坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ
Vol. 87 12/17/2002
あっと言う間に師走も半ば。皆さんは年末年始、どのようにお過ごしですか? 去年の冬の休暇、わたしとA男は、ニューヨークで過ごしました。大晦日の夜、ハドソン川を巡るディナークルーズで年を越しましたが、いつもと違って華やかな花火が上がらない新年は、少々寂しくもありました。あの夜のことが、なんだかとても遠い日のように思われます。 わたしたちは今月24日から一週間、カリブ海に浮かぶグランドケイマンという島に行きます。透明度が高く、ダイビングに最適の島だそうですが、わたしは三半規管が弱い(?)ため、ゆらゆらしたりクルクル回ったりする関係の乗り物やスポーツができません。残念です。カメやエイがたくさんいるらしいので、浅瀬で適当に遊ぼうと思います。 本当はインドへ里帰りをしようという話が出ていたのですが、チケットを手配するタイミングが遅すぎて、どこもここも売り切れでした。思えばアメリカにはインド人が大量に住んでいますから、みんなこの時期一斉帰国するのですよね。次回は早く手配しようと思います。 ところで、前号で、アメリカの銃社会をシニカルな視点から追ったドキュメンタリー映画「Bowling For Columbine」について書くと予告していたのですが、やめました。ちなみにこの映画の製作者(監督)は、日本でも発売されている「アホでマヌケなアメリカ白人(Stupid White men)」を執筆したマイケル・ムーアという人物です。 その本をちらりと読んで、なんだか気が重くなったので、書く意欲がなくなりました。申し訳ない。 先週末見た映画、「My Big Fat Greek Wedding」の方がはるかに楽しめたので、そちらについてを書きます。
●少しだけ今年を振り返る。パーティーで垣間見たアメリカの不景気 寒くなったせいか、最近のわたしは平日あまり外出をせず、家で仕事をしたり読書して過ごすことが多い。マンハッタンはネオンに彩られた冬の街を歩くのが楽しかったが、それに比べDCの冬は地味だからあまり楽しくない(しつこい)。 一方、ニューヨーク時代に比べると部屋が広いから家で仕事をするのが快適だ。掃除洗濯の家事も気分転換になる。夕方近くなるとジムでエクササイズをしたり、少し暖かい日にはウォーキングに行ったりと、健康的な日々でもある。 思えば今年は、ワシントンDCでクライアント営業をすることがないまま、終わってしまった。 ニューヨーク、あるいは東京のこれまでのクライアントから受ける仕事を電話や電子メールで連絡を取り合いながらの作業が主だった。今の時代、「そこそこの仕事」であれば地理的距離はさほど問題にならない。 しかし、「そこそこの仕事以上の仕事」は、やはりきちんと営業をしなければだめだ。人に会わなければだめだ。 今回、日本で本を出版したけれども、日本に住んでいれば編集者へ定期的に挨拶に行ったり、自ら書店をまわったりなど、その気になればあれこれと営業ができるけれど、こう離れていると「去る者日々に疎し」となっているのを実感する。従って、離れているからこそできることを模索しなければならないと思う。 さて、12月に入ってからは日本の「忘年会」同様、こちらでもパーティーが多い。今年はA男と一緒に暮らし始めたこともあって、たいていは二人で一緒に出かける。特に14日15日のこの週末はパーティーが集中していた。土曜日は日印カップル主催のパーティーへ、日曜は毎年恒例の、A男の会社パーティーへ行って来た。 中には一日にいくつかのパーティーをかけもちする人たちもいたが、わたしたちはその手のエネルギーがないので、一日に一カ所が精一杯である。大勢の人に会って話をするのは楽しい反面、とても疲れる。現に今も、昨日(日曜)のパーティーが昼間だったにも関わらず、未だに引きずっていて、両肩に疲労が残っている。 A男のボスの邸宅で行われる会社のパーティーはこれで3回目だが、去年、一昨年に比べ、米国の不景気のありさまが、パーティーの参加者にも感じられた。参加者の多くは、A男の会社が投資するIT関連ビジネスのCEO、CFOクラスの人たちだが、今年は「**のCEOだった」と「過去形」でA男に耳打ちされた上で紹介される人も少なくなかった。 「この間、倒産した」「もうすぐ倒産する」という暗黙の事実は、華やかなパーティーの席とは裏腹に、彼らの背中に哀愁を漂わせる。ワールドコムのCEOに就任した途端に破綻騒ぎに巻き込まれたジョン・シッジモア氏も来ていたが、心なしか表情に精彩を欠いていて、しかも太っていた。ストレスで太ってしまったのだろうか。 先日も、A男がAT&Tに勤める男性とランチミーティングをしたところ、いざ会ってみると、実は会社を解雇されたばかりなのだと言われ戸惑ったという。彼がそこに勤めているからこそ話をしたかったらしいのだが、約束を入れた後の、突然の解雇だったらしい。 A男のMBA(ビジネススクール)時代の友人たちからも、職を失ったり窮地に立たされていたりのニュースをしばしば聞く。MBAさえ出ていればいい職につけるという時代は、すでに終焉を告げているようだ。膨大な学費を払った末、ようやく就職し、数年も経たずに解雇では話にならない。 去年のパーティー時は、9/11の直後だったこともあり、テロのことで話題がもちきりで、個人の身の上までに話題が及ばなかったが、今年はどうも様子が違うようだ。わずかここ3年の間にも、確実に、価値観が変わりつつある。 みな、笑顔をばらまき、多分「見栄」もあって表面は華やかだが、その心中は穏やかではなさそうだ。 来年の今頃は、どうなっているのだろう。
●五嶋みどりさんのバイオリンコンサートに行って来た。 DCに暮らし始めて1年にもなるのに、ケネディセンターに行ったことがなかった。ケネディセンターとはオペラやクラシックなどのエンターテインメントが行われるシアターで、ニューヨークでいうところのリンカーンセンターに相当する。 ニューヨークにいる頃はリンカーンセンターから歩いて3分くらいの近所に住んでいたから、気軽に観劇に行けたが、ケネディセンターは車で行かねばならないし、周囲に繁華街もなくガランとしていて、魅力のないロケーションだということもあって、行こうという熱意が沸いてこなかった。 冬になり、たまにはエンターテインメントを、という気分になったので、数週間前、ケネディセンターのサイトをチェックしたところ、五嶋みどりさんのコンサートがあるのを見つけた。速攻でチケットを買った。 彼女はニューヨークに住んでいて独自の財団を運営しており、チャリティコンサートなども行っている。彼女の活躍ぶりは知ってはいたものの、これまで聴きに行く機会がなかったから、すぐに席が取れてうれしかった。 コンサート当日の夕方、近所の花屋さんで、白いバラと白いカサブランカの花束を作ってもらった。そして『街の灯』一冊をきれいにラップして、彼女にプレゼントすることにした。 まずはナショナルシンフォニーオーケストラによる演奏が行われ、インターミッションを挟んでみどりさんが登場する。 プログラムを開き、オーケストラが演奏する一番最初の曲名を見て、思い切り感激した。曲目もろくろく確認せずにチケットを買ったわたしもわたしだが……。わたしの大好きなスメタナの「ブルタヴァ(モルダウ)」だったのだ。 中学のとき、音楽の時間に初めて聴いて心を奪われ、自分でLPを購入し、何度も繰り返し聴いた。「モルダウ」とは、チェコの首都、プラハに横たわる川の名前である。この川を見たくて、かつてプラハを訪れたこともあった。 演奏の間、プラハ旅情が大いにかき立てられて、泣けた。 感動に打ちひしがれていたけれど、2曲目はアダムスとか言う作曲家のてんでわけのわからない「不協和音の映画音楽」みたいなやつで、一気に興ざめした。 わたしは不協和音に終始する曲が苦手なのだ。映画やミュージカルのBGMに使われるのはやぶさかではないが、それだけを単独で聴くのはほんとに辛い。以前、武満徹の追悼ピアノコンサートでも、途中で本当に席を立ちたくなった。 坂本龍一氏が子供の頃、父親の書棚に並んでいた瀬戸内晴美の「美は乱調にあり」という本のタイトルに興味を持ち、大人になってから不協和音の音楽を作曲する際、そのタイトルに励まされて、「美は不協和音にあり」と確信した……といったコメントを、どこかに書いていたのが印象に残っているが、わたしは、ともかく、だめだ。いらいらするくらいだ。 そしてインターミッションを挟んでみどりさんが登場した。 黄色いドレスに身を包んで現れた彼女はスリムで、周囲のオーケストラの人たちに比べるととても小柄に見える。しかしバイオリンの弓をハッと振り上げた瞬間に、存在感が思い切り変わった。ともかく、弓を振り上げる瞬間が格好いい。そして、あんな小さな楽器なのに、オーケストラ全体を牽引する圧倒的な強さにもまた心を奪われる。 演奏を聴きながら、さまざまなビジョンが脳裏に浮かんで、本当に心地よかった。ちなみに彼女が演奏したのはエルガー(ELGAR)のバイオリンコンチェルト(B minor, Op 61)だった。 最後は観衆が立ち上がってのスタンディングオベーション。拍手の海をくぐり抜け、ステージの方へ花束を持っていった。みどりさんはとてもうれしそうな笑顔をしていて、握手をしてくれた。 A男も楽しんだようだ。帰りの車の中で、盛り上がって何かのメロディーを口ずさんでいた。本人曰く「モルダウ」らしいが、あまりにもはずしたメロディーだったので、家に帰ってから「復習」のため、CDをかけた。いい夜だった。
●ギリシャ移民一家を描いた映画を観て。祖国の伝統を貫くということ 我ながら本当にしつこいが、DCに移ってからというもの、近所に映画館が少ないこと、上映される映画もマンハッタンに比べるとエンターテインメント性の高いものが大半だということもあり、映画を観る機会もまためっきり減っていた。 つい先日、ジョージタウンにLOEWS THEATERと呼ばれる大きな映画館ができた。A男がギリシャ人のボスをはじめ、何人かの友人に勧められていた「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウエディング My Big Fat Greek Wedding」が上映されていたので、早速、出かけてみた。 これは、予算をあまりかけずに作られたインディペンデント映画だが、予想外にヒットし、全米各地のシアターで上映されているという。 ストーリーの舞台はシカゴ。シカゴでギリシャ料理レストランを経営する一家を巡る物語だ。ギリシャ移民である父親は、アメリカで生まれた子供たちにギリシャの伝統的な生活習慣を徹底的に身につけさせようとする。 「ギリシャ女性の幸せ」とはギリシャ人と結婚し、子供をたくさん産み、おいしいギリシャ料理を作り、夫を支え、家庭を守ること。だから、3人の子供たちには毎週末ギリシャの学校に通わせ、ギリシャ語を学ばせる。学校のお弁当も母の手製の「ムサカ」などを持っていくものだから、クラスメートに「なに、それ?」と、からかわれる。 お姉さんは父の願い通り、ギリシャ人と結婚し3人の子供を産み「典型的なギリシャの母」としての地位を築きつつある。しかし、次女である主人公は、30歳になってもまだボーイフレンドがおらず、自由のきかない自分の境遇を嘆いている。ギリシャの文化をひたすらに押しつけながらも、どこか間抜けで愛嬌のある父親に逆らえず、父の経営するレストランのウエイトレスをしながら鬱々とする毎日。 弟もまた、アート関係の仕事に興味があるにもかかわらず、それを言い出せぬまま、父親の指示に従ってレストランの調理場で働いている。 「お前も早く結婚しなきゃ。もう、年なんだから」 毎日のように父親から嘆かれ、次女のストレスは溜まるばかり。あるとき、現状打破を望む彼女は思いきって、「コンピュータのスキルを身につけるため、もう一度学校に行きたい」父に相談する。名目は、コンピュータでレストランの売り上げなどを管理することだったが、できれば違う仕事を見つけたかったのだ。 しかし、父親はギリシャ人男性を見つけて結婚するのがお前の幸せなのだと一蹴し、聞く耳を持たない。父の部屋を出て、涙ぐむ彼女に、見かねた母親が言う。父親を説得してやるから、自分の好きな道を歩きなさいと。 「夫は一家の<HEAD: 頭>だけど、妻は一家の<NECK: 首>なのよ。頭を動かすのはわたしの役割だから任せなさい」 そこから彼女の人生が変わる。学校に行き始め、生まれて初めて「自由」を感じる。お洒落に目覚め、みるみるうちに美しくなっていく。やがてコンピュータのスキルを身につけた彼女は、母親と叔母の協力のもと、父親の説得に成功し、叔母が経営する小さな旅行代理店で仕事をすることになった。 そこで生き生きと働く彼女は、やがて、あるアメリカ人男性と恋に落ちる。 父親に反対されつつも、ボーイフレンドの柔軟な対応や周囲の協力が功を奏して、紆余曲折の果てに、二人は結婚するに至る。 映画自体の作りやクオリティに関して言えば少々やぼったいところもあるし、予想通りの直球なハッピーエンドで終わるけれど、それが見ていてとても心地よかった。映画の随所に心に響く箇所があって、わたしの心の琴線に大いに触れた。 映画の中で、父親は「ギリシャの文化」を、ギリシャに暮らすギリシャ人以上に頑なに守る「頑固親父」として描かれている。その頑固さはここでは「滑稽」なものに映る。しかし、滑稽だと笑ってばかりもいられないことを、見ている者は感じさせられる。 祖国の伝統に固執する父親の気持ちが、痛いほどよくわかる。一方、そんな父親を疎ましく思いつつも心の底では大切に思っていて、だから逆らえない娘の立場もやはり痛いほどよくわかる。 結果的に、この移民家族は、ぶつかりあい、せめぎあいながら、新しい時代へ向けての伝統の継承を実現していく。娘は父の望むグリーク(ギリシャ)スタイルの結婚式をギリシャ正教の教会で挙げ、派手で賑やかなやはりグリーク式の披露宴を行い、新しい世代のグリーク・ファミリーを構築していく。 そこには、婚約するためならと気軽に「ギリシャ正教」の洗礼を受けたアメリカ人ボーイフレンドのフレキシブルな感性や、ギリシャの大家族、親戚らに圧倒され、困惑しながらも柔軟に対応していく彼の両親の在り方も大いに「協力」するところだ。 洗礼を受けたあと「ぼくはギリシャ人だよ」とおどけて笑うボーイフレンドは実に魅力的だ。 アメリカに住む移民たちは、このギリシャ人のお父さんに限らず、多分、自分たちの文化をどういう形で守っていくかを少なからず模索しながら生きているはずだ。 例えばブラジルの日本人移民の多くが、移民当時の生活様式や文化を尊重しながら生活しているのは、よく知られているところだ。現在の日本よりも、そこには「懐かしい日本」があるくらいだと聞く。 わたしの友人の一人<日本に住む在日コリアン>は、「韓国の伝統的な文化」を守り抜いている家庭に嫁いだ。 同じ在日コリアン同士の結婚だったにも関わらず、婚約、結婚の儀式に始まり、その後の生活に及ぶまで、伝統の重圧にがんじがらめになって困惑しているとの話も聞いた。 「義理のオモニ(母)が重荷」 などとベタな洒落をいいながも、ちっとも洒落にならない様子だった。 世界中の至る所で、文化を巡るせめぎ合いが繰り広げられている。 翻ってわたし自身。アメリカに暮らし始めて来年の春で丸7年だ。日本に生まれ、日本に育ち、30歳になるまで日本の社会で暮らしたわたしは、例え月日が流れようとも日本的な感覚を失うことはないだろうと心のどこかで思っていた。 わたしは日本人なのだから、日本日本とあえて声高に日本を意識せずとも自分の中にある日本は「健在」であり、「待っていてくれる」という意識もあった。 一方、ニューヨークという街については、必要以上に自分の中で、反芻している節がある。たとえ6年間住んだ経緯があったとしても、ニューヨークとわたしの間に、「血の結びつき」はない。だから一度切れてしまったらそれまで、という気持ちがどこかにある。自分の中にニューヨークを刻印したいという潜在的な願いがある。 無論それは、自分にとってニューヨークがかけがえのない街であり、大好きな街だからに他ならない。 『街の灯』という本を著したことで、物理的に自分とニューヨークとの関係をひとつの結晶にできたことが、「安心感」に結びついているくらいである。吹けば飛ぶよな絆を、あえて形にしたことによる安心感。 しかし、この映画を観た後、「わたしの中の日本」は、自分が思っているほど、果たして健在だろうかと疑わしくなってきた。特にインド人と結婚した今、今後どういう距離感で日本と付き合うのがいいのだろうか、という疑問が、ほんのりと浮かび上がってきた。 あくまでも、やりたいように自然に。ややこしいことを考えずに自然に。それが今のところの、わたしの姿勢だ。 無論わたしたちは大家族ではない、二人きりの小さな家族だから「やりたいように」で問題ない。だが、子供のいる無数の家庭は、その教育を巡って、この映画に勝るとも劣らない無数のドラマを体現しているに違いない。 映画館をあとにしながら、しみじみと、祖国の伝統を守り続けることの「難しさ」や「意味」そして「必要性」について考えさせられた。 (12/16/2002) Copyright: Miho Sakata Malhan |