ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 44 5/20/2001

 


土曜の朝です。今、海辺のリゾートに来ています。オーシャン・シティというメリーランド州にある海辺の町です。ビーチリゾートに来て、なにゆえにコンピュータに向かっているかと言えば、悲しいことに雨が降っているからです。

午後からは雨もあがるようですから、それまでは部屋でおとなしくしていようと思います。

今週はずっとDCで、部屋にこもっての作業でしたから、気分転換にはいい週末旅行です。とはいえ、なんで雨が降ってるんだろう。せっかく水着も持ってきたのに、こんな天気じゃ寒くて風邪を引いてしまう。

(時間の経過)

日曜の夜です。海辺のビーチリゾートから、戻ってまいりました。天気予報では日曜は晴れるということだったのに、どんよりと曇っていて、とても海水浴どころの騒ぎではありませんでした。先週は晴れてたのに。

渋滞に巻き込まれて帰路に6時間もかかって、まともなことを書けそうにありませんが、とりあえず、今回のテーマは「海」で、まとめてみようかと思います。

 

●アメリカで魚を焼くのは一苦労である。

先週の日曜日、またもやフィッシュマーケットへ行った。おいしいカニに味をしめた私たち、2度目の「活きカニ」購入である。

この日は、なぜかメスの方が安い。

「今日は、高いオスの方がおいしいのかしら。でも卵がある方がおいしいよね」と、やや混乱する私たち。店の人によれば、単純に収穫量の多い方が安くなり、味は関係ないという。「高価=良質」とう図式に慣らされている自分に、少しばかりハッとする。

 

カニは蒸した翌日でもおいしいから、多めに買おうと1.5ダース(18匹)頼む。ところが、店のお兄さんの手元を見ていると、23匹、およそ2ダース近くも入れてくれている。チェサピーク湾の海の男は気前がいい。

カニに加え、新鮮なサバも1匹購入。やや小振りながらも1匹2.95ドルと安かった。さらに帰り際、スーパーマーケットで1週間分の食料を買い込んで帰宅。駐車場から部屋まで、二人して両手いっぱいに袋を抱えて歩いている最中、A男の持っていた袋が、私の持っていたカニ入りの袋にぶつかり、袋を突き破っていたカニの爪が、私のひざ下を直撃。ジーンズを貫いて、スネ2箇所から、流血……。

「痛〜いっ! もう、何やってんのよ! 痛いじゃないのよぉ!」とわめきながら、傷口にバンドエイドを貼りつつも、「殺生するのだから、多少の痛みは我慢せねば」と、妙に悟りの境地である。

前回よりも活きがよく攻撃的なカニども。一旦、鍋に入れても外に出ようともがき、かなり手こずったが、なんとか無事に調理完了。

今回もおいしかった。

翌日は、2枚に開いて塩をしておいたサバがメインディッシュ。荒塩をまぶして焼くのが一番シンプルで好きなのだが、煙のことがやや気になる。しかしマンハッタンと違って、ここには強烈な換気扇があるし、窓もあるから大丈夫だろうと判断し、オーブンに入れる。

ところが。そろそろ焼ける頃だろうか、とオーブンの蓋を開けた途端、猛烈な煙がワッと襲いかかってきて、危うく呼吸困難に陥りそうになる。慌てて蓋を閉めるも、数秒後「煙探知機」のブザーが部屋中にけたたましく響きわたる。ここにはスプリンクラーもあるから、煙が漂い続けると、放水されてしまう。やばい!

のんびり横になってテレビを見ていたA男も、ブザーの音に驚いて飛び上がる。彼にはスプリンクラーの前あたりに漂う煙を、タオルであおいで散らしてもらい、私はイスに上って天井近くに設置されている「煙探知機」をビニール袋で覆う。こうすれば、ひとまず反応しないだろう。

さて、部屋の煙は一段落したが、オーブン内は煙だらけである。どうしたものか。仕方ない。サバはもう焼けたと判断して、オーブンのスイッチを止める。3センチほど蓋を開けて少しずつ煙を出しつつ、換気扇に吸い込ませる。魚一匹焼くのに、もう一大事である。

なんとか煙も消え失せ、サバはこんがりと焼き上がった。苦労した甲斐あって、フライパンなどで焼くよりは、余分な脂も落ちて香ばしく、とてもおいしかった。

ニューヨークには、昨年、帰任した駐在員氏がくれた「魚焼き器」がある。もう、煙にまみれるのはまっぴらなので、今度はあれをDCに持ってこようと思う。

ちなみに、この一週間の夕食は、シーフード三昧だった。

日曜:蒸したカニと、トウモロコシ、ベイクドポテト

月曜:サバの塩焼き、キャベツとニンジン、タマネギ、ベーコンのスープ

火曜:銀だらのグリル・キノコとタマネギのソテー添え、インゲンのサラダ

水曜:気分転換にチキンカレー、アスパラガスのサラダ、冷や奴

木曜:カレイの唐揚げ、カレー風味のベジタブルスープ

珍しく5日間連続で夕食を作ったものだから、かなりの達成感。思わず得意気に書き連ねてみた。一日中デスクワークだったから、気分転換に料理をしたかったこともあるが、魚市場の発見で新鮮な素材が手にはいるようになったことの影響は大きい。

特に木曜日のカレイの唐揚げなどは、換気扇のないニューヨークのアパートでは絶対に作れないから、DC別宅ならではの料理である。実は、インターネットでレシピを探し、初めて挑戦した料理なのだが、カラッと揚がって実においしかった。

家で料理をする場合の主食は白米だから、胃の調子も非常にいい。ニューヨークにも安くて新鮮な魚が手に入る店があって、キッチンに換気扇がついていればいいのにと思わずにはいられない。

 

●オーシャン・シティーの旅日記:曇天に迎えられる。

金曜日、仕事を早めに切り上げて、A男が帰ってきたのは4時頃。水着やビーチサンダル、日焼け止めを入れたスーツケースを車に積み込み、2泊3日の週末旅行に出発した。

目的地はメリーランド州にあるオーシャン・シティ。大西洋に面したビーチリゾートだ。地図を持っている方は見ていただくのが一番わかりやすいが、簡単に地理の説明をしたい。

アメリカ大陸の東海岸、隣接するヴァージニア州とメリーランド州に取り囲まれるようにワシントンDCの町がある。北東部に位置するメリーランド州には半島があり、半島と大陸の間に横たわるのがチェサピーク湾である。

チェサピーク湾といっても、博多湾や東京湾のような規模ではなく、相当広い。今、手元に地図がないから正確な距離はわからないが、なにしろ半島そのものが、多分、四国を縦にしたくらいの大きさなのだから。

家を出た私たちは、DCを通過して、ひたすら東へ走る。途中、チェサピーク湾にかかる長い長い橋「ベイブリッジ」をわたり、さらに半島を横断して最東端を目指す。オーシャン・シティーに到着したのは4時間後、8時を過ぎた頃だ。

まだあたりは薄暮で、延々と伸びる海辺も見える。海岸線に沿ってホテルやモーテルが立ち並んでいる。この週末、クラシックカーのイベントがあるらしく、霧が立ちこめる芳しくない天気にもかかわらず、大勢の観光客で賑わっていた。

私たちが予約していたリゾートホテルは、オープンしたばかり。オープンしたばかりというと、設備が何もかも新しくて好ましい印象を与えるが、アメリカの「オープンしたて」は日本の「工事中」と等しい状況にあることが多々ある。

今回のホテルもそうで、レストランやバーはまだオープンしていないし、屋外プールはタイルを貼っている途中だし、バルコニーのテーブルセットは運び込まれてないしで、宿泊料を割引してくれといいたい状況である。

しかしながら、各部屋にジャクージーが設置されているのはうれしい。アメリカの比較的カジュアルなリゾートホテルの場合。(部屋がいくつかあるスイートは別として)ジャクージーが、バスルームにではなく、部屋の中に取り付けられていることが多い。カーペットの敷かれた部屋の一画に、唐突に大きなバスタブがある様子は、かなり違和感がある。

とはいえ、部屋には大きな窓があり、バルコニー越しに、南北に延々とのびる白砂のビーチと大海原が望める。曇ってはいるけれど、景色を見ながら入浴するというのは、露天風呂を思わせてなかなかいいものだ。

夕食は、ホテル近くのシーフードレストランで。アペタイザー(前菜)はムール貝のスチームとエビのグリルの2品、アントレ(主菜)はクラブケーキをオーダーし、二人でシェアする。クラブケーキは以前紹介した、あの、「カニ肉のコロッケ風」である。付け合わせは、ベイクドポテトとコールスローだ。

よく冷えた、カリフォルニア・ナパの、「ソーヴィニョン・ブラン」という白ワインとともに味わう。安いワインだったけれど、フルーティーでさっぱりしていて、おいしかった。

ホテルに戻り、ゲームコーナーへ立ち寄る。日本の温泉旅館に卓球台があるように、ここにはビリヤード台があり、その周囲にピンボールやゲームマシンがある。セガの「ポリスvsジャパニーズ・マフィア」というゲームマシンがひときわ目立つ。ゲーム機に漢字で「緊急事態」とか「逮捕」とか書かれている。

見るからに精巧なゲーム機で、ゲームをせず、ただモニターを見ているだけで臨場感がある。ジャパニーズマフィアとは、もちろん「やくざ」のことで、背中に入れ墨を彫った男の姿も見られた。

平和的なゲームを好む私はA男を誘い、1ゲーム50セントのクラシックなピンボールに興じる。ピンボール程度の緊張感が、私たちには似合っているようで、2ドル分ずつ遊んだところで、心地よい達成感とともに、退散する。

寝る前にジャクージーにお湯を張り、持参していたお気に入りの温泉の素、「登別カルルス」を振り撒いて入浴。ゆったりと脚をのばしても肩が出ない、広々としたバスタブ。もう、極楽である。

翌朝は、泡立つソープを入れて、「プリティ・ウーマン」のジュリア・ロバーツ気分を楽しみながら、またもや入浴。大きいバスタブのついた家に住みたいと、しみじみ思う。

そうこうしているうちに、午後になり、雨がやんできた。気の早い家族がビーチに出ている。どう考えても寒いのに、水着姿で海に飛び込む子供たちも見られる。年齢を問わず、アメリカ人の皮膚感覚には、ついていけない。

 

●オーシャン・シティーの旅日記:
余りにもアメリカ的なボードウォーク

午後、雨がやんだので、A男と二人で、3キロほどもありそうな、海辺のボードウォーク(木製の遊歩道)を歩く。幅10メートル以上はある広々としたボードウォークに沿って、ホテルや店、レストランなどがぎっしりと軒を連ねている。

それにしても、どうしてこんなにも、高カロリーな食べ物の店ばかりが並んでいるのだろうか。行き交う人は、何かしら食べながら歩いている。

大きな紙コップに山ほど盛られたフライドポテト、

キャラメルソースがたっぷりかかったポップコーン、

チョコレートソースやチョコチップをたっぷりトッピングしたアイスクリーム、

ファンネルと呼ばれるボリュームたっぷりの揚げ菓子、

青や濃いピンクがまばゆいほどの綿菓子、

子供の顔ほどの大きさのペロペロキャンディー、

レンガのような大きさの、チョコレートファッジ、

ケチャップとマスタードがたっぷりのホットドッグ……。

オーシャン・シティには遊園地がいくつかあるのだが、その中でも、最も小規模で、昔ながらの雰囲気が漂う海に面した遊園地に入ってみた。銃を打ってターゲットに当てるとぬいぐるみをもらえるゲームや、バスケットボールのリングにうまくボールをシュートすると、やはりぬいぐるみをもらえるゲームなど、日本の夜店を彷彿とさせるブースもある。

ウォータースライダー、ローラーコースター(ジェットコースター)のほか、私の苦手なぐるぐる回る遊戯マシンもある。

以前、バンジージャンプを自慢したので、「絶叫マシン」関係の乗り物も得意分野かと誤解されそうだが、私は遊園地のほとんどの乗り物がダメなのだ。何もかも「三半規管のバランスが悪いせい」だと思っているのだが、とにかく、すぐに目が回り、酔い、吐き気と激しい頭痛に襲われる。

苦い記憶が蘇る。余談ではあるが、あれは29歳の春、イギリスの最南端の港町に3カ月語学留学していたときのこと。同じクラスに、同じ歳で、いつも隣に座っていたスペイン人のミゲルという男性がいた。2カ月ほど毎日顔を合わせているうちに、ちょっとばかり胸がときめくようになり、向こうも私のことを悪く思っていない様子が伝わってきて、ある日、ブライトンという町へ、スペイン人カップルと「ダブルデート」に出かけた。

ブライトンのピア(桟橋)には、やはりここと同じような遊園地があった。スペイン人はみんなして、猛烈にぐるぐる回るコーヒーカップの強烈バージョンのような遊戯マシンに乗ろうという。

「私は苦手だから」というのを、彼らは、シャイな日本人の口実とみて譲らない。ミゲルも、「一緒に乗ろうよ」と言うし、うれしいような恥ずかしいような、だけど、絶対具合悪くなる気もするし、でももう20年もこんなものに乗ってないから、ひょっとすると大丈夫になってるかもしれないなどと思い、更にはミゲルに「急接近」のチャンスかとも思い、覚悟を決めて乗った。

それはもう、筆舌に尽くしがたい、体験だった。

全然、大丈夫じゃなかった。

「絶叫」とは、抑えようにも抑えられないと衝動だと言うことが、あのとき初めてわかったように思う。

あまりにもすさまじい遠心力により、私の身体は思い切り、外側に座っていたミゲルを押しつぶし、もう、どうしようもできない。みっともないほどに叫んでいるとわかっていても、「ギャーギャー」とこみあげる声を止めることができず、ミゲルといえば、乗り物の壁面に押しつけられ、低くうめいている。

「急接近」というか、近づきすぎである。

地獄のような数分間を経て、私はもう、ボロボロ。まっすぐに歩くことすらできず、真っ青な顔でトイレに駆け込む。

その後しばらくは、ただ呆然とベンチに座り、放心状態の時間を過ごした。彼らは、あんな猛烈な乗り物に乗ったあとにも、次々にもっとすさまじいものに乗り続け、私は心の底から、そのタフな身体構造が信じがたかった。

というわけで、私は、それくらい、遊園地の乗り物が苦手なのである。

蛇足だが、数週間後のとある夕暮れ、学校の帰りに海辺を歩いていたとき、熱烈に抱擁しているカップルを見かけた。よく見れば、それはミゲルと、隣のクラスのセクシーなイタリア人の女の子だった。やられた、と思った。少しばかり、いや、かなりの傷心。しかしながら、然るべき結末だったか。苦い思い出である。

さて、話が著しく横道にそれたが、遊園地である。A男がどうしても「一緒に何かに乗りたい」というので、小さなローラーコースターなら大丈夫だと譲歩する。ローラーコースターはぐるぐる回り続けないから、ましなのだ。最後に乗ったのは20歳の時。確かあのときは大丈夫だった。

あまりにも地味なコースターのせいか、乗る人も少ない。まずは下調べを兼ねて、様子を見ていると、小学生くらいの男の子が二人で乗り込んだ。あとは空席のままで動き出す。わずか1分ほどの走行中、男の子たち、表情も変えず、さりげなく乗り続け、さりげなく降りて、さりげなく去った。全然、刺激がなさそうな様子にA男は不満げだが、私にはこれくらいがちょうどいい。

一番前の席を確保し、もう一組のカップルを乗せ、コースターは動き出す。

もう、なぜ? 私はどうしたの? というくらい、絶叫がお腹のそこからあふれてきて、自分でも驚くほどである。A男も、時折、叫んでいる。うしろのおじさんの叫び声も聞こえる。

十分に怖く、十分にエキサイティングだった。

「怖かったねえ」と私がいえば、「うん、結構怖かった」とA男。よくよく聞けば、彼の人生二度目のローラーコースターなのである。

「私、叫び声を止められなかったよ。よくあの子供たち、平気な顔してたよね」

「ほんと。僕はね、男だから叫んだら恥ずかしいと思って、結構、我慢したんだよ。途中で目をつむるのも我慢して」

その後、昔のコスチュームを着て写真撮影をしてもらう、仮装記念写真のスタジオを発見。見本に飾られている写真はどれもきれいに撮れていて、なんだかおもしろそう。「あほみたい」などと言いながらも、やってみることにする。

舞台は19世紀アメリカの酒場のカウンター。A男は保安官の服装で銃を持つ。私はレースのドレスを身にまとい、羽根つきの帽子をかぶり、網タイツをはき、ガーターベルトに札束を挟んで、片手に酒瓶を持つ、という素性不明な女の役柄を演じ、カメラに向かう。

セピア色に仕上げられた写真は、かなりいい(怖い)できばえで、人に見せたいくらいである。

そんな風にして、一日が過ぎていき、結局はビーチに寝ころぶほど晴れなかった。

ただ、ホテルのスタッフに勧められて出かけたイタリアンレストランがとても素敵で、沈む夕陽を眺めながら、おいしい料理を楽しめたことで、とりあえず「いい一日」を締めくくった。

 

●「初めての海」の記憶

私の記憶の最初に登場する海は、確か2歳のころ。当時、両親と私は、福岡市名島汐見町というところに住んでいた。「汐見町」の名の通り、博多湾を間近に控えた、海べの町だった。

ある夏の夕暮れ、汐見町の海辺を、私は浴衣を着て下駄を履き、父に手を引かれて歩いている。ふと、下駄の鼻緒が切れた。父は鼻緒を直そうとするがうまくいかない。諦めた父は私を背負って、砂浜をゆっくりと歩いていく……。

すでに当時から、埋め立て工事は進んでおり、海岸線は遠のいていたが、それでもすぐ近所に、寄せては返す波を眺められる海辺があった。現在、そのあたりはすっかり「内陸」となり、「汐見町」という町名さえ、地図から消えてしまった。

そんな「海」の記憶を思い出し、A男にも「初めての海」を聞いてみた。彼の故郷のニューデリーは内陸で、海からは遠い。彼が初めて海を見たのは、10歳のころ。両親と姉の4人で、インド最南端の「カンヤクマリ」という海辺の町へ休暇に出かけた時のことだという。

アラビア海、インド洋、ベンガル湾という「3つの海」が交差する地点だというそこは、まさに茫洋たる大海が広がっており、彼の心を強く捉えたという。

「海は本当に広くて、きれいで、一日中、遊んだよ。砂浜にはきれいな形の貝殻がたくさんあってね。それを拾い集めて、きれいに洗って枕元に置いて寝たんだ」

「それがね、朝起きたら、貝殻が、ベッドの上や部屋の中、いっぱい散らばってるんだよ。もう、びっくりしてお母さんを呼んだんだ。……僕が集めたのはね、普通の貝殻じゃなくて、ぜんぶ『ヤドカリ』だったの。びっくりしたよ〜」

A男は、子供の時から、A男だったのだなあと、しみじみ思った。


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