ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 55-2 10/21/2001

 


●10月7日(日):知人の結婚式にて。あの朝、寝ている間に歯を折ったS氏の話

午後1時頃に始まる友人の結婚式のため、A男と私は12時過ぎに家を出た。教会での式の後、小さなレストランでレセプション。ちょうどそのころ、アメリカによるアフガンへの攻撃が開始されていた。そんなことを知らず、祝杯をあげていた私たち。

テーブルの隣の席は、ニューヨークで発行されている日系誌の営業をしているG氏が座っていた。彼とは顔見知りで、何度か話をしたこともあったが、そんなに深い話をしたことはなかった。

彼は現在の仕事に就く前、駐在員として渡米し、ワールドトレードセンターに勤務していた。前回、爆発事件があったとき、現場にいて、爆発による振動で数メートル吹き飛ばされたのだという。

9月11日の午前3時頃、彼は激痛で目が覚めた。寝ている間に、自分の歯を折ってしまったというのだ。通常は上の歯が前に出ているところが、下の歯の後ろ側に入り、グッと押し出した状態で下の歯を折ってしまったという。

そんなこと、あり得るの? とびっくりするが、彼自身も痛みと驚きでたいへんだったらしい。

そしてその数時間後、あの事件。彼は昔の同僚を二人、亡くしたという。

あの朝、子供たちが無性に泣いて、父親や母親の出勤を引き留めたという話をあちこちで聞いた。虫の知らせというものは、必ずあるのだと思う。

Gさんと話していて、今回の事件に対してとても真摯に受け止めていて、思いやりのある真面目な目で物事を捉えている様子に、とても心を打たれた。日系社会に詳しく、「飲み屋関係」のネットワークも広く強く、顔の広いGさん。しかしあれ以来、とても飲みに行って騒ぐ気持ちにはなれないと言う。

ついに戦争が始まったが、ここは相変わらず、星条旗がなければ、見分けがつかない風景。以前、映画「パールハーバー」のことを書いたとき、当時のアメリカの豊かさに驚いた、と記したが、結局、そうなのだ。

確かにテロでやられたけれど、ここは戦場ではない。だから、せめて星条旗があって、それを見て戦争を認識し、沈鬱になるくらいのことは、すべきなのだ。だって、この国が、戦争をしているのだから。確かに日々の生活は大切。だけれど、いつもと変わらぬ陽気さでいる必要は全くないし、そんな状況は戦争ではない。

皆が、この痛みを抱えるべきなのだ。少なくとも、攻撃が終わるまでは。

 

●10月8日(月):怖いほどに静かな一日。コロンバスデー

戦争が始まった翌日。A男は今朝、DCに戻っていった。今日はコロンバスデー。パレードの行われている五番街は別としても、部屋から見下ろす風景は、ひどく静まりかえっている。通りを行き交う車もまばら、人影も少ない。

部屋から見えるいくつもの高層アパートメントの窓という窓を眺める。それぞれに、それぞれの思いを抱えた人たちが、この一日、静かに家で過ごしているのだろうか。

私は、外に一歩も出ることなく、ひたすら原稿を書いていた。

 

●10月10日(水):女優志望の友人、ファッション業界の友人と語り合う夜

女優志望の友人Mと、かつてコムデ・ギャルソンの店長だったKが遊びに来た。外食よりもうちで食事をしたほうがリラックスできるからと、ワインや食べ物を用意する。

Kは息子を連れてやって来た。生まれたてのときにあって以来だったのが、もう1歳7カ月。彼女は彼を毎日職場に連れて行き、オフィスのナニーに預けている。その彼女が、他のナニー仲間と散歩に出かけたりするから、息子はとても社交的。笑顔がかわいらしく、私にも抱きついてきたかと思うと、いきなり胸をつかむ。「おいおい、なんてガキだ」「はやくもセクハラおやじか」などと皆で笑いつつ、彼の屈託がない笑顔に気分がなごむ。

なごむとはいえ、Mは随分、疲れ切っていた。彼女の母は、あの朝11時に到着する全日空便でニューヨークに向かっていた。ところが急に進路を変更し、デトロイトに到着。彼女は心配で心配で、狂ったように何度も何度も全日空に電話をするがつながらない。

結局、夜中の2時に、母親たち乗客が宿泊しているホテルに連絡が取れ、母親と話をする。ほとんどの乗客が、数日デトロイトに足止めされ帰国したのだが、彼女の母親は、数名のビジネス客がニューヨークまでバンをチャーターして来るというのに便乗し、なんと翌日、ニューヨークに来たのだという。マンハッタンのホテルで解散することになっているから、ブルックリンに住んでいる彼女は、母親を迎えに行かねばならない。

交通手段もなく、やっとの思いで迎えに行くも、母親は驚くほど元気。

「おみやげの日本酒が重かったから、持って帰るのいややったんやぁ」と母。

「自分の母親ながら、あの人、なんにもわかってなくて、もう信じられなかった」と吐き捨てる彼女。

事件を自分のことのように受け止め、できることならボランティアに参加したかった。遺体の整理でもなんでもいい、自分にできることならなんだっていいから、やりたかった。なのに、母親ときたら、観光のことばかり気にかけている。訳が分からない。

「今ね、マンハッタンで、5000人もの人が行方不明になってるんだよ。私はね、いても立ってもいられない気持ちなの!」

そんな言葉を何度繰り返しても、暖簾に腕押し状態。あまりにもしつこく母にせがまれ、飛行機が運航を再開した直後、二人は観光にカナダへ出かけた。150人乗りの飛行機に、7人しか乗っていなかったという。

結局、母親とは2週間の間、毎日のようにけんかをし、ストレスがたまりにたまって、今、ひどく体調を崩しているのだ。

「もう、女優の仕事も、なにもかも、どうでもよくなってしまった。今までやってきたことが、なんだったのかわからなくなってきた。しばらく日本に帰ろうかと思う」

彼女がひたすら痛々しかった。普段はよく飲む3人が、5時間も語り合っていたのにワインを1本半、空けたきり。

一方、Kはソーホーのオフィスに働いていて、爆音を耳にし、燃え上がるビルを目の当たりにしつつも、毎日通勤し、子供の世話に追われていて、もちろん心に痛みを負っているけれど、沈み込んでいる余裕はないという様子。「今すぐにやらねばならないこと」が目前にある人の方が、こういう時、救われるのかもしれない。

 

●10月11日(木):人間ドックへ。とりあえずは健康管理から

朝、日系の病院へ行く。3年ぶりの健康診断だ。レントゲンや血液検査など一般的な健康診断と婦人科検診。当日結果が出たものはすべて良好だった。どんなに忙しくても、きちんと食事を取り、睡眠をとり、適度な運動もしているから、問題はないとは思っていたものの、検査をしておくに越したことはない。

 

●10月12日(金):列車で隣り合わせた穏やかなアメリカ人男性との会話

午前中に仕事を片づけ、移民法弁護士のオフィスへ。私の就労ビザがあと1年で切れるため、違うステイタスのビザを申請するべく相談に行ったのだ。経費は数千ドル。作業にも半年はかかりそうだ。グリーンカードがとれたなら、どれだけ心おきなくこの国で生活と仕事ができることか。本当にこればかりは、色々な条件が必要だから、自分の努力ではどうにもならない。辛いところだ。

弁護士事務所を出て、その足でペンステーションへ。週末をDCで過ごすために。駅は今まで見たこともないくらいに込み合っていた。飛行機を使う人がいないせいで、列車の本数が増えたにも関わらず、どの列車も満席。あらかじめ予約を入れておいた割高の列車に乗る。普段なら普通車でも席を確保できるのだが、とても座れそうになかったからだ。

隣に座っていた若い男性が話しかけてきた。私が読んでいた、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を見て、「それはいい本だよね」と声をかけてきたのだ。

私も私で、彼が読んでいた「白雪姫と七人のこびと」の美術書が気になっていた。「白雪姫と七人のこびと」は、最近DVD用にリメイクされたのを、この間ビデオショップのモニターで「立ち見」したのだけれど、それはそれはすばらしかった。その美術書には、最初のアニメーションのデッサンなどがいくつもあった。

彼もライターで、現在、プロジェクトで「白雪姫と七人のこびと」に関する文章を書いているとのこと。温厚そうな白人男性で、口調がとても穏やかだ。

彼は妻と二人でマンハッタンに暮らしていたのだが、あの事件以来、妻がナーバスになってしまい、バルティモアの実家に帰っているらしい。よって彼は週末ごとにバルティモアへ行く生活を始めたばかりだとか。

あの事件のことを、ひどく沈んだ口調で話し始める。

「あのビルは、ミノル・ヤマサキっていう日系人が設計したんだけど、知ってる?」と、私が尋ねる。

「いや、知らない」

「彼はね、あのビルが完成したときに、こんなコメントを発表していたんですって。エンパイアステートビルやロックフェラーセンターや、クライスラービルなんていうのは、いかにもアメリカンスピリットの象徴って感じで、外国人には入りにくいムードがあった。でも、ワールドトレードセンターは、誰もが入りやすい、開放的なビルにしたかったんだ。世界中の人たちが気安く出入りできる、まさに世界貿易センターと呼ぶにふさわしいような場所に。ここを世界の平和のシンボルのような存在にしたいのだ。って」

「彼はまだ生きてるの?」

「ううん。もう亡くなってる」

「そうか。よかった。もしも彼が生きていたら、どんなに辛いことかと思ってね」

「本当にね……」

「この件で、僕もそうだけど、たくさんの人たちが沈み込んでる。だって、こんな経験をしたの、生まれて初めてのことなんだもの。本当に、なんていっていいのかわからない。でもね、僕の兄はドクターなんだけど、彼はとても楽観的なんだ。このことで、世界中の多くの人たちが、戦争と平和についてしっかりと考えることによって、争いが減って、人々の愛情が強まるんじゃないかって……」

彼のいわんとすることはわからないでもないけれど。そんな一筋縄ではいかないさまざまなマイナスの感情が、世界のそこここに漂っているのだ。

あれこれと話し込んでいるうちに、バルティモアに到着し、彼は大急ぎで列車を降りた。名前を交わすこともなく。

 

●10月15日(月):チベット料理を食べる夜:ピーナッツバターのことなど

週末はひたすら仕事。合間に映画を観たりビデオを見たりするが、何となくストレスが溜まっているのがわかる。

月曜日、マンハッタンに戻り、急ぎの仕事を片づけ、夜はT子とチベット料理の店「チベタン・キッチン」へ。小籠包のような前菜と、豆腐と野菜の炒め物、ラムカレーなどを食べる。あっさりした味付けでお腹にやさしい料理だ。

T子はいまだ混乱の極み。炭疽菌にもナーバスになっていて、薬を買いたいと言っている。体調も悪いようで、気分も滅入っているのだろう。

炭疽菌については、なぜ、人々があんなにも大騒ぎするのか、私にはよくわからない。確かにテロの一環だと思うと怖いけれど。

パニックになっては彼らの思うつぼだとも思うのだが……。

それにしても、数日前の新聞。アフガニスタンへの空爆を開始したと同時に、米軍は食料もまき散らしているようだが、そのメニューをご存じだろうか。宗教のことを配慮して肉類は入っていないのは当然だが、クラッカーのようなものにつけるためにか、「ピーナッツバター」や「ストロベリージャム」が入っているのだ。

ピーナッツバター……。アメリカ人の大好きな食べ物。確かにカロリーも高く栄養価も高いのかもしれないが、アフガニスタンの人たちにピーナッツバター……って。アメリカってどこまでもアメリカなのね。と思うと、おかしいような悲しいような、なんともいえない気持ちになった。

 

●10月19日(水):本当は家族4人で見るはずだったオペラを一人で見る。

本当なら、本当ならば、今頃、両親と妹を引き連れて、秋のマンハッタンを満喫しているところだった。

オペラのチケットが4枚。友人の友人で、行きたいという人がいたので半額で2枚お売りする。残りの一枚は、開演間際まで入り口で「ダフ屋もどき」をやろうと思ったのだが、ぎりぎりまで打ち合わせがあり、開演10分前に到着。

それでも5分くらいは立っていようとチケットを掲げていると、本物のダフ屋がやってきて「いくらで売るか?」というから、「いくらで買うの?」と聞けば、

「20ドル」だという。「これは85ドルだからせめて40ドル!」と言ったものの、向こうも譲らないし、どうせ諦めていたんだからいいや、と思い彼に売った。

しばらくして老婦人が隣の席にやってきた。

「そのチケット、いくらで買った?」と聞きたくてたまらなかったが、なんだか失礼な気もして、我慢した。

演目は「ラ・ボエーム」。1850年代のパリの下町を舞台に展開する、悲恋の物語。二幕目の、パリの下町の、クリスマスを想定した舞台設定が、驚くほどにリアルですばらしく、舞台の隅々を歩き回りたくなる衝動に駆られた。

家族に見せたかったという思いが募る。

 

●10月18日(木):エンパイアステートビルにオフィスを持つ日本人弁護士と夕食

弁護士のKさんと夕食。彼女もアッパーウエストに住んでいるので、近所のトルコ料理店「PASHA」に行った。私は近所にも関わらず行ったことのない店なのだが、雰囲気がとてもいい。

ラム料理がおいしいということで、またもやラムのカレー風煮込みを食べる。これがまたおいしい。初めて飲むトルコ産のワインも、喉ごしがよくておいしかった。

以前にも書いたかと思うが、Kさんは多分40代後半の女性で、結婚にはまったく興味がなく、独身生活を楽しんできた人だ。

そんな彼女も、あの事件以来、様子が変わった。

「やっぱり、こんなとき、一番大切なものって家族かしら、って思うのよね。何だか外食に出かける気もしないし、レストランも以前に比べると人が減ってる気がするし。おいしいものを食べに行こうという熱意がなくなったのね、最近。家族のある人は、家庭で食事をする機会が増えているんじゃないかしら」

離婚調停も手がける彼女。最近、確かに離婚のケースが減少しているようだという。それにしてもエンパイアステートビルは彼女の勤務先。避難騒ぎなどが立て続けにあって、働いている人も気が休まらないようだ。

「私の友人はアメリカ人ばかりなんだけど、本当にみんなダメージを受けてるわよ。今日も同じフロアの弁護士が、どうしても、今日は落ち込んで、仕事をする気にならないってぼやいてたし」

彼女自身は、あの日以来、テレビをシャットアウトして、メディアからの情報を自ら避けたという。だから、精神的なダメージが、まだ浅いのだともいう。それでも、明らかに、これまでの彼女の様子とは違った。彼女もまた体調が悪いらしく、朝起きると手がむくんで握れなかったり、動悸がすると言う。検査の結果、特に悪いところはなかったらしいが、きっとストレスなのだろうと認めていた。

別れ際、お互い手を握りあって、「また食事をしましょうね」と約束した。日本人同士では、抱き合ったり手を握りあったりすることは、滅多になかったのに、なぜかそうせずにはいられなかった。誰もいない部屋に帰る私たちは……。

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★高層ビルという存在:マンハッタンと似ていたイタリアのサンジミニャーノ

人は昔から昔から、高い建築物を権威や繁栄の象徴とみなしてきた。

新約聖書の創世記11章にあるバベルの塔の話を知っている人は多いと思う。ノアの箱船で生き延びた子孫たちは、街の中心に、天まで届くほどの高い高い塔を造ろうとする。建物はやがて完成に近づいたところ、人間の奢りを見抜いた神が、彼らから共通言語を奪い、混乱に陥れ、バベルの塔は、天に届かぬままに、建築が終わる。

イタリアのトスカーナ地方には、小高い丘の上の城塞の街がいくつも点在している。

サンジミニャーノもそのひとつ。かつて富の象徴として、競って高く造られた塔が14本、今でも残っている。14世紀〜15世紀の全盛期には、その小さな街に72本もの塔がひしめいていたという。

当時の絵をどこかで見たのだが、それはマンハッタンによく似ていた。いや、現在の姿ですら、遠くから眺めるその街のシルエットは、摩天楼をイメージさせる。なぜなら塔のほとんどが、ワールドトレードセンターと同じく、シンプルな四角柱なのである。そしてその光景は、無性に人の心を引きつける。

繁栄の象徴としての摩天楼は、衰退とともに、やがては崩れ去らねばならないのか?

500年先のことなど、今を生きる私たちには知る由もない。

以前も書いたが、私が住むビルでは以前火災があり、非常階段で避難しようとしていた上階の4人が、煙に巻かれて亡くなった。私の部屋の斜め上、19階が火元だったが、はしご車はすでに届かない。亡くなった人は、40階あたりから階段を駆け下りてきたのだった。

消防士の友人を持つ友人の話によると、万一の時に救助できるのは、せいぜい10階までだという。想像に難くないコメントだが、あらためてこの事件が起こってみると、どれほど危険と背中合わせに生活しているかがわかる。

マンハッタンは摩天楼が美しい街だ。繁栄の象徴だけとしてだけでなく、人間が造り得た、人工美の調和もそこにはあると感じている。しかし、あのような悲劇が起こると、そのはかなさに、愕然とするばかりだ。


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