ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー
Vol. 54 9/22/2001
今は、9月22日土曜日の昼。火曜からわずか3泊4日、ニューヨークで過ごし、昨日再びワシントンDCに戻って来ました。この1週間は、本当に長く感じられました。 日本では、きっとテロのニュースも遠い昔のことのようになり、話題に上ることも極めて少なくなったことだと思います。 この10日間というもの、あまりに濃密な日々で、考えも四方八方に及び、ひどく疲弊しましたが、来週からは、生活のリズムを通常に戻すべく、急ぎではないからと中断していた仕事を再開しようと思っています。忙しくなりそうです。 さて、今日のメールマガジンは、すごく長いです。ニューヨークでの出来事などを、主に表面的なことばかりだけれど、書き留めたものを送ります。 気持ちは、毎日左右に揺れていたので、できるだけ感情を排除して書いてきたつもりですが、今読み返すと、やはり感情的です。でも、あえて手を加えず、そのままにしておきます。
●9月15日(土)から17日(月)にかけての数日 ブッシュ大統領がワシントンDCにあるイスラム・センターで演説をし、国民に呼びかけていた。今回のテロは、イスラム教の真理に反することで、あくまでも過激派の行いである。一般の、敬虔なイスラム教徒には何の罪もない。数多くのイスラム教徒たちが、この国を支えていると。米国民は、それを深く認識するべきだと。 しかしながら、全米各地で、イスラム教徒を迫害する事件が起こっている。昨日はパキスタン人の食料品店主と、アラブ人に間違えられたシーク教徒のインド人が射殺された。 A男はターバンを巻いていないからいいけれど、狂った輩に間違えられて撃たれたりしたら困るので、「星条旗のリボンをつけて歩いたら?」と勧めた。事実、アラブ系やインド、パキスタン系の店舗経営者やタクシードライバーは、身を守るために敢えて星条旗を掲げている人が多い。 昨日、近くのドラッグストアで、念のためにマスクを購入した。最後の1箱だったけれど、5つ入りだったので、1つ、A男にあげた。いざというときのために。 マンハッタンに住んでいても、ロウアーマンハッタンに行くのは年に数回。ワールドトレードセンターのてっぺんに上ったことすらない。打ち合わせで数回、ビル内の企業を訪ねたことがあるだけだ。 わたしの住むエリアは、きっといつもと、さほど変わりはないだろう。
●9月18日(火)午前:そして、10日ぶりのマンハッタンへ 「本当にニューヨークに行くの?」「今週いっぱいはこっちにいたら?」「そんなに大切なミーティングがあるわけ?」 前夜まで、ことあるごとに、A男はしつこく尋ねて来たが、もうこれ以上、わたしはDC(アーリントン)にはいられなかった。そもそも月曜日に戻る予定だったから、わずか1日、延ばしただけのことなのに、ずいぶんとニューヨークを離れていた気がする。 別に、絶対に、今日、ニューヨークに戻らねばならない理由はなかった。打ち合わせの予定は明日以降に入れているし、多分、今日帰ったところで仕事をすることはないだろう。でも、あれから1週間が経ち、自分の気持ちが少し落ち着き始めると、いてもたってもいられなくなってきたのだ。夜、一人になるのは不安かも知れない……、何かがあったとき、家族と一緒なら救われる……、そんな思いも頭をよぎるが、そんなことばかり言ったところで、前には進めない。 朝、目を覚まし、A男を仕事に送り出した後、荷造りをし、部屋を簡単に片づける。沈みがちな気分とは対照的に、天気がよく、それだけでも救われる。いつもは時間に余裕を持って出発するのに、今日はぎりぎりになった。家の近くでタクシーを拾う。 「ユニオンステーションまでお願い。急いでるから、早いルートで行ってね」 「ユニオンステーション? 多分、駅までの道は混んでると思うよ。みんな飛行機に乗れないから、アムトラック(鉄道)を使うと思うし」
ワシントンDC周辺には3つの空港があるが、DCの中心部に最も近いレーガン・エアポートはいまだ閉鎖中だ。なにしろ、ほとんどの便がペンタゴン上空を通過せねばならないから、再開の見通しは立っていないようなのだ。
「できれば20分以内に到着したいの」 「ううん。どうがんばっても25分だな」
ニューヨークへの列車は1時間おきに出ているから、乗り損ねたら次を待てばいいのだが、駅で無為な時間を過ごすのはいやだった。
運転手は若い美形のインド人。彼はにこやかに声をかけてくる。 「どこへ行くの? ニューヨーク?」 「そう。夫はここに住んでるんだけど、わたしはニューヨークに家があるのよ。それでこれから帰るところなの」 「飛行機は使わないの?」 「飛行機って……、今、飛行機に乗る気にはなれないわよ、怖いでしょ?」 「え? 飛行機、怖がってるの?」
そう言って、彼は笑った。さすがインド人。怖いもの慣れしている。というか、ピントはずれ。(ここは笑うところじゃないやろ!)と思いながらも、つられて笑う。
思えば、あの事件以来、わたしはアーリントンにある自宅の周辺しか外出しなかった。いつもなら、DCの町中まで足をのばすのが、とてもそんな気にはなれなかったのだ。
タクシーの車窓から見るDCの町は、先週の土曜日と、なんら変わっていない。国旗を掲げて走る車は、1台しか見かけなかった。星条旗はあちらこちらで見かけたけれど、この街はそもそも、星条旗で彩られているから、取り立てて珍しいことではない。
運転手の言葉通り、ぴったり25分後に駅に到着した。出発の5分前だ。駆け足でチケットブースに向かい、自動販売機で切符を購入し、大急ぎでホームに行く。 運転手は「ユニオンステーションは込んでいる」なんていっていたけれど、構内はガラガラだった。いつもなら、荷物を携えた大勢の人たちが行き交う場所なのに、妙に静かだ。その閑散とした空気が、心に重い。 「New York」のサインがあるホームに付くと、すでにみな乗車していて待合室には誰もいない。駆け足で列車に向かうと、改札にいたポリスマンが、「急がなくてもいいよ。まだ時間があるから」と声をかけてくれた。時間があると言っても、出発まで1分くらいだったが。 空いた電車に乗ることを、辛いと思うだなんて、初めてのことだった。いつもなら、込み合っている列車を嫌悪しているのに、「どうして誰もニューヨークへ行かないのよ?!」と思い、目頭が熱くなった。 乗客の面子はまちまちだった。ビジネスマンもいれば老夫婦もいる。幼児を連れた妊婦も、若い女性もいた。 普段は、子供が泣き騒ぐ声に耐えられないはずが、今日は、その声さえも耳の入り口で跳ね返っているが如く、何も入ってこない。20分ほど、うとうとした以外は、3時間余り、とりとめもないことを考えていた。 ペンシルベニア州を過ぎ、ニュージャージー州に入り、ニューヨークの手前の駅であるニューアーク・エアポート近くまで来た。いつもなら、ぶつかりはしないかと不安になるほど、数多くの飛行機が離発着しているのに、今日の空は静まり返っている。まばゆく澄み切った青空を見上げると、1機、見えた。それ以外は、鳥たちがゆったりと飛ぶ姿。 ニューアーク近くに来たとき、彼方にエンパイアステートビルが見えた。ハッとして視線を右側に移す。いつもなら、二つのビルが見えるはずなのに、やっぱり、そこには、何もなかった。 エンパイアステートビルだけが、ニューヨークの摩天楼一軍を一手に率いているかの如く、健気に、天を指して、そびえ立っていた。 列車はどんどんとマンハッタンに迫る。ワールドトレードセンターがあったあたりに、煙がうっすらと立ち上るのが見える。やがて列車はトンネルに入り、ハドソン川の下をくぐって、マンハッタンに到着した。列車を降りるとき、胸のあたりに、大きな固まりのようなものがこみ上げてきて、胸がつかえた。
●9月18日(火)午後:ただいま 列車を降り、階上にあがり、ペンシルベニア・ステーションの外に出る。いつもと変わらない、マンハッタンの風景。イエローキャブに乗り込み、34丁目にあるその駅から、60丁目まで8番街を北上する。いつもと同じように、込み合った道路。あえて注意を払わなければ、店頭に掲げられた星条旗が多いことにさえ、気づかないくらいだ。 信号待ちをした時、路上駐車していた車の一面に、Missing(行方不明者)の張り紙が施されているのを見た。それ以外は、何一つ、変わらない。 ビルの1階ロビーで、不在中に届いた荷物や郵便物、読売新聞の衛星版などを受け取り、部屋に戻る。まずは水をコップに1杯飲み、コンピュータのスイッチを入れ、荷をほどき、郵便物を開封し、たまった新聞にざっと目を通す。いつもと変わらない。 ニューヨークタイムスの日曜版の一面に、星条旗が印刷されていた。隅の方に「使用法:新聞から切り離し、窓に貼りましょう。Embrace freedom(自由を、抱きしめよう)」と注釈があり、その下に小さく、From the over 250,000 Kmart associates.とある。 Kマート とは、米国の、日用雑貨の大手チェーン店。彼らがこのページを買い取って、一面、星条旗にしたのだ。粋なことをする会社だなあと思う。切り取って、窓ガラスに貼った。そのガラスの前に、昔、土産物店で買っていた「自由の女神像」を置く。亡くなった人たちへの、哀悼の気持ちを込めて。 一段落したら、午後3時になっていた。身支度をして、街の様子を見に出かけることにする。そういえば、まだ昼食も取っていなかったのだ。 ビルを出て、まずは隣の聖パウロ教会へ。売店で、2ドルのキャンドルを買い、灯をともし、お祈りをして、今回の惨事に伴う特別礼拝のスケジュール表を1枚、バッグに入れ、街に出る。 花屋には早くもハロウィーン用のカボチャが飾られ、スターバックスでは誰かがくつろぎながら読書をしていて、路傍に露店を広げ、古本を売る人がいる。公園のベンチでは、いつものように誰かが座っている。 いつもと同じ風景。でも、あたりをただよう空気が重い。人々の表情に「余裕」がない。 あちこちの店頭で、星条旗が掲げられていたり、ガラスに貼られていたりする。中国料理店にも、コリアン一家経営のワインショップにも、メキシカン・レストランにも、雑貨店にも、ファッションブティックにも、本当に、至る所に。 お腹が空いていたことを思い出し、57丁目の6番街にあるマクドナルドに入る。この間、マクドナルドで痛い目にあったばかりなのに、急に、ハンバーガーとフライドポテト、そしてダイエットコークという、ジャンキーなものが食べたくなったのだ。 このマクドナルドは、2階席からの見晴らしがいい。窓際に座り、ハンドバッグをしっかりとそばに置いて、57丁目を見下ろしながら、食べる。消防車が、星条旗をたなびかせながら、何度も行き交うのが見える。向かいの店にも、その隣のビルにも、大きな大きな星条旗だ。 隣に座っている黒人のお兄さんは、ひどく真剣な表情で読書している。本のタイトルをちらりと見ると、「イスラムの哲学」とあった。 途中で「コスメティック・プラス」というコスメ用品店に立ち寄る。この店は、マンハッタン内にいくつもの支店を持っているのだが、来月いっぱいで全店閉店するらしく、2週間ほど前から「店じまいセール」をやっているのだ。やっぱり、今日も、変わらずセールをしていた。 5番街に出ると、星条旗のサイズもぐっとスケールが大きくなり、ショーウインドーを全面覆うような星条旗があちらこちらで見られる。左右は半旗が翻るビルが連なる。 普段よりは道行く人が少ないような気もするが、いや、あまり変わらないかもしれない。ただ、「観光者然」とした人は少ない。要するに、キョロキョロしながらノロノロと歩く人たちがいない。 ハンドバッグを盗難されて以来、臨時で安っぽいビニールポーチを財布代わりにしているので、同じ財布を新しく買おうとGUCCIに入った。お客が少ないせいか、店員があちこちから声をかけてくる。なくしたものと同じ赤い財布が欲しかったのだが、それは去年のモデルで、今年は黒しかなかった。 店員の一人に2週間前に盗難された話をしたら、彼女も、わたしが盗まれたのと同じ街で、ハンドバッグをとられたらしい。公衆電話を使っているとき、一瞬、地面にバッグを置いたすきに持って行かれたという。 あれこれ見たが、ピンとくる財布がなかったので、今日は買うのを諦めた。 店を出ようとすると、見覚えのある顔を発見した。知人のMさんだ。2年前のクリスマス以来会っていなかったのだが、偶然にも再会。彼女は40代前半のシングルマザーだ。ファッションモデルをやっていたこともあり、スタイルはいいし、顔も美しいし、髪はブロンドに染めてるし、すごく若く見える。 一緒にいた女性を見てびっくり。彼女のお友達と思いきや、2年前は私より随分小さかったのに、今や170センチは軽くあると思われる、彼女の娘だった。元夫が黒人だったこともあり、これまたプロポーションがよく、スーパーモデル並み。足が長すぎ! たしか14歳くらいだったと思うが、もうすっかり大人の風情である。 「まあ〜、大きくなって!!」と親戚のおばさんのように、感嘆の声を上げてしまう。 彼女たちとは、テロの話は深く触れず、「大きくなったわね」とか、「息子はどうしてる?」とか、「わたしたち結婚したのよ」とか、世間話をして別れた。 それから、ロックフェラーセンターに行き、いつもなら観光客でいっぱいのあたりをスイスイと通り抜け、紀伊國屋書店に入り、イスラム関係の文庫本を3冊購入する。 そこから、西に戻り、ブロードウェイからタイムズスクエアをのぞむと、星条旗が大きく、モニターに映し出されているのが見えた。日本料理店の前で休憩をしている日本人従業員が、タバコを吹かしながら「俺、アスベスト、いっぱい吸っちゃったよ」と嘆く声が耳に入った。 帰り道、赤ワインを1本買い、スターバックスでコーヒー豆を買い、おまけでコーヒーを1杯もらったら、もう両手がいっぱいになってしまい、花を買おうと思っていたのが持ちきれなくなって、そのまま家に向かった。 2時間ほど街を歩き、家に戻るその道で、頭の中にひとつの言葉が、突然に浮かんできた。 「目には見えない」 今日すれ違った人の、きっとだれかの家族が、あのビルに勤めていたかもしれない。今日すれ違った人の、きっとだれかが、命からがら、逃げ出してきたかもしれない。 今日すれ違った人の、きっとだれかが、不安や恐怖で打ち震えているかもしれない。 でも、そんなこと、一瞥しただけでは、わからない。もしも人の感情が、くっきりと目で見えたなら、たとえば、悲しみがブルーで、歓びがオレンジだとしたら。いつもはオレンジがちのマンハッタンが、今は多分、広くブルーに包まれているはずだ。 でも、それを、明らかに目にすることができないから、みな、普通でいられる。見えないから救われ、見えないから、明日もがんばろうという気持ちになる。 「気を付けてね」と言われて、たとえば盗難や交通事故から身を守る努力はできるかもしれない。でも、テロや天災からは、身を守ることは、多分不可能に近い。 あの朝、いつも通り会社で書類を広げ、いつも通り電話をし、いつも通りの時間を過ごしていた彼らのうち、いったい誰が、目前に旅客機が飛び込んでくるなどと想像しただろうか。 どんなに現場からの映像をリアルタイムで眺めたとしても、阪神大震災のときだって、わたしは悲痛な思いで情報を追っていたけれど、今回、たくさんの読者の方々からメールを受け取って、初めてわかったことが、どれほど多かったか。 結局は、自分の身に降りかからなければわからない。できることなら艱難辛苦を避けていきたい。天災人災に巻き込まれずにいきたい。けれど、誰にも、自分が絶対に大丈夫だなんてわからない。 結局は、目には見えないから、事態を目の当たりにした当事者以外はパニックに陥ることもないし、目には見えないから、常にそこにあるであろう恐怖を感じることなく、平穏でいられるのだ。 当事者でない自分が悲しみの底に沈んでしまってはいけない。 夕方近くなり、部屋に戻り、何人かの友人と、何人かの仕事の関係者に電話をした。新聞を読み、夕暮れ時になり、やっぱり見ておこうと思い立ち、52階にある屋上に上る。 無数に立ち並ぶ摩天楼が、いつものように目前に広がる。そのほとんどが無事で、そのほとんどが正常に機能しているというのに。わずか2本の巨大なビルと、その周辺のビルが消えただけなのに、その喪失感の、なんと大きいことだろう。その消え方が、余りにも、むごたらしかったから。 彼方で立ち上る煙は、弔いの煙のように、静かに静かに、空に吸い込まれていく。いつものように、ニュージャージーの方へ沈んでいく夕陽。いつもなら、無数の遊覧ヘリコプターが飛び交っている空が、今日はひどく静かだ。報道のヘリコプターらしき一機が、現場の上空を旋回するばかり。飛行機も、驚くほど少ない。 だけど、セントラルパークの緑は相変わらず美しく、エンパイアステートビルは相変わらず凛と屹立している。ずいぶんと長い時間、マンハッタンの風景を、見下ろした。 夜になり、風向きが変わったのか、今、昼間は少しも感じなかった、「匂い」がこの部屋にも漂ってきた。プラスチックが焦げたような、埃っぽい、匂い。このアパートが火事になったときの匂いに少し似ているが、それよりも、更にケミカルが強い感じで、明らかに身体に害がありそうな匂い。人一倍、嗅覚の強い、犬のようなわたしは、わずかな匂いにもかかわらず、すでに頭痛がし始め、急いで窓を閉めた。 テレビはニューヨークのローカル放送「New York 1」をつけたまま。良くも悪くも、DCにいたときCNNやABCやCBSニュースでは伝わらなかったニューヨークの地元情報が克明に伝わってくる。 時折、各種寄付金を募っている団体の連絡先や、メンタルケアを行っている団体の連絡先が、文字情報だけで流される。子供を対象としたもの、鬱傾向にある人を対象としたものなど……。こんなときに心のケアがどれだけ大切か。
●9月19日(水)昼間:ダウンタウンへ出かける 普段は「睡眠第一」で、しっかり寝てこその元気な毎日、だと思っているのだが、やはり今日も、朝早くに目が覚めた。一度目を覚ますと、いろいろなことが頭の中を駆けめぐって、再び眠りにつけない。6時頃に起きあがる。年寄りみたい。 とりあえず、目先の仕事を次々に片づける。この数日、マンハッタンにいる間にやるべきことをやって、来週はまたDCで過ごす。時折、友人たちから電話が入り、その都度仕事が中断するものの、それでもお互いの近況を知りたくて、言葉を交わす。 ある友人は、あの日の前日の朝、私たちへの結婚記念日のプレゼント(機能的な小型掃除機らしい)を買いに、ワールドトレードセンター横のセンチュリー21という店に行ったのだという。もしも一日ずれていたら、掃除機をほっぽりだして逃げまどうことになっただろう。 ある友人は、テロのあった翌日、事件とはまったく関係ない理由で、同棲していたボーイフレンドと別れ、家を飛び出したという。大ショックの連続に感情的に話すことさえない彼女に、言葉がない。 生まれてこのかた40年、掃除嫌いだった友人のひとりは、あの日から、なぜか部屋の掃除ばかりしているという。夫や子供たちが驚くほどに。 その他、「友人の友人」の体験として、いくつもの、とにかく生々しい話を聞く。ワールドトレードセンターで働いていた人、その近所に住んでいた人などを友人に持つ友人が多いので。その詳細を記すのははばかられる。まさに、地獄だから。 来月、日本から両親と妹たちが来るために予約をしておいたあれこれに、キャンセルを入れる。マンハッタンのホテル2カ所、ベースボールの街、クーパースタウンのホテルなど。ディナークルーズはそもそもキャンセルが出来ないが、この事態だし、どうなるだろうかと一応電話をする。 担当の女性は、「ディナークルーズの再開の見通しは立っていないが、今、返金は出来ない。いつかまた、電話してくれ」とのこと。いつかまた、である。乗れないのにお金を払ったままとは納得がいかないが、状況が状況だけに、彼女に詰め寄っても仕方がないのでひとまず諦める。ディナークルーズのパンフレットの表紙には、ハドソン川に浮かぶ船と、その向こうに堂々とそびえ立つワールドトレードセンター。 オペラのチケットは、誰か知人に譲るしかないだろう。 マンハッタンが一日も普通通りに戻るためには、観光客に来てもらうのがいいのだろうが、1カ月後に、にこやかな気持ちで、この街を案内する気分にはなれそうにない。 ようやく3時頃、急ぎの仕事をすませ、わたしは、やはりダウンタウンに行くことにした。コロンバスサークルからバスに乗る。いつもはタイムズ・スクエアのあたりで大渋滞に巻き込まれるが、今日はかなりスムース。信号待ちで停車するくらいだ。 通りでは、ストリートパフォーマンスを眺める人だかりが出来ていて、笑顔を見せている人たちもいる。でも、観光客の数は圧倒的に少ない。ブロードウェイの劇場もお客が入らず、興行を中止したミュージカルもあると聞く。 バスは42丁目から東へ向かい、ブライアントパークを通過する。ここにも行方不明者の写真がいっぱい張り出してあった。ここでバスを乗り換え、五番街を南下する。エンパイアステートビル周辺は、いつものように人がいっぱいで、コリア・タウンも見る限りでは、いつもと変わらない。 エンパイアステートビルの入り口は、ゲートが施され、警官が何名か立っていて、入場者の制限をしているようだった。もちろん、展望台は閉鎖されたままだ。 やがてフラットアイアンビルが見えてくる。前方に「シリコン・アレー」の看板が見える。この界隈が、カリフォルニアのシリコン・バレーに対して、シリコン・アレーと名付けられ、ニューヨークのITビジネスの拠点として束の間の繁栄を見せたことが、まるで遠い日の幻のようである。 5番街をさらに下り、ワシントン・スクエア・パーク近くでバスを降りた。このあたりから南は、事件から数日間、閉鎖されていて、部外者が立ち入れなかった地域だ。公園の一画には、人々の寄せ書きや、行方不明者の写真や、花束(すでに枯れていた)や、キャンドル。学生たちや地元のニューヨーカーたちで、いつもはにぎやかなこの公園が、人はたくさんいるにも関わらず、とても静かだ。アップタウンやミッドタウンよりも、ずっとずっと、人々の様子が沈んでいた。 このあたりに住む人々の多くは、あの日のすべてを、自分たちの目で目撃しているのだ。 NYU(ニューヨーク市立大学)のあたりを通過し、さらに南下して、ソーホーのウエストブロードウェイに出る。カフェで語り合う人々、犬の散歩をする人、店頭でタバコを吸う人、通りを歩く人……、地元のニューヨーカーらしき人たちはは皆一様に、本当に、ミッドタウンやアップタウンの人たちよりも、沈んでいて、心が重くなる。 このウエストブロードウェイの突き当たりに、ワールドトレードセンターがあった。いつも、ここからは、ワールドトレードセンターが、くっきりと、見えていた。超方向音痴のA男は、ダウンタウンに来るたびに、あの二つのビルを目安にして方角を見極めていたものだ。 あるべきもののない空は、ひどく広々として見える。 母子が露店を出し、星条旗を施したTシャツとリボン、ブローチなどを売っていた。わたしが立ち止まると、娘が「売り上げは、寄付金となります」と言うので、2ドルのリボンを買った。 午後の日差しが無闇に暑く照りつける。おまけに熟睡不足のせいか、昨日から、しばしば軽いめまいがする。そのたびに、地面が揺れているような気がして、「地震?」と思う。あのビルが、地震で崩れ落ちたわけではないのに。 人通りが少なくても、ほとんどの店は開店しているので、日陰を求めて店内に入る。気晴らしにと、服などをちらちらと眺めてはみるものの、何かを買おうという気分にはならない。ましてや試着などする気合いもない。 どんどん南下して、キャナル・ストリートに出る。ここから南は、西にトライベッカ地区、東にチャイナタウンが広がり、さらに南下するとロウアー・マンハッタン地区となる。向こうに、煙が立ち上るのが見える。 キャナル・ストリートから南は、NYPD(ニューヨーク市警)のブルーの柵によって道路が封鎖されている。車両は入れないが、人間は通行している。キャナル・ストリートより南に入る気にはなれなかった。これ以上は近づいてはいけない、と自分なりに感じたので、キャナル・ストリート沿いに、なんとなくチャイナタウンを歩く。 チャイナタウンの店頭という店頭に、「星条旗グッズ」が陳列されている。 イースト・ヴィレッジ在住のR子いわく、 「あの日の翌々日くらいに、すでにこの近所で、中国人が星条旗の露店を出してたんだけどね。旗の下に"Attack on America"とか、書いてあるんだよ。きっとテレビのニュースでずっと出てたから、何も考えずにその文字を印刷したんだと思うけど」 その商魂のたくましさは見上げたものだが、どうせ英文をプリントするなら、もうちょっと考えてからにすればいいのに。"God Bless America"とか。"Attack on America"なんて書かれた旗を、いったい誰が買うのか。誰も買わんだろう。 白人の女性が、とある店で旗を買いながら、店の中国人と口論している。どうやら値段が高いと文句を言っているようだ。 「これは悲劇なのよ! こんな悲劇のさなかに、商売のことを考えるなんて」と、大声で責めている。 こんな悲劇のさなかに、値切る方も値切る方である。 第一、中国人である彼らだって、何らかの被害を被っているのだ。彼らにだって生活がかかっている。 わたしは、星条旗柄のリボンを買うには買ったけれど、胸に付けようとは思わなかったので、とある店で、星条旗のあしらわれた小さなヘアピンを買うことにした。店番のお姉さんいわく、1個3ドルだという。さっきの件もあったので、ためしに 「え? これが3ドル? 高いのね」と言ってみたら、 「2個で5ドルにしておくよ」と言われた。 2個もいらないので、1個だけ買った。値切らずに。 いつも行く台湾系のパン屋さんで朝食用のパンを買う。今夜会う予定のR子もここのパンが好きなので、彼女の分も買う。少しお腹が空いたので、アイスミルクティーを買い、購入したパンを、店内のカフェでひとつ食べる。玉置浩二の古いヒット曲が、インストロメンタルで流れている。 R子との夕食の待ち合わせ時間まで1時間半。チャイナタウンを離れ、今度はブロードウェイを北上する。この通りは、さすがに人通りが多くて賑やかだ。でも、どの店も、店内にお客の姿は少ない。 突然、ものすごい疲労感に襲われて、すごく肩が凝ってきた。本当は、もう少し町中を歩く予定だったが、頭痛もしてきたので、ひとまずイースト・ヴィレッジまで行き、カフェに入る。 昨日買った本を鞄から取りだし、読もうとするが、ちっとも頭に入らないので、1時間ほど、ボーッとしていた。 待ち合わせのレストランへ行く前に、以前も紹介したことのある「フレグランス・ショップ」へ立ち寄る。天然のハーブ・オイルでオリジナルの香水などを作ってくれる店だ。今日は、リラックス効果のあるマッサージオイルと、バス・ソルト(浴用剤)を購入しようと思う。 こぢんまりとした店のドアを開けると、タイ人の女性オーナーが、「久しぶり! 元気だった?」と笑顔で声をかけて来る。すごく、にこやかだ。 「結婚式はどうだった?」「写真は持ってる?」 以前、インドに行く前に来たときに、夏の休暇はインドへ結婚式に行くという話をしていたものだから、彼女の興味はそこに集中しているらしい。いや、むしろ、「楽しい話題」を持ち出したかったのだろう。 わたしが、一番ナチュラルで、おすすめのバスソルトを買いたいと言ったら、奥の方から取り出してくれて、「ラベンダーオイルを混ぜてあげるわ」と、ソルトの上からスポイトでオイルを垂らしてくれた。 「みんな、気持ちが滅入っているから、リラックスできる香りのものを買いに来るわよ」と言う。始終笑顔を崩さない彼女。なんとなく、ほっとする。 彼女が通りの向かいにある教会を指さす。窓の向こうを見やると、3葉の写真とキャンドル。 「いつもあの教会に礼拝に来ていた人たちらしいの。本当に、気の毒で……」少し表情がかげる彼女。 「あなたの家族は大丈夫だった?」と聞けば、 「わたしの娘がワールドトレードセンターの向かいにある高校に通っていたの。彼女はその日、学校に遅れて、被害には直面しなかったんだけど、とにかく学校はめちゃめちゃだし、友達もひどい光景を目にしているし、彼女は本当にひどくショックを受けていて、日曜日までずっと、部屋のカーテンを閉め切って、閉じこもってたの。月曜になって、ようやく、ちゃんと話ができるようになったけど、まだまだ心配だわ。わたしは、母親として、彼女のそばにいて、彼女を支えてあげなければならない……」 そういいながらも、微笑みを絶やさない彼女。 「また、来るわね!」 わたしも笑顔でこたえて、別れた。
●9月19日(水)夜:R子との夕食にて。互いの思うところを吐露 思えばあの日以来、こうして友人と顔を合わせ、食事をするのは初めてのことだった。わたしたちはR子の自宅の近くにあるレストランで待ち合わせていた。 今日は風向きがいいせいか、いやな匂いもなく、埃っぽくもなかったので、わたしたちはテラス席に座る。秋風が心地いい。 つい先ほど、R子の夫が会社からバスで帰宅する途中、道路が渋滞していた。警察の車が前方に見える。人々が大騒ぎしているのビルの上を見ると、5階のあたりで、老女がバルコニーから飛び降りようとしていたらしい。阪神大震災のあとに自殺者が相次いだことを思い出し、心が痛む。 彼女はあの日以来、ずっとこのイースト・ヴィレッジ界隈を離れておらず、ひどく気分が滅入っているようだった。ニューヨークから離れていたわたしよりも、当然ながら痛手は大きく、二人して、時に涙ぐみ、時に笑いながら、喜怒哀楽の激しいひとときを過ごす。 話をしながら、時折空を見上げる。さまざまな事実をこの二日間で、目のあたりにしたのに、わたしはまだ、あのようなことが起こったことが、信じられない。 彼女の夫はとてもあっけらかんとしていて、今回の件についても彼自身が落ち込むようなことはなく、意見がかみ合わなくて腹立たしいこともあるけれど、でもそれで救われているのかもしれないと彼女はいう。 それはわたしにしても同じこと。A男がDCにいて、いつも通り変わらず仕事をし、しかも、非科学的なことや噂などは一切信じず(インドの「サイババ」や「アガスティアの葉」なども、まったくバカにしている)、かなりあっけらかんとしている彼が一緒だからこそ、救われているのかもしれない。
●9月20日(木)雨降る一日 ずっとオフィスにて 朝からしとしとと雨が降る。今日はずっと、オフィスにこもって仕事。何人かが訪れ、何人かと打ち合わせをし、来週のDC滞在に備えて、マンハッタンでするべきことを、すませておいた。 集中力を要しない仕事をするときには、テレビを付けたままにしている。New York 1では、サイコロジスト(精神科医)が出演し、ニューヨーカーの電話による相談に対してのアドバイスをしている。 それぞれが、日常生活を正常に営めないほど、ひどく滅入っていて、そのような人がマンハッタンにたくさんいる。 夜、9時から、ブッシュ大統領の演説が行われた。わたしは、この演説を聞いて、アメリカという国に対する見方が変わった。このことについては、またいつか、改めて、考えがまとまったときに書きたいと思う。
●9月21日(金)今日も雨、曇天。街に匂いが漂っている ゆうべは、あの日以来初めて熟睡し、翌朝は、あの日以来初めて目覚まし時計によって起こされた。 目を覚まし、窓を開けると、風向きが悪いせいか、焦げ臭いいやな匂いが鼻を突く。この匂いは、きっと今マンハッタン中に立ちこめていて、多くのニューヨーカーたちの気持ちを滅入らせているに違いない。 パンを焼き、コーヒーを飲みながら、新聞を広げる。新聞には相変わらず、企業からの「お見舞い広告」が目立つ。 夕べのブッシュ大統領の演説が全文掲載されている。あとでじっくり読もうと保管する。エンターテインメント情報の束を広げる。 「世界中の、ニューヨークを救いたいと思っている方々へ。わたしにはすばらしいアイデアがあります。ここに来て、お金を使ってください。レストランに行き、ショーを観てください。そうすれば、ニューヨークは息を吹き返します」 16日のジュリアーニ市長のコメントが抜粋された全面広告があり、すべてのブロードウェイのチケットのうち5ドルは寄付金になることが記されている。 残りの仕事を片づけ、荷造りをして、再びDCに戻るべく、午後はマンハッタンを離れた。 全米で、さまざまな、もっともらしい、噂が飛び交っている。電子メールで転送されてくるものもあれば、電話で口から口は伝わるものもある。あるものは、「確実な情報筋」「信頼できる情報筋」などとの但し書きもある。 しかし、いったいどこに「確実で信頼できるもの」などがあるのか。もしもそんなものがあれば、あのテロは回避できたのではないか。今更なにを言われても、という気もする。 インターネットの検索サイトの上位が、ノストラダムスだのテロ関連のキーワードばかりが集中し、いつもはトップのセックス関連、芸能関連が落ちているという。表面には見えないけれど、みんな、本当に、おびえたり気にしたりしているのだ。 書店でも、ノストラダムス関連書籍やイスラム関連書籍が売れているという。先ほど、ワシントンDCのローカルニュースでも、ガスマスクや貯水タンク、ランタンなどアウトドア用品ならぬサバイバル用品が飛ぶように売れている様子を映し出していた。 あれ以来、「気を付けて」という言葉を何度も耳にした。口にもした。でも、いったい、なにをどのように、気を付ければいいのか。ガスマスクを買うべきなのか? サバイバル用品を用意しておくべきなのか? 阪神大震災の時に見聞きした、数多くの被災者の言葉の中で、心に残っているものがいくつかある。その一つに輸入業を営む夫人のコメントがあった。邸宅に暮らす彼女の家は、数々の海外から取り寄せた家具調度品に彩られ、なかでも陶磁器の趣味があった彼女は、長い年月をかけて、世界各地からアンティークなどを収集していたという。 彼女が人生の長い時間をかけて集め、愛してきた「物」は、一瞬にして、粉々になった。 その彼女が「物は消えてなくなるのだということを、知りました」と、言ったひとことが、忘れられない。 質素倹約、常日頃から物欲のない生活をしている高尚な人々に、同じ台詞を言われても、多分わたしは聞き流しただろう。物を慈しむ彼女の言葉だからこそ、そこには「強い実感」がこもっていて、ひどく力があったのだ。 形ある物はなくなる。その覚悟を、心のどこかで、いつもしておかなければならない。 そしてもう一つ。ある女性がボーイフレンドと喧嘩したまま別れたその日の翌日、ボーイフレンドが震災に巻き込まれて亡くなったというコメント。「最後にお互い、ひどいことを言って別れてしまったことが、悔やんでも悔やみきれない」 この言葉は、それ以来、常にわたしの心にある。A男とどんなに喧嘩をしても、どんなに別れ際、腹が立っていても、とにかく最後は努力して、笑顔で送り出すようにしている。 今のところ、気を付けていること、いや心がけていることといえば、その二つくらいだろうか。 |