坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ
Vol. 85 11/27/2002
いよいよアメリカは冬のホリデーシーズンに突入します。明日からの4日間はサンクスギビングホリデーです。 いつもなら、マンハッタンのA男の親戚宅に招かれて、昼過ぎから夜までごちそうを食べ続ける一日を過ごすのですが、先週ニューヨークに行ったばかりということもあり、今年はおとなしくDCでのんびりすることにしました。 旅行や帰省の予定がない友人たちと集まって、ターキーではなくローストビーフなどを焼いて多国籍サンクスギビングパーティーをする予定です。 さて、今回から、このメールマガジンのタイトル部分を変えました。内容の一部をタイトルに入れるなどして、少々読んでもらえる工夫を施してみたのですがどうかしら。だいたい、自分の名前が長すぎるから場所をとりすぎていけない。というわけで思い切り端折りました。
●「トンカツ」が「天ぷら」に追いつく日。 米国で食べられる日本食の代名詞と言えば、かつては「すき焼き」「寿司」「天ぷら」といったメニューだった。しかし、ニューヨークをはじめとする大都市には、日本で日本食を食べると同等に近いバラエティとクオリティを持つ店が少なくない。 料理と同時に、その食材もまた、数多く米国の食生活に溶け込んでいる。豆腐はTOFUとして、今や一般的なスーパーマーケットにも並んでいる。その賞味期限の余りの長さ(数カ月)が気になるものの、数年前にはガチガチ・モサモサの中国風豆腐しかなかったのが、最近はSOFT やSILKENも登場して味も格段に向上、重宝している。 大豆関係で言えば、「豆乳」も健康志向の人々の間で人気があるようだ。これらはSOY MILKと呼ばれているが、以前、「牛乳」の成分を含まないにも関わらず牛乳(MILK)と表示するべきではないと、消費者団体だか酪農協会だかが抗議しているとの記事を読んだことがある。未だMILKと表示されているところをみると、豆乳側が勝利をめおさめたようだ。 この豆乳には、ストレート以外にもバニラ味やチョコレート味があるが、あまりにまずそうなので試したことはない。同じくまずそう、いや、ひどくまずかったとの噂を聞いたのは、SOY ICE CREAM。大豆のアイスクリームだ。 SOY ICE CREAMは、低脂肪、低カロリーをうたったヘルシーなアイスクリームとして販売されているのだが、わざわざここまでしてアイスクリームを食べたいか、と頭をひねらざるを得ない。勘違いしたまま食品を世に送り出してしまった、という感じだ。 なにしろ、ダイエットコークは太らないと信じていて、湯水の如くガブガブと飲み干す人たちが大半を占める国だから、低脂肪、低カロリーを意識する余り、妙な食料を作り上げたとしても不思議ではない。「アイスクリームダイエット」などという、栄養のバランスを思い切り無視したダイエット方が雑誌に載ったりする国だから、ときに理解の域を超える。 日本では、生ビールに並んで夏の風物詩の一つとも言える「枝豆」も、EDAMAMEとして浸透し始めている。これは冷凍されているものが大半だが、中には、皮を取って中身だけが詰められたEDAMAMEもある。 ところで今日書きたかったのは、パン粉のことである。 最近、アメリカで日本のパン粉が注目を集めつつある。アメリカにある従来のパン粉はブレッドクラムBREADCRUMBと呼ばれるもので、小さい粒状のものだ。イタリアやスペインなど欧州料理に使われるものと同じで、あらかじめハーブなどのスパイスが調合されているものもある。 コッドフィッシュやマッシュルームのフライ、クリーミーな小振りのコロッケ、薄い牛肉をたっぷりのバターとオリーブ油で焼くウィンナーシュニッツェルなどに、このブレッドクラムは相性がいいが、それよりも高い評価を受けてはじめているのが日本のパン粉なのだ。 先週末、書店で料理の雑誌を見ていたときも、「PANKO」というタイトルで、日本のパン粉のすばらしさを賞賛する記事が載せられていた。そこにはトンカツのレシピも「TOUKATSU」との表記で掲載されていた。 「手軽に香ばしいフライドチキンができてすばらしい! 子供も大喜びなんです!」という主婦の声、「クラブケーキにも使ってみたがお客から大評判だった!」というシェフの声などが取り上げられている。確かに、揚げ物が大好きなアメリカ人に、パン粉はうってつけの材料であると思えてきた。 最近では、インターナショナルな食材を扱う洒落たスーパーマーケットの一画に「PANKO」が姿を見せ始めている。近い将来、日本料理店だけでなく、アメリカのコンテンポラリーレストランでも「PANKO」の文字がメニューに踊るようになるだろう。次いで、一般のスーパーマーケットにも「PANKO」が並ぶようになるだろう。豆腐や枝豆がたどってきた道を追うように。 「PANKO」の記事を読んで、わたしも急に揚げ物が食べたくなり、その翌日はチキンカツを作った。わたしは味がしみこんでいるのが好きなので、竜田揚げのように鶏肉をあらかじめ醤油やみりん、酒などに浸したものを、小麦粉、卵、パン粉を付けて上げた。 A男もパン粉の揚げ物が大好きで、トンカツやカキフライなども好物である。そういえば、アメリカ人はオイスターを「生」で食べるばかりだが、カキフライを食べさせたら流行るんじゃないだろうか。 ところで、アメリカの書店には日本料理のクッキングブックなども売られているが、どう考えても「誰が作るの?」というような、非現実的な内容で構成されているものが多く、趣味で眺めるための書としか思えぬものも少なくない。 米国にある一般の店では決して手に入らないような新鮮な魚を使って、日本人でも作らないような「寿司」の握り方を伝授したりもしている。間違って古い魚で寿司を握られたらどうなるんだろうと、人ごとながら恐くなる。 さて。今回、「PANKO」の件で思ったのは、日本はもっと食生活のセンスをアメリカに輸出すればいいのに、ということだ。車や電化製品ばかりでなく、日本の食のセンスは、世界に誇れるものだ。これだけ日本料理店が流行っているのだから、食材や料理法をもっと浸透させれば、何らかのビジネスに発展させられるのではないだろうか。 小さいところだと、「コロッケショップ」とか「たこ焼き屋」、日本的な「クレープショップ」といった屋台系の店も、マーケティングをうまくやりさえすれば、流行るような気がするのだが、素人考えだろうか。 日本には十分においしいものがたくさんあるのにも関わらず、ハンバーガーにせよフライドチキンにせよドーナッツにせよ、アメリカの世界的なチェーンを受け入れ、猛烈にはやらせてきた。受け入れるばかりでは実にもったいない。 結局、味と言うよりは「イメージ戦略」に負けているのだ。確かに米国は日本のように国民の意識がひとところに集まるようなブームを作るのは容易くないが、それもこれも戦略次第ではなかろうか。 パリッと香ばしいチキンカツを食べながら、日本の食品業界には、もっと世界に進出して、繁盛してほしいと思うばかりである。
●イギリス大使館のパーティーに行った。いろいろと刺激された。 「パーティー」と一言でいっても、友達と集うカジュアルなものから、ブラックタイ着用のフォーマルなものまでさまざまある。わたしたちが参加するパーティーの大半は友人たちと集うものだが、A男の仕事の関係で、ややフォーマルなパーティーに招かれる機会が多くなった。 先日は、インド大使の公邸で、ビジネス関連のパーティーが開かれた。そのときには、A男の祖母がプレゼントしてくれていた、美しい刺繍が施された金色の絹製ドレス(サルワール・カミーズと呼ばれる)を着て出かけた。 インド式のパーティーは、去年の結婚披露宴のときに初めて学んだのだが、欧米式と違ってみんな出された料理を「真剣に」食べる。欧米式だと、一般に大人数のパーティーでは、ブッフェの料理を小さめのお皿に上品に載せ、立ったまま食べる。バッグやワイングラスを気遣いながら料理を口に運ばなければならないことが多く、食に集中できない。 しかしインド式は、まず大皿が用意されているところから意気込みが違う。ゲストの多くは、皿からあふれんばかりに、ラムやチキン、豆その他、各種カレーを皿に載せ、ナンやライスもしっかりと添え、「さあ食べるぞ」「ええ食べるわよ」という雰囲気を漂わせながら、用意されているテーブルや椅子に座る。 そう。インド式のパーティーでは、日本と同様座って食べる人が多いのだ。みんなバクバク残さず食べながら、しかし会話も滞りなく進める。しかも皆、デザートを食べることも忘れない。そして最後にコーヒー、紅茶でしめくくる。 ……なぜ、わたしは食べ物のことばかりを書いているのだ? 今回のテーマはイギリス大使館のパーティーの話である。今回もまたA男のインド関連だった。 DCには、 Indian CEO High Tech Councilという組織がある。これは、IT、ハイテク関連のビジネスに携わるCEOクラスのインド人たちが発起した組織で、その業界に関係のあるインド人はじめ他のアメリカ人たちも含めて2700人以上の会員を擁している。A男もその一人だ。 この組織は定期的にさまざまなイベントを行っているのだが、今回はネットワーキングを目的としたパーティーが、イギリス大使夫妻の後援という形で大使館のバンケットルームで開催されるということだった。そのパーティーに、A男およびその妻であるわたしも招待されたわけである。 ブラックタイ着用ということだったので、パーティーの数日前、A男は近所のレンタルショップでタキシードを借りてきた。 タキシードを着たA男は、「ねえ、なんだかレストランのウエイターみたいじゃない?」と気にしていたが、本当にその通りだった。でも、それを言うと気にするので「そんなことないよ」と言っておいた。 インド人が多数のパーティーだから、わたしはサリーを着てもよかったのだが、日本人がサリーというのもややこしいので、黒のイブニングドレスを着ることにした。 こんなとき、自分で着物の着付けができればと思う。着物にはあれこれと決まり事があるし、奥も深いし、気軽に買える物でもないけれど、日本人のたしなみとして着付けを習ったほうがいいのではないかと、最近、切に思う。半端な着方だと、今度は「日本食レストランのウエイトレス」と間違えられかねないしね。 イギリス大使館はうちから歩いて10分ほどの、いつもの散策ルート上にあるが、さすがに正装で徒歩では間抜けなので車に乗って行く。 前庭にVサインをしたチャーチルの銅像が立つ大使館の敷地内に車を停め、迎賓館へ。吹き抜けの、紅い絨毯が敷き詰められた「風と共に去りぬ」的な階段を上り、バンケットルームへ入る。 入り口付近では英国大使夫妻が、非常に気さくな雰囲気でゲストに挨拶をしている。わたしたちは、取りあえず白ワインなどを片手に、顔見知りの人たちに挨拶をする。A男にとっては、まさしくネットワークを広げる好適な場で、積極的に話しかけ、話しかけられている。 わたしは基本的に「妻として」の参加だから、他のカップル同様、一応夫にくっついて会話に相づちをうったりするけれど、8割方がテクノロジー関連の話題だからつまらないこと極まりない。ワインを飲んでばかりでいけない。 従って、他のやはり少々つまらなく感じているらしき妻らを見つけ話をする。ニューヨークタイムズのワシントンDC支局で働いてるという女性と出会えたのはよかった。仕事の話を少々して名刺交換をした。しかし彼女以外の女性とはいわゆる世間話。 日本の墨絵を習っている人、弟が大阪に住んでいる人など、誰もが何かしら日本と関わりを持っている。いつものことながら、日本人としての坂田マルハン美穂として、わたしは世間と会話をしているのだと言うことを自覚する。 これまでにも何度か書いたが、海外に暮らすほどに、自分の日本人加減を意識する機会が増える。鈴木さんも佐藤さんも山田さんも、海外に出た瞬間から、「日本人の鈴木さん」「日本人の佐藤さん」「日本人の山田さん」として認識される。好むと好まざるとに関わらず。 日本を離れ、日本から遠のけば遠のくほど、わたしの中の日本人が、どんどん濃厚になっていく。そうして自分の祖国に対する姿勢が、「厭味」なのか、あるいは「親切」なのか、それも自体もまた、不明になってくる。 こうしたパーティーのあと、A男が必ず言う。 「ミホ、英会話のクラスを取った方がいいよ」 30歳過ぎて渡米した身分だから、英語がへたくそなの、などという言い訳は、当たり前だが通用しない。流暢に「正しい英語」を話さなければ、A男から言われるまでもなく情けない。年齢を重ねれば重ねるほど、そのことを痛感する。 さらに、わたし自身、というものをしっかりと持っていなければ、ということも痛感する。体裁はA男の妻として招かれているわけだし、彼の幸せは多分わたしの幸せだし、彼をサポートしたいと思う気持ちももちろんあるけれど、一方で坂田マルハン美穂として、常に自立した存在感を持っていたいとも強く感じるのだ。 ところで、わたしが目下、興味を持っていることで、取材をし始めようとしているテーマがある。それは、「養子を受け入れた家族の姿」だ。ニューヨークにいたときにも見聞きしていたが、DCに来てからはよりいっそう、そんな家族を見る機会が増えた。 白人の夫婦が中国人やベトナム人の子供を受け入れている。この一年間に出会った人々のなかでも、親戚や知り合いが養子を育てているというケースを多々、耳にした。今回も、ある女性が、「わたしの妹が、先月ベトナムからの養子を引き取ったの」と話していた。 DCには養子縁組の大きな組織があり、イベントや集会などが開かれている。 わたしは「他人の子供を積極的に受け入れて育てる」というメンタリティーを自分が持ち合わせていない分、畏敬の念を抱くと同時に、不可思議な気持ちを抱かないでもない。無数の人々が海外の子供を受け入れているわけだから、一概に傾向を語ることはできないにせよ、来年はそんな家族のもとを取材してみたいと考えている。 やはり、色々な人に出会うというのは、自分を刺激する上でいいことだと、帰路に就きながら思った。ちなみに、今回のパーティーも、インド人ゲストが多いことから料理はインド料理のブッフェで、みんな着席してしっかりと食事を楽しんでいた。
●代助は「何故働かない」のか。漱石の「それから」のこと 先日、紀伊國屋のレクチャーの際、自分が印象を受けた言葉を紹介するにあたり、もうずいぶん前にこのメールマガジンでも書いたが、夏目漱石著「三四郎」の「囚われちゃ駄目だ」にかかる一文を読み上げた。 その後、久しぶりに「三四郎」を読み返し、さらに三部作としてそれに続く「それから」を、これまた久方ぶりに読み返した。そして、今から80年以上も前に書かれたものにも関わらず、新鮮な印象を受ける箇所をいくつも発見した。 それは「現代の日本」と符合している部分でもあった。代助が語るところの自国をして卑屈かつ自虐的な捉え方さえも、現在の日本に続く、多分明治維新以降からの普遍的な傾向に思え、複雑な心境にさせられた。 わざわざメールマガジンに書くほどのことかどうかとも思ったが、最も印象的だった文章の一部を抜粋してみたい。きっと興味を持つ読者もいるだろうと思うので。 「それから」の主人公である代助は、30歳を過ぎても定職を持たず、親の金でぶらぶらと暮らしている。読書や芸術を好み、思索化である彼が、友人との会話で持論を展開するときの、以下はその台詞である。ちなみに「それから」は日露戦争(1904年)のすぐ後、明治42年(1919年)、朝日新聞に連載された。 -------- 「何故働かないかって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に言うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵(こし)らえて、貧乏震いをしている国はありはしない。 この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きを削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争する蛙と同じことで、もう、君、腹が裂けるよ。 その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌(ろく)な仕事は出来ない。悉(ことごと)く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるか、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見たまえ大抵は馬鹿だから。 自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いている断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。 その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を為(し)たって、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。……」(原文は改行なし) ---------- 最終的に、代助は、かつて愛しながらも義侠心から親友に譲った女性、三千代と、数年を経て再会し、自分の「自然な感情」を自覚する。葛藤の末、自分の心の「意志」ではなく「自然」に従い、世間からみれば馬鹿げた決断を下す。 家族との縁を切り、親友とも絶交し、三千代との将来を選び取ろうとするのだ。それまで「高等遊民」を自称して世間を斜に構えて見ていた彼が、「働かなければならない」ことを当然のごとく自覚し、焦燥感に包まれながら世の中に放り出される。 「焦げる焦げる」と言いながら。 「ああ動く。世の中が動く」と言いながら。 今風に言うところの、代助は「パニック状態」に陥りつつ、炎天下の街頭に仕事を探しに飛び出していくところで、この小説は終わっている。 結果的には滑稽に成り下がった代助の「働かない理由」。あなたはどう思われますか? |