ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 39 4/21/2001

 


今は金曜日の夜。またもやDCです。夕方到着して、シーフードのディナーを食べて、今、帰ってきました。A男は、先日加入した、チャンネルがむやみやたらにいっぱいあるケーブルテレビで映画を観ています。

この2週間は、ずいぶんたくさんの人たちに会いました。特に、ランチミーティングが充実していて、ミーティング1割、おしゃべり9割で楽しい毎日でした。

先週の水曜日は、Museのホームページを見て、メールマガジンを購読し始めたY子さんが来ました。Y子さんとは、その前に、一度別の用事で会ったのですが、その時の印象がよくて、muse new yorkの広告営業を手伝って欲しいとお願いしたのです。彼女の方も快く引き受けてくれ、その説明で会った次第。ちなみに彼女の夫はインド人。日本で出会った彼とともに1年ほど前に渡米し、こちらで結婚式をあげたそうです。以前、ペプシのおばさんの記事で紹介した、ピッツバーグにあるヒンズー寺院です。

今週の火曜日は、フォトグラファーのM美さんと、最近お気に入りのフレンチビストロでランチ。カーネギーホールの近くにある「Rue 57」という店です。パリの街角を彷彿とさせる店構えにもかかわらず、随所に「ジャパネスク」が薫っており、桜の花や、仏像が配されています。カウンターには、ピーナッツのかわりに枝豆。メニューには寿司もあります。銀だらの味噌焼きもあり、これが非常においしいのです。

M美さんとは、劇的な出会いをしたにもかかわらず、数年前に出会って以来、お会いするのはこれで3度目。彼女との話は、以下で紹介します。

水曜日は、先日紹介した、ユニオンスクエアのレストラン「チカマ」でランチ。お会いしたライターのS子さんは、muse new yorkを見て、記事を書きたいと連絡をくれた女性で、2年ほどの付き合いです。muse new york の広告営業も、少しですが手伝ってくれています。彼女は、日本人の夫と二人の子供と、イーストビレッジに住んでいます。

木曜日は、エステティックサロン経営のSさんと、日本食のランチ。奮発して「京の四季」という懐石料理を食べようと思ったのですが、時間がおそかったため品切れで、天ぷら定食でした。豆腐でできた抹茶アイスのあずきがけで締めくくりました。Sさんとは相変わらず仕事の話はそこそこに、雑談で盛り上がります。この日は「ニューヨークの幽霊」の話題が出ました。ニューヨークには幽霊がよく出るのです。古い建物が多いこと、それにアーティストなど、非常に「あくの強い」人たちが多く集まるせいか、すんなりと成仏できない霊が多いようです。この話もまた改めてゆっくり書きたいと思います。

そのほかにも、打ち合わせのたびに、いろいろな出来事が発生するので、書きたいエピソードが尽きません。おまけに今週は、ミッドタウンの卸売り店が並ぶエリアでショッピングをしたり、やはりミッドタウンの5番街と6番街の間にある「宝石店街」を物色したりして、ユニークな出来事にも遭遇したので、いつか書くとします。

さて、今回の、最初の2本は、すでに先週の月曜日に書いていたのですが、発行しないままだったので、まとめて送ります。

 

●ちょっとした「自慢話」:バンジージャンプ編

先日、日本語テレビ放送を見ていたときのこと。見知らぬお笑いタレントが、自慢げに「おれ、バンジージャンプをやったんですよ」といい、周りの人々は、「おおー」と賛嘆の声をあげていた。

ふふん。私も負けずに言わせていただく。

「私、本場、ニュージーランドのクイーンズタウンで、バンジージャンプをやったんですよ!」と。

そう、あれはおよそ10年前、私が会社勤めの編集者だったころ。あるとき、男性フォトグラファーUさんと女性ライターMさんと3人で、ニュージーランドをドライブ取材していた。バンジージャンプは、記事で紹介しようと思っていたから、取材予定の前日、下見に行くことになった。

橋の上から轟々と流れる川に向かってジャンプする人々。Mさんも私も、肩をすくめるようにして、「うわー、あんなことする人の気が知れないね」などと言いながら、その日は周囲を見学して去った。

さて、翌日。実際に体験した人にコメントを聞いたり、写真を撮影したりの取材を終えて、引き上げる間際になってカメラマンが私に言った。

「ねえ、坂田さん、やってみない?」

「え〜、いやだよ。Uさん、やれば?」

「坂田さんがやるんだったら、僕もやる。このチャンスを逃したら、もう一生、バンジージャンプをする機会なんてないかもよ。それに……日本に帰ったら、自慢できるよ」

『日本に帰ったら、自慢できるよ』

彼のその一言が私の心をつかんだ。確かに、こんな経験をする人はそんなにたくさんいないから、お茶の間の話題提供にもなるだろう。確かに自慢できる。ちょっとばかり躊躇したものの、やってみることにした。

Mさんは、「信じられない、私はこんなバカなことは絶対にしない」と呆れ返っている。Mさんは、私よりも年上で大人だったから、ちゃんと分別があったのだ。

二人して受付に行き、何やら資料にサインする。ろくに英語が読めなかったから、なすがままにサインしたが、あとから思えばあれは、「バンジージャンプで何かが起こっても、こちらは一切責任を取りません」という主旨の契約書だった。バンジージャンプで怪我をしても、多分、保険も下りなかったと思う。

「私、先にやります」

怖いことを先延ばしにするのがいやで、Uさんをさしおいて橋のなかばへ進む。橋の高さは43メートル。渓谷の底に深緑の川が流れている。心なしか、川の流れが先ほどよりも速く感じる。

スタッフから、足にタオルを巻かれ、その上から伸縮性のあるロープできつく縛られる。すでに胸の鼓動は高く速い。前の人たちが、次々に絶叫しながら、川に向けて落下していく。橋の欄干まで行って、どうしても飛べずに諦め引き返す女性もいる。そして私の番。

足の自由が利かないから、両腕をスタッフに支えられ、橋の欄干に設置された飛び込み台のような所に導かれる。恐る恐る下を見て、私は足がすくんだ。高い、高すぎる。川面が、遠い!!! 鼓動が更に速くなる。息が苦しい。あ〜、バカバカ! なんでわざわざこんな怖い体験をするわけ?!

「あ〜、やっぱりできない!」 

そんな私に、スタッフの一人が言う。

「さあ、深呼吸して。君は鳥になるんだから。1、2、3、でジャンプだよ」

そんなこと言われても、私は鳥じゃない。

「1、2、3!」と周囲の声が聞こえるけれど、何だか耳鳴りがするようで、身体が硬直して動かない。

せっかくここまで来たんだし、他の人もやってるし、お金ももう払っちゃったし、日本でも自慢できる。がんばれ、美穂! と自分にいいきかせる。

2回目の「1、2、3!」で、私は飛んだ。怖かったのは、飛ぶ直前まで。足が台から離れた瞬間に、恐怖は消えた。ボヨーン、ボヨーンと宙で揺られながら、「私、何ばかなことやってるんだろう」と自問していた。

その時は、なんだか頭が混乱していたが、今思えば、飛んでいる最中は爽快感があって、気分のいいものだったかもしれない。ただ、直前の恐怖心があまりに大き過ぎて、それもかき消されてしまうのだが……。

川で待機しているボートに拾われて、ロープをほどいてもらい、先に終わった私は、駆け足で橋まで戻り、今まさに恐怖におののいているUさんに向かって、余裕の笑顔で手を振る。尤も、彼は極度の緊張で、私など眼中に入っていなかったであろう。

帰国して会社の人たちに早速報告する。社長は、

「えーっ、坂田君、勇気あるなあ! すごいなあ!」と誉めてくれたのだが、直属の上司は怒っていた。

「なんでそんな危ないことしたんだ。もしも君に何かあったら、どうするつもりだったんだ!」と。

確かに、今から思えば、無謀だった。最年少とはいえ私が編集者で、カメラマンやライターの人たちに「仕事を依頼する」立場だから、責任も重いのである。もしも心臓麻痺なんか起こしてたら、取材どころではなくなり、月刊誌の発行にも影響が出る。確かに、上司が怒るのも、今となればよくわかるというものだ。

でも、あのころの私は、それほど思慮深くはなかった。突っ走っていた。だからこうして10年たったいまでも、自慢できるネタを温存しているわけで、全然、懲りていないのである。

 

●アメリカでの結婚手続きと名前について

結婚式はインドで挙げることにはしたものの、書類上の結婚は、今後のことを考え、ひとまずインドに行く前にアメリカでやることにした。ところがこれが、意外に面倒なのだ。日本のように「戸籍」というシステムはないから、「婚姻届を提出して、入籍」という単純な作業ではすまされないのである。

アメリカの結婚は、まず「結婚許可証」(マリッジ・ライセンス)を取得し、その後、結婚式を行う。その際、 教会の神父や牧師、あるいは資格のある司式者のもとで宣誓を行い、「結婚許可証」に署名をもらい、それを役所に提出する必要がある。最終的に「結婚許可証」のコピーを受け取って完了、となるのだ。

州によっては血液検査が必要なところや、結婚式の際に立会人(Witness)が必要なところもある。「結婚許可証」を受け取るのも、「平日、二人一緒に」という条件があるから、1日会社を休まなければならない。さらに、ニューヨークの場合は、「結婚許可証」を受け取って24時間たってからでなければ結婚式ができず、しかも立会人が必要だからそれだけでもスケジュールの調整が面倒だ。ワシントンDCは、血液検査が必要だから、それもまた厄介である。

DCに隣接した、私たちの住まいがあるヴァージニア州が、血液検査も立会人も不要だとわかり、現在、有力候補にあがっている。

更には、日本にも結婚したことを申請しなければならないから、領事館などに行く必要があるだろう。日本は夫婦別姓ができないはずだが、この場合、どうなるのか。調べなければならないことが次々と出てくる。

それより何より、自分の名前をどうするかも考えなければならない。私は「坂田美穂」を変えないつもりだったのだが、A男は「変えるのが当たり前」と思いがけないところで自己主張する。ここでまた口論が始まる。

「美穂のお母さんもおばあさんも、妹も、それに僕のお母さんもおばあさんも姉さんも、みんな夫の名前に変えているのに、なんで美穂だけ変えないわけ? ヒラリーだって、ヒラリー・ロッダムからヒラリー・ロッダム・クリントンに変えてるじゃない」

そういう問題ではないのだ。はっきり言おう。

A男のラストネームが、なんだか変だからいやなのだ。この際だから書いてしまうが、A男の名前はアーヴァンド・マルハン(ARVIND MALHAN)という。数名の読者がご指摘のメールをくださった通り、muse new yorkの創刊準備号「私の母、私のふるさと」に登場している彼がA男である。

私にとって「マルハン」って名前は、なんだか、変、なのである。妙に日本語っぽい響きが中途半端なのだ。なにしろマルハンと入力すると「丸半」と変換されるし。○の中に半と書くと商家の屋号みたいだし……。

いっそ、「マルハーン」と、音引きが入ると「チンギス・ハーン」みたいで格好いいのだが、「ハーン」とのばしてはならないらしい。こんなことにこだわる私が悪いのはわかっている。気に入った名前なら変えてもいいというのは、なんとも身勝手な主張ではある。しかし、それが本音だから仕方ない。

「マルハンってかっこ悪いから、変えたくないの」と、正直に告げると、A男は、

「何言ってるの? 僕の名前なんか、日本人に発音しやすいから、まだましだよ。僕の姉さんのラストネームなんて、ヴァラダラジャン(VARADARAJAN)だよ、ヴァラダラジャン! 

それに……友達のK男はスリニヴァサン(SRINIVASAN)だよ。南インド出身だと、ラストネームが長いんだよ。マルハンはシンプルだし、いいじゃない」

「ミホ・ヴァラダラジャン」「ミホ・スリニヴァサン」……。まるで呪文の一種のようで、人の名前かどうかも、判別しがたい響きである。これでは一生かけても、自分の名前を正確に発音できそうにない。確かにA男の言う通り、マルハンの方がましである。第一、アメリカでは何かにつけて、自分の名前を「スペリング(スペル)」で説明する機会が多いから、いちいち、「ヴィ・エイ・アール・エイ……」と一文字ずつ読み上げるだけでも面倒そうである。

私はいまだに、A男の名前すら正しく発音できないのだ。日本人が苦手とするRとVがくっついているのが致命傷だ。普段は見逃してくれる彼も、喧嘩しているときなどに、「何、その発音。僕の名前はそんなんじゃない! ボーイフレンドの名前すらまともに発音できないなんて。発音の練習しろ!」と反撃に出られるので、そんな時は「ハニー」と呼ぶ。

腹が立っても「ハニー!」。喧嘩しても「ハニー!」。そんな時のハニーは、「ニ」の部分に力がこもる。……くだらないことを書いてしまった。

そういうわけで、今の私は、さまざまな懸案事項を抱えている状態なのである。好き嫌いで名前を決めるなんて……言われるかもしれないけれど、これから先の人生、その名前と付き合うわけだから、気軽に変えるわけにはいかないのだ。ヒラリー風に、坂田美穂にマルハンをプラスする形が最有力だろう。もう少し、考えよう。

 

●国際結婚と日本における「外国人」の立場

はじめてM美さんとお会いしたのは、3年ほど前のこと。会社を興して間もない私を、とある出版物に紹介したいと言うことで、日本から編集者がインタビューにやってきた。そのとき同行していたフォトグラファーが、ニューヨーク在住のM美さんだった。

ちょうどお昼どきだったので、インタビューの前に、「デリバリーを頼みましょうか?」と提案し、イタリアンレストランに出前を頼んだ。編集者がテープで会話を録音しながら、インタビューをする。その間、M美さんは写真を撮る。

約1時間ほどの撮影を終え、届いたイタリアンをテーブルに広げ、ランチを取る。その間もテープは回っている。会話の途中で、私が

「私の出身大学は無名だから、東京での就職活動の時は苦労しました。いい環境の大学だったんですけど、なにしろ、大学名を知っている人に会うことも稀ですから……。下関にある梅光女学院大学って言うんですけどね」

その瞬間、それまで黙っていたM美さん、イスから立ち上がって、「エーッ!!!」と叫び声を上げた。

そして次の瞬間「私も、私も!」という。

えっ? 私もって、M美さん、梅光出身なの?

それからしばらく大騒ぎである。なにしろ、彼女も私も、卒業以来、同じ大学の卒業生に偶然出会うなど初めてのことだったのだ。しかもここはニューヨーク。それは、砂浜で真珠を見つけるが如くに、稀有なことなのである。

その後、編集者と電話で話した際、彼女は言った。

「坂田さん。あの録音させてもらったテープ、梅光の話が出た瞬間、ものすごい音量で、もう、すごかったです……」とのこと。

彼女は日本文学科の大学院を卒業後、山口県で小学校の教師をし、その後、渡米、フランス人の夫と結婚。二人の子供と4人家族だ。夫は、muse new yorkの「私の母、私のふるさと」にも登場してくれている。

久しぶりに会ったこともあり、話は大いに盛り上がり、周辺のニューヨーカーもひいてしまうくらい大きな声で、二人しゃべりまくる。大学時代のこと、教育問題、こちらでの仕事や生活についてなど、話題はつきない。

彼女にしても、冒頭で紹介したS子さんやSさんにしても、子供がいるから、私が知り得ない子供の世界を通してのアメリカを知っていて、とても興味深い。なにしろ、アメリカの学校は両親が参加する機会が多いから、仕事を持つ女性は両立に四苦八苦している。

M美さんに、懸案だった結婚後の名前に聞いて尋ねたところ、彼女は変えなかったとのこと。アメリカでの結婚は名前を変えても変えなくても差し支えないが、日本では夫婦別姓は認められていないはず。ところが伴侶が外国人なら変えなくてもいいらしいのだ。しかしながら、戸籍を見ると、驚くことに、M美さんが世帯主となり、そのあとに子供の名前が続き、夫の名前は、「欄外」に記されていたという。

これは10年以上前のことなので、今はどうなのか、わからないが、それにしても欄外とは驚く限りである。以前から何度か書きつつ取り上げないままできている「日本での国際結婚」の問題についても、あれこれと調べてみたくなった一件である。私の日本に住む友人の在日コリアンのS江さんも、アメリカ人の夫と結婚するとき、ビザなどの問題でとてもたいへんそうだった。

彼女が参加している「国際結婚を考える会」の出版物を読んでいるだけでも、驚かされることが多い。また、改めてきちんと取り上げて紹介したいと思う。

話は変わるが先日、朝日新聞のウェブサイトでこのような記事を発見し、愕然とした。タイトルに

『「混血ザルは安楽死を」日本霊長類学会が要望書提出』とある。

和歌山県でニホンザルとタイワンザルとの混血ザルが見つかったことに関して、日本霊長類学会が同県に対し、タイワンザルや混血ザルを捕獲して安楽死させることを求める要望書を提出した、というのだ。

要望書は「タイワンザルとニホンザルとの雑種化は、数十万年かけて確立した日本の固有種ニホンザルの存続を脅かす」としたうえで「捕獲に速やかに着手することを要望する」と記されているという。

そもそも、病気を持っているとか、人に危害を及ぼすとか、農作物を食い荒らすとか、何らかの悪影響を与えているのであれば、このような意見が出てきても不思議はない。しかし、ただ混血だと言うだけで、なんで殺されなければならないのか。「安楽死」という言葉は優しげだが、単に「殺せ」といっているのだ。第一、ニホンザルの純血を守ることに、どれほどの意義があるのか。もしも守りたいなら、他を殺すのではなく、ニホンザルのサンクチュアリでも作ればいいのだ。全然、訳がわからない。

これは島国の恐るべき閉鎖性を露呈した話ではないか。だいたい、霊長類といえば、ヒトも含まれる。人間にだって簡単に結びつけられる話である。このニュースに反論する人が多数出てくるだろうと予想していたが、それ以降、なんの音沙汰もないのが、むしろ不思議なくらいだ。

このような発想が、サルばかりか人間にも及んでいるような気がするのは、考えすぎだろうか。

日本でフリーランスのライター・編集者をしていたころ、上述のS江さんと、4カ国語情報誌を編集していた時期があった。『We're』という冊子で、そもそも、彼女と彼女のお姉さんが、新宿・新大久保のオフィスを拠点に創刊したものだった。

彼女のお姉さんは、第百回芥川賞を受賞した李良枝さんである。『We're』の創刊直後、突然の病で彼女は急逝し、その後、私が編集を手伝うことになった。休刊になるまでのわずか1年ほどの間、私は新大久保のオフィスに通いながら、日本に住む外国人、特に白人以外の人たちが直面している、さまざまな現実に驚かされることが多かった。

いつか、『We're』時代のことも、きちんと思い出して書きたいと思う。


Back