ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 53 9/16/2001

 


9月15日土曜日。日本は敬老の日ですね。昨日の雨ですっかり気温が下がり、今日は空気が澄み切った秋晴れです。

皆さんからのメールは、それぞれに、誠実に、思うところが綴られているものばかりで、ひとつひとつ、丁寧に、読ませていただきました。

メールマガジンを創刊したのは去年の9月27日。まもなく一年になろうとしています。見知らぬ不特定多数の方々に、個人的な視点からのコメントを発信することに、自分なりの戸惑いもありました。

しかし、今回、もしもこのメールマガジンを発行していなかったら、決して得ることのできなかった言葉の数々を毎日受け取っています。阪神大震災を経験していらっしゃる方からのメールも多く、力のこもったメッセージもいくつかいただきました。さまざまに考えさせられることが多く、本当に感謝しています。

特にこのメールマガジンの読者の方々は、ニューヨークに縁がある方、興味がある方が多いわけで、まったくニューヨークに興味を持たない日本に暮らす日本人に比べれば、ずいぶん身近な出来事に感じていらっしゃる方が多いようです。

旅行や留学の予定をキャンセルされた方も数人いらっしゃいました。それぞれに、時間をかけて計画をたて、楽しみにしていたはずです。誰一人として、無念な思いを綴ることなく、さらっと記していらっしゃいますが、個人的な立場から考えれば、ひどく残念なはずに違いありません。

前回も記しましたが、本当に、このような事態になって初めて、普段は見えることのない、自分自身の性格や考え方が明らかになるものだと思います。

わたしは今回、幸いにも、DCにいました。非常に混沌とした数日間を、身内と共に過ごせたことを、とても幸運だったと思っています。もしも、ひとりでニューヨークにいたとしたら……。ニュースを聞いた瞬間、わたしはビルの屋上に上ったでしょう。事実、ビルにいた人たちの多くは、そうしていたに違いありません。

そして、燃え上がるワールドトレードセンターを、崩れ落ちるワールドトレードセンターを、彼方に眺めて、心が引き裂かれていたに違いありません。電話も通じず、A男のDCでの様子も気がかりで、きっと、今、受けているよりも遙かに強い衝撃を受けていたと思います。だから、ここにいて、幸運だったと思っています。

しかし、読んでみて、はっとするメールもいくつかありました。その一つに、ニューヨークで働いている友人からのメールがありました。

ずっとニューヨークについて書いてきたわたしが、歴史的事件に立ち会えなかったこと、そして交通麻痺によって足止めを食っていることが、どんなに歯がゆいことだろうと察するメール。

メディアに携わっている人間として、きっと現場の様子をルポしたかったに違いないと察するメール。

彼女たちは、もちろん、前向きな気持ちで、わたしがそう感じているに違いないと察して、このようなメールを寄せてくれたのです。

ところが、わたしといえば、これらのメッセージを読んで、ひどく驚きました。なぜなら、わたしがこの数日間というもの、そう言う風には、一度も思わなかったからです。確かにニューヨークが気になって、気になって仕方がありませんでした。でも、あくまでもそれは「個人的な感情」で、本当に正直に言ってしまえば、仕事に結びつけることを、考えられなかったのです。

数日後の今になって、「わたしは何をするべきか」などと、考え始めているくらいですから……。そういう意味では、自分は自分で思っていた以上に、かなり「とろい」気もします。

「ライター」とひとことでいっても、そのジャンルは多岐に渡ります。精神構造も千差万別です。少なくとも、わたしには、公私をきっぱりとわけて、事件に向かおうという気持ちは、ここ数日、少しも起こりませんでした。なんだか情けない気もしますが、本当だから仕方ありません。

とはいえ、来週は、一旦、ニューヨークに戻る予定です。

わたしは、これまで通り、広告や編集や印刷の仕事をし、muse new yorkの最終号を、たとえ遅れても発行し、それに並行して自分の作品を書きため、そしてわたしの言葉で、このメールマガジンを綴っていこうと思っています。

この一連の惨事と、その延長線上にあるかもしれない、戦争。ここ数日、さまざまなサイトや新聞などで、多くの人たちが、自分自身の意見を表現しているのを目にしました。今のわたしには、各国家の方針云々に対し、善し悪しを発言できるほど、考えもまとまっていなければ、知識も十分ではありません。わたしは軍事評論家ではないので。

ただ、一つ言えるのは、この事件は、たった今、始まったばかりの、一過性のものではないということ。だからこそ、短い期間で物事の白黒をつけるような動きをせずに、「話題性」などという概念を一切捨て、自分のペースで、自分の感じることを、文字にしていこうと思います。

ニューヨークを拠点に生活している以上、当面はこの話題について、目を背けるわけにはいかないので。

わたしやA男、そしてわたしたちを取り巻く知人友人から得ることがらなどを、拾っていこうと思います。それが、たとえ、非常に私的なことであれ、誰かに知って欲しいことは、できる限り書きます。

今回も、出だしはやっぱり箇条書き風に。

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●3度目の所感。大惨事後、見聞きしたことについて受けた印象をあれこれと。

 

◆土曜日現在。いまだ、DCからニューヨークへ電話をしても、ほとんどつながらない。携帯からだと、時々つながる。でも、ニューヨークからDCへは、たいていつながる。だから、人に電話をかけるのではなく「かかってくるのを待つ」状態。

◆さほど親しくはない知人と、仕事の件で連絡を取り合mag53.htmQシッ ァッ0ッァ TEXTBlWdキハウBクD鶤罍AG53 HTM0mag54.htmQシッ ァッ0ッァ TEXTBlWdキメcxクD鵐罌AG54 HTM0mag55-1.htmッ ァッ0ッァ TEXTBlWdキクD-罅AG55-1 HTM0mag55-2.htmッ ァッ0 ッァ TEXTBlWdキ荳D8缺AG55-2 HTM0mag56.htmQシッ ァッ0 ッァ TEXTBlWdク クD缸AG56 HTM0mag57.htmQシッ ァッ0ッァ TEXTBlWdク犧D纜AG57 HTM0mag58.htmQシッ ィッ0ッァ TEXTBlWdクケクD纛AG58 HTM0mag59.htmQシッ ィッ0ッァ TEXTBlWdク!ス犧D鴿纎AG59 HTM0mag6.htmヲQシッ ィッ0ッァ TEXTBlWdカEnワカEワ纖AG6 HTM0mag60.htmQシッ ィッ0ッァ TEXTBlWdク-PBクD鴆纔AG60 HTM0mag61.htmQシッ ィッ0ッァ TEXTBlWdク9b垪D鰛纓AG61 HTM0mag62.htmQシッ ィッ0 ッァ TEXTBlWdクDワクD鯆纐AG62 HTM0mag63.htmQシッ ィッ0 ッァ TEXTBlWdクI. クI0Z纒AG63 HTM0mag7.htmヲQシッ ィッ0ッァ TEXTBlWdカEレカ;テ續AG7 HTM0mag8.htmヲQシッ。ッ0ッァ TEXTBlWdカEZカ<=纉AG8 HTM0mag9.htmヲQシッ。ッ0ッァ TEXTBlWdカE6カ=、纈AG9 HTM0magcover.htmッ。ッ0ッァ TEXTBlWdカEa&クO」繿AGCOVERHTM0magcover1-23.htm。ッ0ッァ TEXTBlWdクFI「クFMT辮AGCOV~1HTM0magreader1.htm。ッ0 ッァ TEXTBlWdカ霍繽AGREA~1HTM0magreader2.htm。ッ0 ッァ TEXTBlWdカ1愃D緕AGREA~2HTM0magreader3.htm「ッ0ッァ TEXTBlWdキ「クD纃AGREA~3HTM0magreader4.htm「ッ0ッァ TEXTBlWdキ = キ >Z繻AGREA~4HTM0!! !#!$!'!(!(!)> みんなみんなあつまれ みんなでうたえ

世界のともだち あつまれば  なんにもおそれる ことはない
ゆくてはアフリカ ポリネシア みどりの森
空には お日さま 足もとに 地球

みんなみんなあつまれ 
みんなでうたえ イチ・ニッ
みんなでうたえ ワン・トゥ
みんなでうたえ アイン・ツバイ
みんなでうたえ ウノ・ドス
みんな で う た え

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◆皮肉なほどに、日本語の歌詞は温かくてすばらしい。アメリカ人に阪田寛夫さんの詞を英訳して歌ってあげたいくらいだ。なぜ、ゆくてが「アフリカ ポリネシア みどりの森 」なのかは、ちょっと謎だけれど。

◆自分の中で、物事の優先順位が、みるみる変わっていく。

◆それにしても、ボランティアに参加する人々の、一生懸命な姿。自分の腕に、マジックで大きく、名前と電話番号、そして血液型を書いている事故現場の作業員をテレビで見た。二次災害で自分が傷ついた時を想定してのことだ。

◆自分の住むビルが火事になったときにも思ったこと。今回も一層痛感する。なぜ、人々は「燃えさかる炎を一瞬で消す」ことができるような、強力な消火器を研究しないのだろうか。それを空から撒くと瞬時に鎮火するような……。そういう化学薬品などは、開発し得ないのだろうか。

◆ものすごい勢いで煙を上げて燃える建物に、ホースで細々と水を撒いている風にしか見えない消火活動は、本当に原始的。じれったい。

◆久しぶりにじっくりと、自分の顔を鏡に写して驚いた。「お肌のつやとはり」が失われている。美容液で、潤いを補給。

◆10分ほど前、カラスの大群が突如やってきて、うちのビルの前にあるショッピングモールのあたりを、かーかーと鳴きながら旋回していた。このあたりでカラスを見るのは初めてだったので、すごく不気味に思った。

◆「カラスは、日本では不吉な出来事の予兆なのよぉ」とすっかり弱気になりA男に言えば、「インドはカラスだらけだよ。ぼく、子供のころ、庭に来るカラスに石をぶつけて遊んだもん」

◆今回の惨事に関して、A男の衝撃はわたしほどではない。戦いの恐怖を、子供のころからつぶさに見てきたからだ。

◆「インドでは、スケールこそ今回ほどではないけれど、こんなは事態は、珍しくないんだよ。ただ、世界に大きく報道されていないだけで。パキスタンとの戦い、イスラム過激派との内戦は、しばしばだから」

「毎日のように、誰かが、どこかで、殺されているんだ」

◆今回の件に関して、A男から得るコメントには、興味深いものが多い。

◆数日前、A男の会社内のミーティングの席で、当然のことながら今回の惨劇についての話題が出た。彼のオフィスで働くアメリカ人のスタッフは、みな、国旗を象徴するリボン(赤白青のストライプ)などを身に付け、「愛国」を表現している。

◆アメリカ人以外のスタッフは、彼の同期にパキスタン人がいる。よりによってパキスタン人とインド人(A男)である。わたしも彼に会ったことがあるが、童顔で、やさしい話し方をする、好青年だった。

◆A男は、そのパキスタン人の同僚と仲がいい。母国語も同じだし、そもそもは同じ国だし。ただ、宗教が違う。

◆彼ら夫婦はわたしたちの家の近所に住んでいて、某中国料理店の料理を愛好している。わたしたちには、「?」という味なのだが、彼らは大好き。彼らいわく

「ここの料理って、パキスタンで食べる中国料理と一緒の味なんだよ!」

◆上司がA男に向かって聞く。パキスタンに対してどう思うか。もちろん、A男は答える。インドとパキスタンの軋轢は、たいへんなものだと。「ぼくはパキスタンが嫌いだ」と、理由を説明した上で、はっきりとそう言った。

◆A男のコメントに、パキスタン人の同僚は無言だった。

「ちょっと、本人の前で言うのは、どうかしら」というわたしに、

「僕は国家の話をしているんだ。思っていることは、はっきり言う」とA男。

◆ユダヤ系アメリカ人の同僚は、A男の妻が日本人だと知っていて、わざと声高に言った。「アフガニスタンにも原爆を落とせばいいんだよ。あの「神風・日本」だって、原爆を落としたからこそ正気を取り戻して、今は「アメリカ化」してるしな」

◆物事を、大くくりに捉えて発言すると、結局、こういうことになる。

◆オフィス内が、なんだか、とげとげしそうだ。でも彼らは事件の翌日から平常通り仕事をしているし、勤務時の頭の中は、主に「経済」「取引」「投資」のことで占められている模様。

◆そういえば、以前、muse new yorkの「国際結婚をした日本人女性」で紹介したYさんはどうしているだろう。何を考えているだろう。彼女はイスラム教に改宗して、エジプト人の男性と結婚した。来週にでも、連絡してみよう。

◆A男の母方の家族は、パキスタンのあるエリアが出身地だ。1947年まで、パキスタンは、インドだった。

◆イスラム勢力の拡大によりパキスタンは独立し、現在でも、カシミールの領土獲得を巡り、紛争が続いている。

◆カシミールの自然は、本当に美しいという。

◆もちろん、A男の母方の家族は、インドとパキスタンが分離して以来、ふるさとに帰っていない。北朝鮮と大韓民国のような感じだ。

◆この間、わたしたちはインドのデリで結婚式をしたあと、パンジャブ州にあるウダイプールに新婚旅行へ行った。デリ発の飛行機は、ジャイプール、ジョドプールを経由して、ウダイプールに行く。

◆飛行機に乗るとき、乗り換えるとき、もう、本当に、しつこいほど何度も、荷物と身体の検査をされた。湾岸戦争の時の空港での検査よりも、ずっと多く真剣である。

◆ハンドバッグの、化粧ポーチの中身までも、チェックされる。サリーを着た女性スタッフによる、身体をしっかりさわってのチェックも、1回の搭乗につき、2,3回受けた。

◆わたしはうんざりしながら「なんで、こんな効率悪く、何度も同じことをやるんだ」と、A男に悪態をついたら、ここはパキスタンとの国境に近いから仕方ないんだという。

◆今更ながら、彼らがしつこく検査をする理由がわかった。悪態をついている場合ではなかった。

◆さっき、ランチを食べながら、A男がインドについて語ってくれたことを、以下に紹介する。あくまでも「インド人として、インド人の立場・視点から語っている」ということを念頭に、読み進めてほしい。

 

●A男のインド回想記(1〜4):インド国内でのテロや紛争について。

【その1】1984年、僕が12歳くらいの時。学校で授業を受けていたら、時の首相、インディラ・ガンジーが暗殺されたという噂が飛び込んできたんだ。学校はすぐに閉じられて、僕らは家に帰った。人々の間で、猛烈な勢いで噂が飛び交ってた。彼女のボディガードの一人が、報復のために殺したって言うんだ。ボディガードはシーク教徒だった。

暗殺の数カ月前、首相は、シーク教徒過激派の根城であるゴールデン・テンプルに軍を手配していたこともあって、彼女は危険な状況に追い込まれていたらしい。シーク教徒過激派は、パキスタンと手を組んだりして、インド政権にことごとく反発していた。彼らはカリスタンというシーク教徒の国を作ろうとしていたんだ。彼らによって、ヒンズー教徒の殺害も、しばしば行われていたよ。

(注:以前も記したが、ターバン姿で知られるシーク教徒は、インド人口のわずか2、3%しかいない。ただ、インドの全人口が10億人近いので、人数としては多いけれど)

家に着いてからも、テレビとラジオは、この事件についてまったく触れなかったから、噂だけが頼りだった。ところが突然、ラジオから、ヒンズー教の宗教音楽が流れ始めた。それで僕たちは、本当に、彼女が死んでしまったことを知ったんだ。

その翌日、デリはまさに地獄だった。首相の暗殺を知ったヒンズー教徒の一部が暴徒化し、街をうろつき、シーク教徒を見つけては、暗殺を始めたんだ。あくまでも、首相を殺したのは「過激派」であって、一般のシーク教徒には、何の罪もないんだよ。なのに、それまで普通に生活していた彼らが、撲たれ、刺され、焼かれ、無茶苦茶なやり方で、次々に殺されていったんだ。

僕らは家の屋上から、シーク教徒たちの家が焼かれる煙が、街の至る所から上がるのを、見ていることしかできなかった。暴徒たちのものすごい叫び声があちこちから聞こえてきた。その日、2000人以上もの市民が、虐殺されたんだ。いや、もっと多かったかもしれない。

あの日、デリは本当に地獄のようだった。僕にとっては、生まれて初めて体験した、本当に恐ろしい、出来事だった。

 

【その2】1991年5月、僕がボストンの大学に通っていたころ。休暇にインドに帰省するための準備をしながらラジオを聞いていたら、ニュースキャスターがラジブ・ガンジー(インディラ・ガンジーの息子で首相後継者)が殺されたとアナウンスしていたんだ。

その話に、僕はひどくショックを受けて、恐ろしくなった。ラジブ・ガンジー元首相は、再選を狙って、選挙運動のさなかにいた。選挙演説の際、ある女性が彼に歩み寄り、かがんで、彼の足に触れた。それは、目上の人に敬意を表するゼスチャーなんだ。彼女はその後、自分の身に付けていた爆弾を作動させ、自ら爆発したんだよ。彼女は何ポンドもの鉄片を身に付けていて、「りゅう散弾」状態だった。もちろん、周囲にいる人をできるだけ、たくさん殺戮するのが目的で。結局、支持者らも14人、即死だった。

ラジブ・ガンジーを確認できるものは、彼が履いていたスニーカーだけ。身体も何もかも、粉みじんに炸裂したんだ。そのスイサイド・ボンバー(自爆者)は、スリランカを拠点とするタミール分離派(過激派)の一員だったらしい。

ぼくは、デリに住む家族のことが心配でたまらなかったよ。結局、インディラ・ガンジーが暗殺されたときのような、ひどい暴動は起きなかったみたいだけど、その直後にインドに帰ってからも、なにかが起こるんじゃないかと思うと、怖かった。

92年には、ヒンズー教過激派が、イスラム教モスクを破壊して、大きな衝突が起こった。全国各地で紛争が起こって、特に、ボンベイやカルカッタでは、爆弾テロ事件が連続して発生した。いったいどれほどの罪のない人たちが殺されたか、ぼくにはわからないよ。

 

【その3】ぼくがデリに住んでいたころ(17歳まで)は、毎日のように暴動や死のニュースが新聞紙面を飾っていたのを目にしていたよ。

シーク分離派の拠点であるパンジャブ州で暴動が集中していた。彼らは、州から、そしてインドから、分離・独立しようとしていたんだ。それと、カシミール地方では、やはりイスラムの反乱兵が、州から分離・独立しようとしていた。

彼らが一般市民を攻撃する方法といったら、本当に残忍極まりないものなんだ。しかもその戦略はものすごく洗練されていて確実だから怖いんだよ。いったい彼らはどこでトレーニングをしたんだと思う? いったい誰が、彼らにUBUIQUITOUS AK-47なんていうマシンガンや爆弾を供給したと思う? いったい誰が、彼らに資金を与えたと思う? 彼らは残虐行為をやったあと、いったいどこに避難したと思う?

テロリストたちを鼓舞し、武器を供給しているのは、パキスタンという影武者なんだよ。具体的に言えば、CIAやKGBに相当するISIと呼ばれる組織なんだ。だから、ぼくはどうしたって、パキスタンを許せない。

 

【その4】テロによる虐殺は、本当にいろいろあるけれど、僕が一番許せないのは「ラジオ爆弾」だった。シーク教徒過激派が、バス停や、公園とかの人目に付きやすい公共の場のあちこちに、爆弾をしかけたラジオを設置したんだ。

何もしらない、貧民層の子供たちは、新しいラジオを見つけて、大喜びでみんな駆け寄るんだよ。彼らにとって、ラジオが唯一の、大切な娯楽であり、情報源でもあるんだ。テレビなんて、買えないしね。

それなのに、スイッチを入れた瞬間、音楽が流れてくるかわりに、ラジオが爆発するんだ。どう思う? 何の罪もない子供たちが、一瞬にして死んだり、身体の一部を失ったりするんだよ。そう言う風に、人は人を殺せるんだよ。

---------A男とは、これまでこんな話をしたことがなかった。いろいろな経験をしてきたのね、と思う。

 

●アフガニスタン人ライターによるメッセージ

以下に紹介するメッセージは、A男の同僚の友達の友達の友達から、電子メールで転送されてきたものだ。アフガニスタン人ライターによるオリジナルの原稿に添えて、彼の友人のコメントも転送されてきた。攻撃の対象とされているアフガニスタンを祖国に持つ人の立場から、今回の事態を捉えた文章だ。日本語訳して紹介したい。

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R.Sという、ぼくの80年代からの友人が、今日の午後(9月14日)、一通の電子メールを送ってきた。それには、こんなメモが添えてあった。

「ここに添付している手記は、ぼくの友人であるMir Tamim Ansaryの原稿です。Tamimはアフガニスタン系アメリカ人のライターで、ぼくの知る人たちの中でも、最も優秀な人物なんだ。アフガニスタンと、それからぼくらが今、置かれている、混沌の世界について彼が記した文章を送るよ。君はきっと、人脈が豊富だと思うから、できるだけたくさんの人に転送してもらえるだろうと思う。目を通す価値は、きっとあるから、読んでみて」

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(Mir Tamim Ansaryの手記)

あれから、わたしはもう、何度聞いただろう。

「アフガニスタンを爆撃して、石器時代に戻してしまえ!」などという台詞。

ロン・オーウェンが今日、ラジオで言ったこの台詞。言い換えれば、「あの凶行にはなんの関わりもない、罪のない人々を殺せ」と言っているようなものだ。「我々は戦争状態にあるんだ。だから二次的なダメージもやむを得ない。今の我々に、それ以外のなにができるっていうんだ」

テレビでは、識者たちがディスカッションしている。誰かが言う。「我々は、何がなされるべきかという、目標、ゴールを持っている」

わたしはアメリカ合衆国に暮らして、35年以上になる。しかしながら、わたしはアフガニスタン出身だ。これまで故国で起こっていることを、常に追いながら生きてきたわたしにとって、今回の出来事は、実に耐え難い。

そんなわたしが、今回の事態をどのように受け止めているか、他の人々にも知ってもらいたく、ここに考えを記したい。

断っておくが、わたしもまた、タリバーンやオサマ・ビン・ラディンを嫌悪する人間の一人だ。今回のニューヨークで起こった惨劇について、彼らに責任があるだろうことは疑いようのない事実だと、わたしも思っている。

わたし自身、あんな怪物のような奴らは、何らかの制裁を受けるべきだと思っている。

でも、これだけは、理解してほしい。タリバーンやビン・ラディンは、イコール、アフガニスタンではない。むろん、アフガニスタンの政府でもない。1997年、アフガニスタンは、タリバーンという、精神異常な狂信者たちによって、乗っ取られたのだ。

タリバーンを思うとき、ナチスを思ってほしい。ビン・ラディンを思うとき、ヒトラーを思ってほしい。そして、「アフガニスタンの人々」を思うとき、どうか「強制収容所に送られたユダヤ人たち」を思ってほしい。

アフガニスタンの一般人は、今回の凶行に際して、何一つ、関わっていないのだ。関わっていないどころか、彼らは、犯人どもの凶行の、いわば最初の被害者である。

アフガニスタンの人々は、もしも誰かが、自国を巣くっている国際的な暴漢どもを一掃し、タリバーンを排除してくれたなら、きっと大喜びするに違いない。

誰かが尋ねる。なぜアフガニスタンの人々は立ち上がって、タリバーン政権を打倒しないのかと。答えよう。彼らは、飢え、傷つき、疲弊し、苦しみのうちにあり、立ち向かう力など、持ち合わせていないのだ。

数年前の国連レポートによれば、経済が破綻し、食糧がないアフガニスタンという国には、50万人もの不具なる子供たちがいるという。そして、数百万人の未亡人がいる。タリバーンたちは、この未亡人たちを、生きたまま、無数の墓に埋葬した。旧ソビエトにより、土地には地雷がばらまかれ、農地はことごとく破壊された。

これらが、なぜアフガニスタンの人たちに、タリバーンを打倒する力がないかという理由の一つだ。

「アフガニスタンを爆撃して、石器時代に戻してしまえ!」との呼びかけに対して言わせてもらうなら、もう、すでに、それはなされているのだ。すでに、旧ソビエトが、やってくれているのだ。

アフガニスタンに苦痛を与えろ? もう、彼らはすでに大いなる苦悩を体験している。彼らの家を潰せ? もう潰されてる。学校を瓦礫の山にしてしまえ? もう瓦礫だ。病院を全滅させろ? すでにない。 彼らのインフラを破壊しろ? 医薬品の供給や医療機関をなくしてしまえ? すべて遅い。もうすでに、誰かが、みんなやってしまったんだ。

新しく落とされる爆弾は、かつての爆弾の破片をかき混ぜるだけだ。

タリバーンだけを捕らえることはできるか? それはあり得ない。現在のアフガニスタンでは、タリバーンだけが「食べる」ことができ、タリバーンだけが「移動」できるからだ。彼らはすでに、逃げて隠れている。

新しく落とされる爆弾は、多分、車椅子もなく、逃げることのできない、不具なる孤児たちの上に降りかかることになるだろう。カブールに飛来し、落とされるであろう爆弾は、決してこの事態の加害者たちに命中することはない。一度タリバーンによって破滅された人々を、改めて破滅させるだけのことだ。

それならば、どうすればいいんだ? わたしは、恐怖に打ちひしがれながらもなお、今、語りたい。ビン・ラディンを捕らえる方法は唯一、地上兵だけしかないということだ。

しっかりと目を見開いてほしい。アメリカ兵の死についても、考えてみよう。アフガニスタンを抜け、ビン・ラディンの隠れ家に到着するまでに、死亡するであろうアメリカ兵の数は、相当数に上ることになるだろう。

なぜなら、軍隊をアフガニスタンに派遣するには、パキスタンを通過しなければならないからだ。彼らは我々を受け入れてくれるだろうか。否、不可能だ。そうなると、まずはパキスタンを打破しなければならない。そうなったとき、ほかのイスラム諸国は、その事態をただ傍観するにとどまるだろうか。

もう、おわかりだろう。我々は、イスラム国家と西側諸国との世界的な戦いのただ中に置かれるのだ。

これこそが、ビン・ラディンの仕組んだ、彼がやりたいことなのだ。だからこそ、彼は今回のテロを遂行した。彼のスピーチや声明を読んでほしい。彼は、イスラムが西側世界をうち負かすと、絶対的に信じているのだ。実に、ばかばかしく思えることだが、彼は、もしもイスラム世界と西側諸国との対決が始まったとしたら、10億人もの兵隊を機動するだろう。

西側諸国がイスラムの国々に対して、大虐殺を展開したとしても、その10億人には、命以外、何も失うものがないのだ。

ビン・ラディンの思惑は、多分間違っていて、最終的には西側諸国の勝利に終わるだろう。しかし、そこにたどり着くまでに、何年もの月日を要し、また数多くの、敵ばかりでなく、味方の命も、奪うことになるだろう。

誰がそんな事態を望むだろう。ビン・ラディンは望んでいる。ほかには?


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