たとえいやな思いをしても、やはり、今のわたしたちには、この国が、一番、住みやすいのだという事実には、変わりない。

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ところで、今、この文章を書くにあたり、パスポートを開いてみたところ、呆然とした。例の「3回名前を呼んだ男」によってパスポートと書類に記されている手書きの日付が、なんと1年ずつ違っているのだ。

発行された日付が、2003年2月23日となるべきところが、「2002年」になっている。滞在可能な期限が「2003年2月22日」となっていて、すでに時効の状態だ。無論、他の書類があるから、わたしが不法滞在となるほどの効力がこのスタンプと日付にないにせよ、次回出国する前に、弁護士に相談する必要があるだろう。

人に散々、文句を言っておきながら、毎日、何枚もの日付を記すはずの仕事をしておきながら、年数を間違えるとは、いったいどういうことだろう。考えられない。

それとも、わざと、間違えたのか?

(3/17/2003) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


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