ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー
Vol. 49 8/13/2001
前回発行してからはや1カ月。瞬く間にときは流れ、夏まっただ中です。今年の日本はむやみやたらと暑いそうですね。福岡に住む両親いわく「ニューデリーよりも暑い」とのこと。なんとも強烈ですね。 7月13日から28日まで2週間、インドに行ってきました。そして無事に帰ってきました。すべての行事をつつがなく終えることができ、そして日本の両親と妹夫婦も無事に滞在を終えて帰国することができ、本当にほっとしました。 2週間も休むと、当然ながらやらねばならないことが山積していて、しかしながら、なんだか「インドぼけ」で集中力が浅く、ニューヨークに戻ってからしばらくは、今ひとつ歯切れの悪い日々でした。 それでも何とか目先の仕事を片づけて、9日(木)よりワシントンDCにやってきました。ここに来ると、ニューヨークにいるときよりも集中して文章が書けるので、メールマガジンも気になってはいたのだけれど、書くことを先延ばしにしていたのです。 ああ、それにしても。語れば長いインドの2週間。この目でただ眺めた風景を通して感じたことを記すだけでも、濃密な内容になってしまいそうなのに加え、結婚式やら披露宴やらのイベントがありましたから、うまくまとまりそうにありません。日記風に、思いつくまま、書いてみようと思います。 ところで最近、少しずつ、アーヴァンド(A男)と夫婦になったのだという実感を覚え始めています。生活スタイルの何が具体的に変わったわけでもないのに、やはり「家族になった」という事実は、心に深く染み入ります。マッチ1本ほどのささやかなともしびが、いつも心の中で揺れている感じです。言い換えれば、お風呂や瞬間湯沸かし器の「種火」みたいな感じ。 クライアントなどに「なぜDCに行くの?」と尋ねられ、 「ボーイフレンドが住んでいるから」と答えると、なんだかカジュアルで真剣味に欠けるけれど、 「夫が住んでいるから」と答えると、「けなげな通い妻」に聞こえるから不思議。 さて、今回、何となく成り行きでインドで式を挙げることにしたけれど、彼の祖国をこの機会に見ることができたのは、とてもよかったと思います。インドに行って初めて、アーヴァンドの存在の「裏付けが取れた」ような気がしたのです。 百聞は一見にしかず。書物や資料でどんなに知識を詰め込んでも、その場の空気に触れてみなければわからないというものです。アーヴァンドの性格や考え方、生活習慣など、これまでは疑問符が消せずにいたことも、インドに行って「なるほど」と思うことが多かったです。
●ついに、インド初上陸 ニューヨーク発ロンドン経由、ニューデリー行きのヴァージン・アトランティック航空に乗り込む。ロンドンまで約7時間。ロンドンからさらに約8時間の旅だ。ロンドンのヒースロー空港で乗り換えるときから、すでにインドが始まっていた。サリーを着た女性たちや、ターバンを巻いた男性が目に付く。 長旅を経て、デリー空港に無事着陸。ガランと簡素な空港に降り立つと、湿気を帯びた暑い空気と、独特の匂いに包まれる。アーヴァンドの父親ロメーシュと継母ウマの満面の笑顔に迎えられ、駐車場に向かう。 (ちなみにアーヴァンドの実母は、白血病を患って、8年前に他界している。この経緯は、以前、muse new yorkで記事を書いているので、こちらをどうぞ。http://museny.com/backnumber/m4/m4.htm) ウマと私は今回初対面だが、ロメーシュとは、アメリカで何度か会っていた。アーヴァンドの姉夫婦と5人でイエローストーン国立公園へ旅行に行ったこともある。 アーヴァンドの実家のドライバーが手際よく荷物を車に積み込み、私たちは家へ向かう。 どの国を訪れるときもそうだが、空港から目的地までの道のりは、頭と心をその国の環境の中にとけ溶け込ませるための大切な助走の時間となる。車窓からの風景をしっかりと眺めながら車に揺られる。 想像していた以上に、牛が多い。道路脇だけでなく、中央分離帯にもいる。呑気に道路を横切る牛もいる。道路に車線は引かれているものの、従って走る車はなく、滅茶苦茶なドライブマナー。むやみにホーンを鳴らすからうるさい。 アーヴァンドの家はデリーの中心地から南の地区にある。中流階級以上の人たちが多い地区と本で読んだが、時折、バラックのような家並みが現れる。それにしても道を行く人たちの多いこと。 交差点で車が止まると、老若男女を問わぬ物売りたちがわっと道脇から現れる。雑誌を抱える少年、窓を拭いて駄賃をもらおうとする少女、風船や玩具を抱えた青年……。汚れた顔をして眠る赤ん坊を抱え、お金を乞う若い母親もいる。 車窓の内側は、エアーコンディションのきいた快適な空気が流れ、その外側には、埃っぽい暑い空気と、貧しい人々の息吹が満ちている。 彼の家に到着。2階の玄関に至る大理石の階段の両脇には、バラとマリーゴールドの花びらが施されている。遠路はるばる訪れた私たちを歓迎する証のようだ。 玄関では、同居しているアーヴァンドの父方の祖母が出迎えてくれた。手には花びらと、お菓子と、そして水が入った器を載せたトレー(お盆)を持っている。私たちの頭上に花びらを散らし、お菓子を口に入れ、「歓待の儀式」をしてくれる。 私たちの部屋がある3階に通され、荷物をほどいて一息ついたところで、昼食。召使い(servant)たちが用意してくれるカレー(煮込み料理)が食卓に並ぶ。レストランで食べるインド料理より、いずれもあっさりしていてお腹にやさしい味付けだ。 食後に出されたマンゴーのおいしいこと。インドでは「夏は暑くて辛い季節だが、マンゴーが食べられる」という言い回しがあるくらい、おいしいマンゴーが食べられるのだ。濃厚な甘さのマンゴーをたっぷり食べて、一段落。 私とアーヴァンドは、ウマに連れられて街へ行く。結婚式の衣装を縫製するためだ。私が着るサリーは、結婚式用と披露宴用が準備されていたが、いずれもブラウスだけは採寸して身体にぴったりと合ったものを着なければならない。 アーヴァンドはインド人男性の国民服とも言える、「クルタ・パジャーマ」を採寸に行く。クルタとは、ゆとりのある丈の長いシャツ、パジャーマとはコットン製のズボンのことで、ウエストは紐で調整する。 普段着のクルタ・パジャーマは上下共にコットンだが、結婚式の衣装はクルタのみシルク製である。それも、光沢のあるシルクではなく、荒い、素のままのシルクだ。 採寸を終え、商店街をぶらぶらと歩き、私は衣料品店で肌触りのよいコットンの寝間着などを購入する。 それにしても、この喧噪……。人、牛、犬、時々ラクダ。埃っぽい街……。 途中、アーヴァンドが、インド版ファストフード店の前で立ち止まり、おやつが食べたいという。サモサという揚げ菓子や、彼の好物である、グラブ・ジャモンという丸いスポンジケーキのようなものをシロップに漬けた甘い菓子など……。 蒸し暑い中、こてこてに甘いお菓子を食べ、べったりとした気分で車に乗り込む。 その後、デリーの街を車で巡り、軽い「市内観光」をして帰宅。夕食の席で、おばあちゃんが私の首に、金の首飾りをつけてくれた。自分が嫁入りの時に身につけていた物で、私にくれるのだという。 おばあちゃんはヒンズー語しかしゃべれないので、私と二人きりでは会話ができないのだが、なんとか身振り手振りでもコミュニケーションがとれる。なんでも、この家の隣には、インド人に嫁いだ日本人の女性が住んでいて、おばあちゃんは彼女と仲がよかったのだという。彼女は、夫が他界した後、日本に帰国したが、いまでも息子たち一家は隣に住んでいるという。 ロメーシュとウマは5年前に出会い、去年再婚し、ウマはこの家の4階で暮らすようになった。しかしおばあちゃんとウマの折り合いが悪いことは、初日にしてすぐに察せられ、「どこの国も同じね」と思う。
●日本の家族も到着 翌日、いよいよ日本から、私の両親と妹夫婦がやってくる。一応、病み上がりの父と、きれい好きの母が、このインド滞在に耐えられるかどうかが今回の一大テーマである。 これまで何度か父のことは書いたが、母のことを触れたことはなかったように思う。我が母もまた、父を凌ぐユニークな人物である。 幼い頃から自分は欧州貴族の生まれ変わりと信じていて、ヨーロッパに行ったことがないにも関わらず、彼の地の文化が好きで、ことにインテリアなどに関しては、ヴィクトリア調がお好み。その嗜好は私も引き継いでいる。 長年専業主婦をしていたが、50歳のころから突如、絵画に目覚め、オランダのアッセンという地方で起こった「アッセンドリュフト」という、家具や調度品などに花や果物の図柄を施す絵画を学びはじめ、現在は先生をしている。母の色彩やデザインのセンスは、先天的にすばらしいものがあると、身内のひいき目ではなくそう思う。 母は「これからの女性は自立しなければならない」と、わたしが3歳くらいのときから呪文のように言い聞かせていた。 空港へはアーヴァンドと私が二人で迎えに行った。予定よりも早くJALの便が到着。遠くに黄色いシャツを着た、太った男性が見える。お父さんに違いない。アーヴァンドに、 「ほら、あそこ、お父さんだ!」というと、 「えーっ、お父さん、ガンで痩せたんじゃなかったの? あれは違うよ、スモウ・レスラーみたいだもん」 4人の人影がだんだん近づいてくる。日本人らしからぬ存在感。やはり我が家族だ。 去年の3月、父のガン発病に伴い、帰国したとき、父は80キロ強に減っていたのだが、今はすっかり回復して体重も95キロ前後のよう。ちなみに身長は172センチだから太りすぎである。とても病み上がりには見えない アーヴァンドは空港の花屋で買っていた二つの花束を、母と妹に渡す。色鮮やかなグラジオラスの花束だ。 その日は、ホテルへチェックインしたあと、お土産などの荷物を整理して、6人で夕食に出かける。早くも日本勢はインド料理に夢中の様子。特に「ナン」を気に入った父は、「小麦粉が違う。おいしい」とひたすら食べている。その旺盛な食欲には、安心を通り越して、呆れてしまう。
●イベントその1:メヘンディー 女性たちのパーティー 翌日、日本の家族がアーヴァンドの家を訪れる。この日はまた、「メヘンディー」と呼ばれる女性たちのパーティーが、アーヴァンドの実家で行われる。結婚式に参加する親類縁者の女性たちが集い、手や足に「ヘナ」と呼ばれる染料で緻密な図柄を施してもらうのだ。 いよいよ家族の対面。アーヴァンドの姉のスジャータも、南インドのバンガロールから到着していた。みな、それぞれにハグ(抱擁)を繰り返し、対面を喜んでいる。わが母は感極まって、目を潤ませている。 すでにメヘンディー塗りの職人(アーティスト)が二人来ていて、女性たちの手足に模様を描いていた。妹も母も、もちろん花嫁の私も、交代で塗ってもらう。その間、父や妹の夫(義弟だが私より年上)は、アーヴァンドの家族が手配してくれた日印通訳のインド人青年を介して、親戚の人たちと話をしている。 メヘンディーを塗ったら2、3時間はそのままにしておかねばらならない。 すっかり乾いたところで、泥のような染料をそぎ落とすと、赤茶色に染まった模様が現れる。しっかりと濃く発色させたい場合は、丸1日、塗った手足を濡らさないようにする。 本来は、女性だけがたしなむものだが、義弟が腕の目立たないところに「蝶」の柄を施してもらうと、アーヴァンドもうらやましくなったらしく、「蓮の花」を描いてもらう。「アーヴァンド」とはサンスクリット語で「蓮の花」という意味なのだ。 それを見ていたスジャータの夫ラグバンもうらやましくなったらしく、メヘンディー職人の前に座る。なんでも「カメ」が好きらしく、職人に頼むのだが、二人ともカメなど描いたことがないらしく、すごく下手くそな仕上がりで、笑ってしまった。 その夜はタンドーリ・フードの晩餐だった。タンドールと呼ばれる深い土釜に、串刺しにしたチキンやラムを入れて蒸し焼くのだ。バルコニーでは「タンドーリ屋」が3名来ていて、汗を流しながら釜の前で調理している。あたりは、いい匂いでいっぱい。 タンドーリ・フードのほか、料理担当の召使いが作るカリフラワーやオクラ、豆、カッテージチーズなど多彩なカレー、プーリと呼ばれるクレープ状のパン、それにおなじみのナンなどが食卓を賑わせる。 それにしても、スパイスがしっかりとしみ込んだ、ジューシーなタンドーリ・チキンのおいしいこと! すでに序盤から、父親をはじめ、我が家族は極めて旺盛な食欲を発揮。スジャータが心配して、「ミホ、これは前菜だからって、家族の人に説明して」と耳打ちするほどだった。 それにしても、スジャータとラグバンの気配りは大変なもの。私たち家族が戸惑うことのないように、ひとつひとつ注意を払ってくれる。 食事を終え、一息ついたところで、日本からのお土産を家族のそれぞれに渡して、一日をしめくくった。
●イベントその2:カクテルパーティーの夜 この日、アーヴァンドと私たち日本勢はインドの工芸品店の一大コンプレックスへ行き、日本へのお土産などを下調べする。パシュミナのショールや絹製品、銀の食器など美しい品々をチェックする。 さて、ニューデリーは、首都とはいうものの、近代的な建物がほとんどない。インド最大の都市、ボンベイに行けば、高層ビルなどが立ち並んでいるらしいが、この街を見る限り、「混沌」という言葉以外、的確にいい表す形容が見つからない。 妹夫婦はコンプレックスを離れ、界隈を散策し、マクドナルドに行った。ジャガイモそのものがおいしいせいか、フライドポテトがとてもおいしかったという。後日私も行ってみたが、マクドナルドに一般庶民の姿はなく、海外からの旅行者や、上流階級の人たちが出入りする「気取った場所」だった。 さて、遅めの昼食を取ろうと、英国統治下時代に立てられたインペリアル・ホテルのレストランへ。白亜の建物は、イギリスとインドの建築文化が融合して成った独特のコロニアル建築。優雅な空間に、わが母はご満悦。ゆったりとランチを楽しんだ。 この日の夜は、アーヴァンドの叔父が主催するカクテルパーティー。近い親戚ばかり100名近くを招いた欧米スタイルのパーティーだ。私は黒いカクテルドレス、アーヴァンドはスーツ姿で参加する。 親戚の大半は、海外に留学経験を持つ人ばかりで、学者や政府の高官などが多い。日本を訪れたことのある人も少なくなく、日本に対する理解を持つ人たちが多いのには驚いた。ラグバンの父は、ラグバンと同様に科学者で、日本にも何度か訪れたことがあり、現天皇や森首相とも何度か会談したことがあるという。 外交官の女性は、日本へ出張した際、外務省に、京都、大阪などに連れていってもらったという。おいしい料理も食べたと言っていた。機密費か。 妹は日本の着物を着て参加していたのだが、予想していたほど珍しがられなかったのも、本場日本で着物姿の女性たちを見たことがある人たちが多かったからかもしれない。 欧米では、立食のカクテルパーティーは一般的だが、このような場が初めての両親や妹夫婦は、その新鮮な環境を大いに楽しんでいる様子。父はもっぱら通訳を介して話しているが、母は英語を話せないにも関わらず、強引に日本語と和製英語を駆使して、誰彼となく楽しげに話をしている。 そんな母の姿を見た、タイのバンコックから祝いに駆けつけてくれた初老のフェミニストらしき学者が私に向かって言う。 「あなたのお母さんはとてもエレガントですね。それに、普通、日本の女性は、夫の後ろにくっついて、ほとんど何も話さないのに、あなたのお母さんは、お父さんの前を歩いている。すばらしい」 と褒めてくれる。そのように家族を褒められると、とてもうれしい。 パーティーの中盤になると、ホールの一画でインド料理のビュッフェが用意され、参加者は一同、どやどやと食べ物の周囲に集まる。欧米のパーティーの場合、比較的控えめに、スマートに料理に向かうのが常だが、インド人の場合、食べ物に向かって一直線、という感じ。山盛りに料理を載せた皿を持ち、ばくばく食べながら、おしゃべりに興ずる。 パーティーを終え、家族をホテルに送り、私とアーヴァンドは家に戻って服を着替え、空港へ向かう。アーヴァンドの大学時代の親友、マックスがやって来るのだ。彼はイタリア出身の好青年。マサチューセッツ工科大学の大学院まで進んだ後、ボストンで友人たちとIT関連の会社を興している。やはりイタリア出身のガールフレンド(学者)も一緒に来たかったらしいが、今回は無理だったようだ。 深夜のデリー国際空港は、到着便が重なっているようで、昼間とはうってかわってたいへんな喧噪である。でも、マックスを見つけるのは簡単だった。なにしろ身長が2メートル7センチもあるからだ。
●イベントその3:結婚の儀式 結婚式は夕方から行われるので、マックスとアーヴァンド、妹夫婦と私は市内観光に出かけることにした。両親には、疲れが出ないよう、ホテルでくつろいでもらうことにする。 インドが最も暑いのは5月6月で、気温は40度を超えるという。この時期は35度前後だったのだが、何しろ湿気が多いのと、街がごみごみしているせいもあり、やたらと暑苦しい。寺院などの観光地を歩くのだが、私も妹夫婦も、かなりうなだれ気味。 マックスはシャワーを浴びたかのようにシャツが汗でびっしょりだ。しかし、北欧からイタリアまで自転車旅行をしたことのあるスポーツマンだけあり、細身ながらも体力はありそう。今度はイタリアからインドまで自転車旅行をしたいと張り切っている。たいそうなことだ。 驚いたのは、アーヴァンドがちっとも汗をかいていないこと。ニューヨークではちょっと暑いだけで「ああ、暑い、冷房入れよう」などという癖に、私たちがうだっているのに涼しい顔をしている。やはり、母国の気候に身体が合っているのだろうか。 さて、夕方近くになり、家へ戻る。数日前から家のバルコニーに結婚式用のやぐらが準備されていた。結婚式では火を焚くため、バルコニーで式を行わねばならないのだ。 家のゲートには、花が暖簾のように下げられ、通りや階段の両脇に、花びらが美しく施されている。家の外壁にはクリスマスのように色とりどりのネオンが光る。 結婚式は外で行われるから、厚化粧をしても汗で流れ落ちるだろうと踏んで、いつもと変わらぬあっさりとしたメイクをし、親戚のお姉さんにサリーを着付けてもらう。そのうち、我が家族もホテルからやってきた。一応、父と義弟はスーツを着ているが、バルコニーは暑いので、早速、上着を脱ぐ。 スジャータがお母さんの形見だと言って、ゴールドの6連のバングル(腕輪)をくれた。私の手首にちょうどいいサイズだった。 妹に髪をまとめてもらい、結婚式用のバングルを更に何連も腕に付け、おばあちゃんにもらった金のネックレスを付けて、私の準備は終わり。式は6時半に開始、と聞いていたが、7時になっても、なんだか場のまとまりがない。結婚式はごく身近な親戚が50名ほど集うことになっているが、皆、三々五々やって来る。 男性の参加者は「ターバン巻き職人」から、ピンク色のターバンを巻いてもらう。もちろん、我が父も、義弟も巻いてもらう。 「で、式はいつ始まるの?」 とアーヴァンドに聞けば、「今、段取りを考え中」とのこと。なんとまあ、いい加減なこと。伝統的なインドの結婚式だと、長時間、あるいは数日間かけて、ヒンズーの儀式をせねばならないらしいが、今回は思い切り端折って肝心の部分だけを執り行うらしい。が、どれが肝心な部分かは、私にはさっぱりわからない。 ひとまず、「喜びの踊り」をすることになり、一同、わらわらと庭に下りる。ホラ貝の合図と共に、楽団の演奏が始まり、皆、人差し指を天に突き立てるようにして、阿波踊りっぽく踊る。我が母も、妹夫婦も、誘われて踊る。私は一応、花嫁なので、踊りには参加せず、2階のバルコニーから様子を眺める。 踊りを終え、ほどなくしてから、我が父と、ロメーシュが花輪(レイ)の交換をする。そしていよいよ、花で美しく飾り立てられたやぐらで式が始まった。父は(本人いわく)、「抗ガン剤と放射線治療のせいで、体温の調整ができず、とにかく暑いのはだめだ」と言っていた。「火の前で儀式をするのは私とアーヴァンドだけだから、涼しい部屋にいてもいいんだよ」とあらかじめ言っていたにも関わらず、いきなりわが両親もやぐらに駆り出される。 段取りとか、あらかじめの打ち合わせ、というのが、ないのだ。ま、あったとしても、随時変更、って感じだ。 私たちの正面に、ヒンズー教の祭司が座り、右側に私の両親、左側にアーヴァンドの両親が座る。祭司がなにやらヒンズーの古い言葉で読経をはじめる。アーヴァンドも、そして通訳のお兄さんも、正確に理解できない様子。 そこから、行き当たりばったりの儀式が開始された。私の父が、アーヴァンドの額に赤い粉で印を入れたり、私たち二人が水を酌み交わしたり……。そのうち、司祭の合図に従い、中央の釜に二人して薪を一本ずつ入れる。 何度か、ヒンズーの読経を、祭司の真似をして口にしなければならない。必ず最後に「オーム」とつぶやく。ちなみに「オームom」とは「絶対的真理」という意味のサンスクリット語で、世界一切の調和などを表す神聖なる言葉だという。キリスト教で「アーメン」と唱えるのと同様に、「オーム」と唱えるのだ。 ギーと呼ばれる精製バターの油を、私とアーヴァンドがそれぞれが杓子ですくって、同時に薪にかける。ついに火が焚かれ、しばらくは、読経→合図→火に油を注ぐ→読経→合図→火に油を注ぐ の繰り返し。もう、暑い、油はもういい、勘弁してくれ! という感じだ。 父親の具合が心配だが、この期に及んでは、どうしようもできない。我慢してもらうしかないだろう。暑いし煙たいし、段取りはいい加減だし、厳粛な気分などかけらもなく、なんだかおかしくて笑いがこみあげてしまう。 両家の親からお菓子を口に入れてもらったり、二人の頭をコツンとくっつけてもらったりと、謎めいた儀式を次々にこなす。終盤、二人は日本の子供の浴衣の帯のような紐で結ばれ、火の周りを7回まわる。そのあと、親戚の人たちなどに花びらを投げつけられるようにまき散らしてもらい、約1時間ほどの儀式は終了した。 「式次第」は「気分次第」だし、暑いしで、わけがわからない式だったが、非常に楽しめたひとときだった。 そのあとは、お待ちかねのディナータイム。先日よりも増員した「タンドーリ屋」によるタンドーリ・チキンやラム、ナンに加え、ビュッフェのコーナーも設けられて、またしても、参加者は皆、食に走る。この日の食事も、実においしかった。
●イベントその4:披露宴(レセプション) この日の昼間は日本勢とマックスとで市内観光。アーヴァンドは就労ビザの資料を整えるため、一日、役所巡りだった。 ヒンズー寺院や、ガンジーの墓地などを巡って、夕方戻る。披露宴は、私の家族とマックスが滞在しているホテルのバンケットルームで開かれる。ロメーシュが、この夜は私とアーヴァンドにもホテルの部屋を予約しておいてくれた。 さて、この披露宴が、この一連のイベントの中でも最大規模のものとなる。300名近くの来客があるそうで、私が着るサリーも、昨日の物よりはゴージャスだ。オレンジ色と金色の、何とも言えず美しい色合いのサリー。昨日のもそうだが、私に似合う色を考えて選んでくれたウマとスジャータに感謝する。 さて、披露宴の開始は7時半と聞いていたが、なんだかんだで私とアーヴァンドが会場に到着したのは8時頃。しかしお客は2割程度しかいない。「何、これだけしか来ないの?」と思っている先から、次々にゲストが登場する。私たちは両親も含め、入り口付近でご挨拶。 私は見知らぬインドの人々から、握手され、ハグされ、プレゼントや祝い金の入った封筒を渡され、息を付く間もないという感じである。ふと気づけば、会場は埋め尽くされていた。 なんとまあ、都合よく、だらだらーっと人がやって来ることか。会場に配されている円卓に、皆好き勝手に座ったり、あるいは立ったまま、あちこちで会話に花が咲いている。9時ぐらいになったところで、一画に用意されていた、ゴージャスなビュッフェの蓋が開いた。すると、来賓一同、料理を目指す。列までできている。 私も料理が気になるのだが、まだ、だらだらとお客さんがやってくるものだから、入り口付近で満面の笑顔を振りまかねばならない。 皆から、「まあ、すてき」「サリーがよくお似合いだわ」と褒められて、とてもいい気分ではあった。同じインド人でも、肌の色はさまざまで、肌の色が浅い方が美しいとされているらしい。確かにテレビを見ていても、女優に肌の濃い色の人はいない。 インド人に比べれば、日本人の肌色は浅いから、たとえ顔の彫りが浅くても、美しいと評価されるようだ。 何百人ものインド人と、握手し、抱擁し合いながら、自分がインド人の家に嫁いだのだと言うことを、なんとか自分に認識させようとするのだが、やはり今ひとつピンと来なくて、他人事のような気さえする。 皆と一通り挨拶をしたところで、私たちも食事をする。今日の料理もまたバラエティ豊かでおいしいこと。特にラムの煮込みはほどよくこってりとしていてやみつきになる味。デザートのマンゴームースも、こりゃたまらん、というおいしさだった。 そしてふと気づけば、いつしか会場はガランとしていて、披露宴終了。司会も慣れければ挨拶もなく、祝電の読み上げも、新郎新婦の友人たちによるカラオケももちろんない。なにしろ、だらだらーっと始まって、だらだらーっと終わった。しかしながら、色々な人たちとたとえ浅い内容だとはいえ、会話をし、「お近づきになれた」という意味では、とても意義深い夜だった。
●一連のイベントを終えて かなり端折って書いたつもりだが、それでも随分と長くなってしまった。 披露宴の翌日は、午前中、ホテルでゆっくりとくつろぎ、私と両親、妹夫婦は、お土産を買いに出かけた。その翌日は、両家そろってアグラという街にあるタージ・マハル日帰り観光に行った。そのドライブルートたるや、片道わずか200キロにも関わらず、それはそれはひどい道で、5時間以上もかかり、非常に辛かった。深夜、ニューデリーにたどり着いたときには、安堵感で溶けそうだった。 そしてその翌日、日本の家族がいよいよ帰国。みな、特に具合が悪くなることもなく、日本食を恋しがることもなく、1週間の滞在を終えて、無事に帰っていった。こんなところまで、よくもまあ来てくれたものだと、心の底から感謝すると同時に、つつがなく一連の行事が終えられたことに、心の底からほっとした。 その日から、私は胃痛と下痢に見舞われる。気分的に食欲はあるのだが、お腹が痛いから何も食べられず、それからの1週間、地味な食生活だった。翌日から3泊4日、新婚旅行と称して、私たちはウダイプールという街に出かけた。飛行機で1時間ほどの街だ。 この街には人工湖があり、その中心にかつて宮殿だったゴージャスなホテルがあるのだ。たまたま披露宴に来ていた人が、このホテルのマネージャーだったらしく、スタンダードルームを予約していたのに、豪華なスイートルームに変えてくれた。 まるで「姫」のような気分で3泊した……、といいたいところだが、お腹の調子が治らず、地元の病院に行って薬をもらったりして、今ひとつ冴えない新婚旅行だった。 ニューデリーへ戻り、アーヴァンドの家族と最後の夜を過ごし、2週間の滞在を経て、ニューヨークへ戻ってきた。ニューヨークに戻ってきて、心底ほっとした。 それにしても、この滞在を通して、冒頭にも触れたが、インドという国の断片を垣間見て、アーヴァンドという人となりも、少しわかる気がした。出会った当初は、一人で服も畳めず、家具を組み立てることもできず、料理も何一つできない彼を見て唖然とするばかりだったが、それも仕方ないことと思える。 朝、目が覚めれば、召使いがお茶を部屋に運んできてくれる。脱ぎ散らかした服は召使いが洗濯し、夕方にはきれいにアイロンをかけて部屋に届けてくれる。ベッドも部屋も、毎日きれいに掃除してくれるから、自分で家事をする必要は一切ないのだ。 外出から買って来れば、「お水になさいますか? お茶になさいますか?」と尋ねられ、夕食の献立も、リクエストに応じて作ってくれる。 何もかもお膳立てされることは、とても楽だけれど、それはイコール豊かではないとも思った。なにしろ、披露宴に来ていた女性たちにも見受けられたが、裕福な人たちの、何とも肥満していること。アメリカの肥満とは違う意味で、考えものである。街に溢れかえる貧しい人々との落差が激しすぎて、束の間の旅人としては、なんだかよくわからなくなる。 いや、旅人とはいえない。私はインド人家族の一員で、インド人の親戚もめいっぱいいるのだ。ううむ。やはり今ひとつ、ピンとこない。 ちなみにウマやスジャータはとてもスリムだ。彼女らは、あえて自分たちで家事をしている。インドに到着した日、ウマが自分の部屋を私に案内しながら「私は自分の部屋の掃除や洗濯は自分でするのよ」とむしろ誇らしげに言っていたその理由が、今になってよくわかる。 同じ環境に育っていながら、スジャータは非常にシンプルな生活を好む一方、アーヴァンドはどちらかといえば、贅沢で楽な生活が大好きだから、インドでの2週間が本当に心地よかったようだ。ある意味、スポイルされて(甘やかされて)育った彼が、18歳にして初めてアメリカを訪れ、一人で生活を始めたというのは、たいしたものだとも思う。 しかも、23歳で私と出会ってからは、家事全般を教育され、何とか一人でこなせるようになったのだから、たいしたもんである。まあ、やらねばならないのだから、大げさに褒めるほどでもないのかもしれないが、それでも、インドで、私自身、あのような「楽ちん」な生活をしていると、自分で家事をするのが面倒になったから、彼の気持ちもよくわかるというものだ。 |