坂田マルハン美穂のNY&DCライフ・エッセイ
Vol. 61 12/9/2001
2001年も締めくくりの段階に入りました。今年はニューヨークもDCも非常に温暖で、師走という気がしません。これまで6回迎えた冬のうちで、多分一番暖かいような気がします。 今年はいやなことがあったから、気候くらい温暖にしてやろう、という天の思し召しが働いているかのようです。 さて、今週一週間はずっとDCで原稿を書いていました。来年に向けてホームページ刷新の作業も進めています。それでもって今週末は新しい住まいを探しに物件巡りをします。身の回りがどんどん移り変わっていくのを感じます。 「日本人観光客が少ない」というメールマガジンを読んだ我が妹が「ニューヨークに行こうかしら」ということになり、さっそくチケットを探したところが予約でいっぱい。結局、年内渡米を断念した妹からこんなメールが届きました。 ---------------------- テロ事件以来、飛んでいない飛行機が結構あるみたいよ。 直行便をやめている海外の会社があるみたいで、日本の2社(ANAとJAL) それと、ノースウエストとユナイテッド、これに集中してるようです。 あと、デルタは飛んでないし、海外の会社の便数は減っているみたい。 ノースウエストなんて、4万円くらいで往復出来るんだよぉ〜。 安いよね・・・びっくり。 色々と調べていると、面白い話も聞きました。 「日本の飛行機がいいので、JALに乗りたい」というと、担当者が「JALは一応 日本の飛行機ですが、資本は半分がアメリカン航空ですよ」だと。 ありゃーーーー。 アメリカンだけは避けようと思ったら、思い切りアメリカン系だったんだ。おーびっくり。そんなもんなんだね。 その担当者も、「俺って裏情報詳しいぜぃ」そんな雰囲気でした。 先日は赤字の瀬戸大橋や明石海峡大橋をわたって、今回は、日本人のいないニュー ヨークを盛り上げようと思っていたのに。 私の出番はなかったようです。もりあがっとるやんけ。全く。 ---------------------- 残念だったけど仕方あるまい。来年があるさ。 ところ「JALの資本の半分がアメリカン航空」というのが事実かどうかは定かではありませんが、確かに日本航空とアメリカン航空は提携していて共同運行をしているし、全日空にしてもユナイテッド航空と提携しています。つまり「日本の飛行機」という概念は、存在しないのですよね。
●ウエストヴァージニア州の「温泉リゾート」に行った アメリカで生活するようになって、日本の何が恋しいかと言えば「温泉」である。ニューヨークのような都会に住んでいれば、大抵の日本食を口にすることが出来るから、余程の珍味などを欲さない限り、食欲は満たされる。しかし温泉となると、そうはいかない。 日本にいた頃、しょっちゅう温泉へ行っていたのかと言えばそうでもなく、必要不可欠な存在であるわけでもないのだが、温泉を思い浮かべたときに付随する「旅館」「会席料理」「浴衣」「露天風呂」「渓流」といった諸々のイメージが、憧れにも似た感情をかき立てるのだ。 日常の、シャワーによる味気ない「入浴」の積み重ねもまた、温泉に対する欲求を増大させているように思う。 最近でこそ「リラクセーション」が重視され始め、インテリアショップや洒落た雑貨店、コスメティックショップなどで、「快適なバスタイムを演出するのためのグッズ」をしばしば見かけるようになった。バスルームで灯すキャンドル、エッセンスオイル、バスソルト、ハーブ配合のボディソープ、ヘチマのボディブラシ、プラスチック製の黄色いアヒル……などなど。 しかし、「風呂場」と「トイレ」が歴然と分かれた環境に育った日本人にとって、傍らに便座を意識しながら心底くつろぐのは不可能だ。少なくとも私はリラックスできない。しかも、うかつに身体を動かすと、湯が湯船からあふれ出し、たちまち床が水浸しになってしまう。風呂上がりに床掃除をするのでは、リラックスした甲斐がないというもの。将来、自分たちの家を持つことになったら、洗い場と浴槽のある風呂場を自分で設計したいと思っているくらいだ。 A男の温泉初体験は、数年前の冬、日本を旅行したときのことだ。東京を基点に富士山、京都、福岡、そして湯布院温泉などを巡ったのだが、富士山を望む河口湖畔の温泉旅館が最初の経験だった。 その温泉旅館の大浴場からは富士山のすばらしい眺望が見わたせ、外には石造りの露天風呂も設けられていた。滞在中、朝な夕なに温泉に浸かり、この旅を契機に、A男は温泉の大ファンとなり、湯布院でも露天風呂巡りを楽しんだ。 広大なアメリカ大陸では、あちこちで「温泉(鉱泉)」がわき出ている。日本でも有名な「イエローストーン国立公園」などは、温泉パラダイスだ。しかし、当然ながら国立公園内に入浴できる温泉施設などはない。 去年の夏、A男とその家族とでイエローストーンへ行ったのだが、間欠泉だの硫黄泉などを見るにつけ、その湯煙と硫黄の香りに「温泉欲」を刺激され、 「ちょっとここでひと風呂浴びさせて!」 「それがダメなら温泉卵作らせて!」 といった衝動に駆られた。 湧き出し、流れ去るだけの温泉水が、本当にもったいなくて仕方がなかった。 「手つかずの自然を残す」という自然保護の見地から、むやみにリゾート化するのを避けているのだと思われるが、それにしても、もったいない。 さて、アメリカの温泉地にはたいてい「公営のスパ」なるものがあり、その「老人・病人向け療養所風」の色気のない設備が温泉地の顔となっていて、周囲にぽつぽつと、宿泊施設を備えた私営のスパがあるケースが多い。 以前、ニューヨーク州北部にあるサラトガという一大温泉地に行ったが、そこにも街の中心に州営のスパがあったし、今回訪れたバークレー・スプリングスにもやはり州営のスパがあった。 いずれの地にも「そもそも原住民(インディアン)が、病を癒すのに利用していた」というようなエピソードがあり、アメリカ合衆国が独立したあと、温泉地として開発された経緯がある。 インターネットで検索してみると、ヴァージニア州およびウエストヴァージニア州には、かなりの温泉地がある。私たちが今回訪れたバークレー・スプリングスは、中でもDCから車で2時間と、もっとも至近距離にある温泉地だったこともあって選んだ。 1日土曜の午前中に家を出て、ランチタイムにはバークレー・スプリングスに到着。メインストリート沿いに数軒のレストランとアンティークショップ、それに私営のスパや小さな宿(インやB&B)が点在するばかりの、小さな田舎町だ。年輩客が多いせいか、街全体の雰囲気がスローでけだるい。 街の中心には州立公園「BARKELEY SPRINGS STATE PARK」がある。公園内には、マッサージを受けたり温泉浴ができる建物があるほか、夏用の屋外プール、訪れた人が自由に鉱泉を汲むことが出来る水場などがある。 私たちは州立公園に隣接した私営のホテル「THE COUNTORY INN」に予約を取っていた。この街で最も大きい宿で、スパも併設しているのだ。創業70年の宿は、レンガ造りの外観がチャーミングなヴィクトリアン・スタイル。ロビーやラウンジにはクリスマスの飾り付けが施され、きらびやかでお洒落な雰囲気だ。 「療養目的」で来る人が多いせいか、宿の値段は安く40ドルほどから設定されている。私たちは、空室の都合上100ドル程度の部屋に滞在したが、室内そのものはたいしてチャーミングとは言えない、モーテルを少しお洒落にした程度だった。 本来は両日共にホテル内のスパで過ごしたかったのだが予約がいっぱいだったので、州立公園のスパにもマッサージとバスの予約を入れておいた。 ホテルで軽いランチを済ませた後、まずはホテル内のスパへ向かう。まずはここで「バス」つまり「温泉浴」を楽しむ。 カップルごとに入浴できるよう、2人用の大きなバスタブ(ジャクジー)と、周囲の山々が望める広々とした窓を備えた小ぎれいな個室がたくさんある。いわば「家族風呂」だ。待合室では、マッサージの順番を待つ老カップルたちがバスローブ姿でくつろいでいる。 約30分間、ジャクジーでの温泉浴を楽しんだ私たちは、バスローブ姿でしばしテラスでくつろいだあと、今度は隣の州立公園へ行く。 ここは男女別に分かれていて、それぞれ、コンクリートの壁が何とも冷たく無機質な部屋に通される。温泉水の張られた個別の浴槽も、味気ないコンクリート壁。温泉なのに寒々しい。それでも、私は「軽傷のぎっくり腰」を癒すべく、しっかりと浸かる。温泉浴のあと、30分のオイルマッサージで全身を軽くほぐしてもらいリラックスした。 A男も「首の寝違え」を完治させようと、マッサージは首元を避けてもらい、温泉にしっかりと浸かってきたらしい。しかしながら 「ミホ〜。ぼくはホテルのスパの方が断然いい。あのお風呂って、なんだか囚人になった気分にさせられたよ」 とのこと。確かに余りにも殺風景だった。せめてタイルを貼るとかしてほしいものだ。 それでも、ここぞとばかりたっぷりと鉱泉を飲み、温泉でゆっくり浸かり、ずいぶんとリラックスした。ホテルの料理も悪くなく、ワインでほどよく酔った後は早い時間から眠りについた。 翌朝も、ホテルのバスで温泉を楽しんだあと、ホテル周辺を散策した。小高い山の上に、廃墟となった「古城」がある。誰かここをリゾートホテルにして高級スパでも作ればいいのにと思う。 ホテルでサンデーブランチのビュッフェを楽しんだ後、午後、清々しい気分で家路についた。私の腰はまだ少し痛むが、肌がすべすべになった。A男の首はほとんど治ったようだ。
●生命力 以下の文章を、メールマガジンとして発行するにあたり、いつもなら実名を記さないこともあり、本人の了解を得ずに文中に関わりのあった人たちを登場させているが、今回は内容がデリケートなだけに、念のための本人に打診した。すると次のようなメールが届いた。 --------------------- 私の病気の件、書いてもらってまったくかまわないよ。実名だっていいし、あなたとの関係等や私がどんなことやってる者かとか、坂田さんが書きたいと思われることはみなどうぞ。 私は今回の病気のことに関しては、全てオープンにしていこうと思っているし、ガンになるということは恥ずかしいことでも何でもないし、もし私の経験が他の人の役に立つことがあれば、どんどん使ってもらおうと思っているから。(一部抜粋) --------------------- 予想通りの言葉ながら、彼女の返事はうれしかった。私自身、彼女を通してさまざまに考えさせられたし、少しでも文章に残しておきたいと思ったので、遠慮なく実名で書かせてもらうことにする。 彼女は小畑澄子さん。muse new york Vol. 5の「国際結婚をした日本人インタビュー」にも登場してくれた人物だ。私がニューヨークに来てまもなく、一時勤めていた日系の出版社に、彼女は編集者として勤めていた。現在は翻訳家・ライターの仕事をしている。私と同じく36歳。 小畑さんは高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳のとき渡米した。ニューヨーク州立大学に在学中、現在の夫であるケヴィンと知り合う。彼はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人。仕事はジャーナリストだ。 彼はその後、コロンビア大学のジャーナリズムスクールを卒業し、澄子さんもまたコロンビア大学の大学院でアジア研究科を専攻した。ニュースペーパーを新聞を読むのが大好きな彼女。『料理をしている時間があれば、新聞を読め』という彼の言葉を聞いたとき、この人となら一緒にやっていけると思った、という。 先週、ニューヨークのブルックリン区にある彼らの家を訪ねた。10月初旬、入院先に見舞って以来、彼女に会うのは初めてだ。無論、病院に行ったときには彼女は眠っていたから、正確には数カ月ぶりに会って話すことになる。 少し緊張した心持ちでドアを開けると、思っていた以上に顔色がよく、元気な声の彼女が出迎えてくれた。彼女が敬愛している「アントニオ猪木」の顔が大きくプリントされた迫力満点のTシャツを着ている。 「ちょっと〜、猪木さんの目が鋭すぎて怖いよ!」という私に、 「このTシャツ、妹がわざわざ専門店を探して買ってきて、日本から送ってくれたのよ」とのこと。 部屋には千羽鶴が飾られ、「闘魂!」と大きく書かれたリボンが添えられている。 小畑さんは、そもそもが細身だったから、更に痩せていて辛いのではないかと想像していたが、そうでもなくて安心した。 彼女は、がんが発見される前までは「健康的」とはいいがたい生活を送ってきた。タバコを吸い、お酒を飲み、食生活もデリバリーの外食中心。「栄養のバランスなんて考えたこともなかった」というくらいに無頓着だった。 その分、彼女の情熱は仕事や趣味に傾けられていた。「そもそも身体が強かった」こともあり、きついときにもかなり無理をしていたらしい。ドクターに行くのも、薬を飲むもの嫌いで、風邪を引いたりしたときも極力、薬を避けて気力で治してきたという。 だから、9月に入ってまもなく、少しずつお腹が張ってきたときには「どうしたんだろう」と思う程度で深刻に考えなかった。妊娠していないことはわかっていたからおかしいと思ったものの、日増しに腹部が膨らんでいく。しかし痛みはない。食欲もあるし便通もいつも通りだった。 あとから気づいたことと言えば、その前月(8月)に生理が2回あったということくらいで、それ以外は、がんを患っているなどと思わせる予兆は全くなかったという。 彼女の身体の異常に気づいたケヴィンから「とにかくすぐに病院に行って来い」と言われ、ひどく忙しい最中だったにも関わらず、時間を見つけてしぶしぶ病院へ行った。お腹の張りが気になりだしてから2週間目のことだ。 最初に訪れた大病院で、即刻、詳しい検査を促される。「今日は忙しいからこの次に……」という彼女を、ドクターは厳しい口調でたしなめ、事態の深刻さを告げた。結局、その日のうちにしぶしぶ検査を受け、思いもよらなかった結果を聞くこととなる。 ドクターのデスクに呼ばれ、カーテンを閉じられる。ドクターいわく、お腹の膨らみは腫瘍によるもので、すぐにも手術が必要だとのこと。心の準備もなにもない、面と向かっての告知である。まさか自分ががんであるなどとは予想もしていなかったから、たいへんな衝撃だった。とはいえ、まだそのときは、ドクターの言葉が本当なのか、半信半疑だった。 (まさか? どういうこと? 信じられない……) 一人でドクターの話を聞いているうち、頭の中が混乱してきた。近くで待ち合わせていた夫を携帯で呼びだし、もう一度、二人一緒にドクターの説明を聞く。しかし、二人とも、すんなりとは納得することができない。セカンド・オピニオンを得た方がいいだろうと、その直後にスローン・ケータリングというがん専門の大病院を訪れた。 やはりがんに間違いなかった。 そして数日後に手術を受ける。 施術したドクターに 「君のお腹にはフットボールとバスケットボールほどの大きい腫瘍があった」と驚きを込めて言われた。それほどまでに、大きかったと言うことだ。 手術の際、いくつかの臓器とその一部を切除した。他の臓器に転移しているがんについては、抗がん剤投与(キモセラピー)によって治療することになった。数日後、退院した彼女は、今のところ毎週火曜日、キモセラピーのために通院している。 日本では、抗がん剤を投与されているがん患者は、継続的に病院に入院するが、アメリカは医療費が高いためか、あるいは根本的にシステムが違うのか、手術を終えた患者は即退院し、週一回のキモセラピーは通院して受ける。 ここで簡単に、抗がん剤についてを説明しておきたい。そもそも抗がん剤とは「細胞を増やさないようにする薬」「増えようとする細胞をつぶす薬」である。他の細胞に比べ、増えるスピードの速いがん細胞をつぶすのに好適だが、身体にとって「いい細胞」と「悪い細胞」を識別する能力がない。 増える細胞をことごとくつぶしてしまうため、身体のなかでも日々増加する細胞が破壊される。たとえば、外から入ってくるウイルスに抵抗するための白血球やリンパ球、毎日少しずつ伸びている毛髪など。だから、抗がん剤の副作用として頭髪をはじめとする体毛が抜けたり、感染症にかかりやすくなったり、吐き気や下痢が生じたりする。 医療の進歩に伴い、現在では吐き気を抑える効果のある薬が抗がん剤と共に投与されるようになったため、従来よりも楽になったと聞く。 アメリカでは前述の通り、抗がん剤は通院によって施されるほか、白血球を上げるための定期的な注射は、本人が自宅で打つように指導される。 「私、日本にいたら、ずっと入院させられる状況なんだよね。とてもじゃないけど、耐えられない。考えただけで気が滅入ってくる」と小畑さんは言う。 アメリカの、明るく清潔感にあふれた病院にですら、彼女はいられないというのだから、暗くてどんよりした印象の古びた病棟の、6人部屋に入院していた父がどれほど憂鬱だったか、察せられる。 父の病室には同じように肺がんを患った年輩の男性患者がいた。肺がんだというのにタバコをやめない人(病院に喫煙室があること自体が信じがたい)、病院食がまずいからとカップヌードルなどを食べる人、効果があがらないからと点滴を勝手にはずしてしまう人など……。妙に「入院慣れ」している一方で、真剣に病気を治そうとしている人が見あたらなかったのには驚いた。 見舞いに来る人が誰もいない患者もいた。そんな人にとっては、父へ一日に2回も食事を持ってくる我が母や妹の姿を見るのは、心穏やかではなかったのではあるまいかとも思う。重い病にかかり、精神的に参っている人たちが、プライバシーのない環境に置かれることは、相当に酷なことだと感じる。 加えて言うなら、この1年半のあいだに、父と同室だった患者はみな他界したと聞いた。 以前も書いたが(Vol. 12)、日本の病院では患者の精神的なケアに、ほとんど手が回っていないようだが、身体はもちろん、心のケアがどれほど大切かを、父の病気を通して実感したものだ。ちなみに小畑さんが手術をした直後、病室にカウンセラーが派遣され、セラピーが行われたという。 「今回、病気になったことでね、ほんっとに思ったんだけど……。こんなに家族とか友達がありがたいものとは、思わなかった」 強く、思いを込めた口調で小畑さんはそういいながら、キッチンの方へ立ち上がり、いくつかのノートやメモを私に示してくれた。 彼女のお母さんとお姉さんが、彼女のために「健康にいい料理」のレシピを書き連ねた、それは手書きのノートだった。表紙に「すみ子」と大書きされている。キッチンの壁には、彼女のお姉さんによる「食のアドバイス」が貼られている。がんにいい食べ物やその効能など、一つ一つにお姉さんからのコメントが添えられている。小畑さんの姪の絵も壁にある。 手術後、家族が日本から来た折に、キッチン用品や調味料も買いそろえてくれたという。 「今までは塩とこしょうと醤油しかなかったんだけど、今はみりんも味噌もあるのよ!」 笑いながら彼女が言う。 「私が料理をするなんて、ほんと信じられない」と言いながら、その日彼女は、訪れた私をはじめ数人の友人のために、讃岐うどんをゆでてくれ、麻婆豆腐を作ってくれた。できあいの「麻婆豆腐の素」を使うのじゃなく、ちゃんと一から作ってくれたのだ。とてもおいしかった。 やがて彼の夫が帰ってきた。彼はアメリカ人ながらも、二人はハグをしたりキスをしたりするわけでもなく、至って「日本的」な距離感を持ったカップルだ。 部屋に入るなり、彼が彼女に袋を手渡した。中にはきれいな色のスカーフが3枚、入っていた。副作用で髪が抜け始めた彼女へのお土産だった。 彼らは互いに互いの仕事を尊重し、いわば「同志」のような絆を持つ二人だが、今回のことで、彼が相当に、彼女のことに心を砕いていることが、察せられた。当然のことながら、彼女の身体が心配であるに違いない。 話はそれるが、A男の母親は、彼が小学生の時に白血病になり、医者から「余命は半年」だと告げられた。非常に知的で独立心の強い女性だった彼女は、病院での化学療法を拒否し、医者に頼ることをやめ、独自で自然療法を調べ上げた。 自らアメリカのボストンに赴き、菜食を推奨するドクターの指示に従い、麦の若葉をジュースにして飲むほか、さまざまな食事制限を始めたらしい。帰国してからは、有機野菜だけを作る農場の経営も始めた。 また、ある時にはアメリカインディアンの部族を訪れ、呪術めいた治療を受けたこともあったという。なんでも、身体を「燻す」らしく、当時の話をしてくれたA男の父親いわく「あれはひどかった。煙くて煙くて。僕は翌日、気分が悪くなって吐いちゃったよ」とのこと。 それでも、色々な努力が功を奏していたのだろう、彼女はA男が成人するまで9年間、元気に生き延びていた。その間、夫婦で何度か海外旅行にも出かけた。しかしながら最終的には親戚同士のトラブルに巻き込まれ、心労が祟って他界した。A男の姉が結婚した直後のことだ。 「あのことがなければ、お母さんはもっと長く生きられたはずなのに」と、その親戚たちのことを、今でもA男は忌々しく思っている。 A男の母、私の父、小畑さんにはそれぞれに共通した「本人の意志の強さ」があり、また本人を取り巻く環境が、大いに精神状態や病状を左右していることが察せられる。 人の生命力というのは、医学的な側面だけからは推測することが出来ない、さまざまな要素が絡み合って、決定づけられるものではないかと思う。なにしろ「笑うこと」が、がん細胞の増加を阻むというデータもあるくらいなのだから。 小畑さんのことだから、徐々に生活の在り方を改善し、自分なりにうまく病と向き合いながら、これからも生き生きと暮らしていくのだろう。 時に深刻に語りながらも、いつもと同じように笑いの絶えない時間を過ごし、すっかりいい気分で彼らの家を後にしながら、私は医者でも何でもないけれど、 「ああ、よかった。彼女は大丈夫だ」と思い、晴れ晴れとした気持ちになった。
※昨年、父が入院した際にまとめたレポートをアップロードしています。あくまで父のケース(肺がん)を対象に書いていますが、身近にがんを患っている人がいる人には、多少なりとも参考になるかと思います。 http://museny.com/cancer.htm |