ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 35 4/1/2001

 


3月も今日で終わり。今は土曜の夕方、ワシントンDCに来ています。月曜にニューヨークに戻り、1週間の仕事を終えて、また昨日の夜、こちらに来たのです。来週は1週間、ずっとDCで仕事をします。

先ほど、「桜祭り」に行って来ました。DCで毎年、桜の季節に開催されるイベントで、今年は3月25日から4月8日まで、毎日さまざまな催しが行われています。特に今日は、盛大なパレードに加え、日本の露店が並ぶストリートフェアも開かれるとあって、最も人手が多い一日だったようです。しかしながら、空は厚い雲が垂れ込めていて、今ひとつの天気です。

私とA男は、muse new yorkをひとかかえ、300冊ほど持って、ストリートフェアに行き、日本人を見つけては配ってきました。DCでも愛読者を増やしたいと思い、地道な活動です。

読売新聞や朝日新聞の人たちは、きちんとブースを設けて配布していて、わざわざニューヨークオフィスから来た人たちも多く、知り合いにも会いました。こちらでは、衛星版を定期購読できるので、日本のニュースはインターネットだけでなく新聞からでもタイムリーに入手できます。

さて、配布を終え、太鼓や琴のデモンストレーションを見て、たこやきやお好み焼き、おでん、たいやきなどを食べたあと、桜並木のあるタイダル・ベイスン(池)まで歩きましたが、桜はまだ、つぼみでした。来週の中頃から週末にかけてが見頃のようです。

来週末、天気がよければ、おにぎりでも持って、また来ようと思います。

 

●人事異動の季節 行く人、来る人

日本の人事異動の季節は、ニューヨークの日系社会の人事異動の季節でもある。月曜の夜は、クライアントのY氏のお別れ会が開かれた。彼は2年間の赴任生活を終え、まもなく日本へ帰国する。コリア・タウンの焼き肉屋で、飲んで食べて騒いで、会も終盤になったころ、クライアントの別の男性、A氏が、「実は、私も、帰国することになりまして……」と言う。

ひととき、座が静まりかえる。

駐在員の場合、勤務も3年を過ぎれば、いつ帰国命令が出てもおかしくないのだが、それでも、今年はもう帰国することはないだろうという状況の中で、突然辞令がおりた様子だったから、私を含め、周囲の人たちは、とても驚く。ましてやA氏とは、ここ数年、そのクライアントの社員の中でも、一番、密接に仕事をさせてもらっていたから、尚更である。

駐在員は、その会社に勤め続ける以上、いつかは日本へ帰らなければいけない。ずっとこちらにいては、浦島太郎になってしまい、帰国後の社内的な立場も確立しにくくなるだろう。私のように大企業に属したことのない人間にとって、その感覚は想像でしかわからないが、深いジレンマがあるに違いない。

ニューヨークで暮らしていると、日本の職場以上に人の移り変わりが激しい。駐在員は当然、一定のサイクルで帰国するし、現地採用で働いている人たちも、就労ビザの関係などで会社を変わったり、帰国を余儀なくされたりする。ここ5年間の間にも、たくさんの人たちが去り、たくさんの人たちが現れた。

水曜日は、以前、英語学校で知り合った駐在員妻のK子さんが、3月30日に、帰国すると言うことでお別れ会。昼間、仕事の合間を見計らって、小さなパーティーに顔を出した。彼女の夫が勤める銀行は、確か明日付けで他行と合併する。パーティーには、彼女の夫の同僚夫人が二人来ていたが、彼女らの方が先にこちらに来ていたにも関わらず、K子さん夫妻が先に帰任することになった。

「3週間前に辞令がおりて、勤務先が決まったのは、1週間前。築25年の社宅に引っ越すことになるの。広いには広いけど、古そうでいやだわ」

人それぞれ、問題はあるようだ。

ニューヨークを去る人たちの新しい生活が、順調にスタートすることを祈りたい。

 

●キャラメル・マッキャート、遅ればせながらトライ

日本でも、すっかりおなじみのスターバックス(コーヒーショップ)。私は、たいてい「本日のコーヒー」、もしくは「カプチーノ」、「カフェ・ラテ」の3種類のうちのいずれかを頼むのだが、先日、日本では「キャラメル・マッキャート」が流行っているらしいと聞いて、試してみることにした。

DC郊外、うちの近所のショッピングモールにあるスターバックスでのこと。キャラメル関連商品の店頭広告が目に入ったので、そうだ、試してみようと、キャラメル・マッキャートをオーダー。

恰幅のいい黒人のお兄さんが、マシンの前で、同僚と大声でおしゃべりしつつ、コーヒーを淹れている。

「君、キャラメル・マッキャートを飲むのは、今日が初めて?」

どうしてわかるのだろうと思いながらも「イエス」と答える。

「じゃあ、スペシャル・サービスしてあげよう」

キャラメル・マッキャートとは、カプチーノ(エスプレッソに泡立った熱いミルクを加えたもの)の、フワフワのミルクの上に、キャラメルソースを網の目のようにかけた飲み物だ。

なにがスペシャルなのだろうと見ていると、彼はキャラメルソースの網の目を、縦4本、横4本、さらに縦4本、横4本、縦4本、横4本、縦4本、横4本と、4往復も繰り返したのである。

「あああぁぁぁ、そんなにかけたら、甘すぎるぅぅぅ」

と、心は叫ぶが、言葉が出ない。

にこにこしながら、「はい、どうぞ! おいしいよ」と笑う彼。

「キャラメルが、どうぞ底の方に沈殿していますよう……」に、との願いもむなしく、しっかりとコーヒー全体に甘みが行き渡っており、それは頭痛を起こすほどの激しい甘さだった。砂糖小さじ20杯分、もしくはそれ以上という感じ。5口ほど飲んだが、どうにもたまらず、捨てた。もったいなかった。ただのカプチーノにしとけばよかった。

蘂G35 HTM 1=*ラe+9D蚓ag36i.htm蘂G36 HTM \ァ*マe+-蚓ag37ス.htm蘂G37 HTM *トe+A蚓ag38.htm蘂G38 HTM 恊*コe+H蚓ag39.htm蘂G39 HTM tb*ュe+テI蚓ag4.ウhtm蘂G4 HTM liy)z)蚓ag40s.htm蘂G40 HTM チr*ーe+X=蚓ag41o.htm蘂G41 HTM テ 。*「e+秀蚓ag42サ.htm蘂G42 HTM サァ*彳+.B蚓ag43キ.htm蘂G43 HTM jュ*脇+~1蚓ag44テ.htm蘂G44 HTM }ォエ*覇+瓸蚓ag45ソ.htm蘂G45 HTM ィカシ*親+%蚓ag46k.htm蘂G46 HTM 3慄*e+F蚓ag47ヌ.htm蘂G47 HTM 俘*テ+h蚓ag48.htm蘂G48 HTM 箘*|e+B蚓ag49.htm蘂G49 HTM ー +ve+rq蚓ag5.オhtm蘂G5 HTM /jy)z)(蚓ag50u.htm蘂G50 HTM ス&+qe+s;蚓ag51ケ.htm蘂G51 HTM シ(+le+ヲ\蚓ag53チ.htm蘂G53 HTM o0+Ze+ロh蚓ag54ナ.htm蘂G54 HTM &~6+Ve+?蚓ag55B-1.htm蘂G55-1 HTM ケmU+Je+ヤj蚓ag55-2.htm蘂G55-2 HTM 蚓ag60o.htm蘂G60 HTM ox~+)e+oW蚓ag61サ.htm蘂G61 HTM 哩+e+ェV蚓ag62キ.htm蘂G62 HTM H]+e+タ;蚓ag63テ.htm蘂G63 HTM 瀦+ル燈+?蚓ag7.yhtmて、過剰なカロリーを摂取するなかれ。骨が溶ける。

去年、日本から来た編集者が、たまたま「シナボーン」のアメリカ人社員と話す機会があったらしいが、本人からして「あんなもん、食べるもんじゃない」と言っていたらしい。あくまで人づてだから定かではないが……。「シナボーン」は、郊外のドライブインなどで見かけるが、マンハッタンでは今のところ1軒しか見たことがない。あれは、いけない。

 

●猛烈な日本人おばさん軍団に遭遇。度肝を抜かれる

私も年々、年を取る。だから、自戒の意味を込めて書く。世の多くの「おばさん」の、何ともたくましく、そして厚かましいことか。

先日、風が冷たかったある日、あったかいチャンポンでも食べようと、日本食レストランへ行った。まだ12時少し前の店内は、団体旅行で来たらしいおばさんたちでぎっしり。ズルズルと麺をすする音が店内に響きわたっている。

欧米のレストランでは、会計はテーブルで済ませ、チップをテーブルに残して去るのが常識で、旅行のガイドブックなどにも必ず注意事項として掲載されている。ツアーであれば、コーディネーターが教えるだろうし、そうでなくても、だいたい皆、常識として知っているのではないだろうか。

ところが、そのおばさん軍団に、コーディネーターの姿は見あたらず、食べ終わった人から列を作り、レジの前に並び始め、それぞれ個別に支払いを始めた。日本食レストランだから、それもありなのかもしれないが、なにしろそのおばさんたちが、他のお客の存在を全く無視して騒がしい。

私をはじめ、他の客が食べているテーブルの傍らにズラリと並び、大声で会話。日本人ではないアジア系の店員をつかまえて、日本語で「しょうゆラーメンはいくら?」「とんこつはいくら?」と大声で尋ねる。会計担当の女性が何度も「私に支払ってください」と言っているのに、別のウエイトレスに「これ、ラーメン1杯分。ちょうどだから」といって現金を押しつけて帰ろうとする。

30人ほどのお客が、一人一人の勘定だから、お店としても並んで支払ってもらった方が、もはやよかったのかもしれないが、テーブルには1セントのチップも残されていない。あとを片づけるウエイター、ウエイトレスは、チップが大切な収入源なのだが、そんなことは知る術もなさそうだ。

以前、A男と、イタリアのフィレンツェにある「ウフィッツィ美術館」に行ったときのこと。私たちがトイレに入ったとき、日本人のツアー客が一斉にトイレにやってきた。案の定、女性トイレの前にはズラリと列ができる。

すると一人のおばさんが言った、「コーディネーターさんが、男性のトイレを使っていいって言ってたから、あっちに行きましょう」

あまりことに、私は引き留めようと声をかけようとしたのだが、そんなときのおばさんたちの行動は非常に素早い。何人かのおばさんが、どやどやと男性用トイレに駆け込んでいった。

ほどなくしてトイレから出てきたA男は、驚愕の表情。

「ミホ! 信じられないよ! 僕が用を足してたら、日本人の女性がいっぱい、トイレに入ってきたんだよ。ほかの男性もびっくりしてたよ」

びっくりして当たり前だ。たとえばそこが、誰もいないガランとした場所であれば別だけれど、世界中から観光客が集まり、常に込み合っている場所なのだ。男性トイレには、常に用を足している人がいるのだ。

それをさせるコーディネーターにも問題があるが、そもそも、トイレ時間もゆっくりとれないほど詰め込んだスケジュールの旅行を販売することに問題があると思う。更には、著しくデリカシーのない行動をとるおばさま方にも、大いに問題がある。

日本人ツアー客の「旅の恥はかきすて」の話は、本当によく聞くし、よく目にする。あまり、人のことをあげつらうようなことを書くのは本意ではないが、そこそこのマナーは身につけておくべきではないか。

 

●自分の中との「欲望」と、どう付き合っていけばいいのだろう

先日、寝る前に、A男と電話で話をしていたときのこと。何かの話から、一度、「とても幸せ」な状況を味わうと、それ以前の幸せは二番目以降になり、人は幸せの度合いを測るようになってしまうというようなことを話していた。

「一度、おいしいトロを食べたら、赤みのマグロだけじゃ満足できないよね」

「広い家に住んでたら、狭いところに引っ越すのがいやになるよね」

「カシミアの軽くて暖かいコートを着慣れたら、重たいウールのコートは着たくないかもね」

「ポストハウス(NYのステーキ屋)の柔らかくておいしいエイジド・ビーフのプライムリブを食べたら、ダイナーのステーキは食べたくないよね」

「フワフワの羽布団で寝てるのを、薄いブランケットに変えるのはいやだよね」

そんなくだらない例を挙げて、話し続けていたところ、ふと、A男がいう。

「これって、とても窮屈だね。何だか目に見えないプリズン(牢獄)に閉じこめられて行くみたい」

寝ぼけていた頭が、ふっと覚醒した。

「僕は仕事をがんばってるし、今までだって人一倍、がんばってきたと思う。でも、がんばろうとすればするほど、ストレスが溜まるんだ。うまく行かないことを考えて、不安になる。上を上を目指しているのに、それが窮屈になって心が圧迫されるのは、いったいどういうことだと思う? 仏陀はDesire(欲望)を捨てよと言ったけれど……。ミホはどう思う」

いや、いきなり仏陀と言われても……。

A男は、学歴や職歴を取り上げて言うならば、多分、世界的に通用するエリートだ。彼の頭脳の優秀さ、そしてそれを磨き続けている努力と熱意は、私にはとても及ばない。しかしながら、そのシャープな頭脳とは裏腹に、精神はひどく純粋で素朴な構造のようで、彼と話をしていてハッとさせられることは少なくない。

こんな風に、物があふれている世の中で、たくさんの情報の渦に巻き込まれながら、少なくとも先進国に暮らす人々は生きている。今だって、多分、幸せなのに、上を見るから、何かを渇望するから、つねに乾きを癒そうと、新たな物を求める。

そんなすべてを、「別に失っても、それはそれでいいのだ」と、いかにもしなやかに生きていければいいだろうけれど、失ってもじたばたしないなんて、よほど「徳」のある人でもない限り、できることではないだろう。

こんなことを思うたび、私はモンゴルのことを思い出す。

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チンギス・ハーンの息子であるオゴタイ・ハーンのことばを借りていうならば「永遠なるものとはなにか、それは人間の記憶である」。彼はまた「財宝がなんであろう。金銭がなんであるか。この世にあるものはすべて過ぎ行く。この世はすべて空(くう)だ」ともいった。モンゴルを訪れるまえに、ある書物でこのことばを目にしたとき、「極まってるな〜」と、無責任に感心したが、自分がいざ、この大地に足を踏み入れ、果てなく広がる青空に抱かれてみると、彼のことばが本当に、真実として伝わってくる。そんな遊牧の思想も、時代とともに変遷してゆくのだろうか。

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また、私は直接被災したわけでもないのに、阪神大震災は、さまざまなことを考えさせられる大きな出来事として、記憶に刻まれてる。形あるものは、壊れる。目に見える物は、なくなる可能性がある。

5年前、日本からアメリカへ来たとき、たくさんのものを「捨てて」来たつもりだった。それは、物であったり、人との関わりだったり、自分の中のこだわりだったりした。しかし、捨ててきた筈なのに、日々の暮らしの中での「贅肉」は、みるみるうちに、私を取り囲む。

失いたくない物、求める物が増えるにつけて、「囚われて」ゆくのはなぜだろう。その一方で、「向上心はよいこと」として、頭の中に刷り込まれている。「肩肘を張るな」「リラックスしろ」などと、言うはたやすいが、肩肘を張らざるを得ず、リラックスできずにいる人たちは、私を含め、きっとたくさんいるだろう。

ただ、最近、心がけているのは、「無駄な情報は無視しろ」ということ。日本にいるころは、何かと「余計な情報」に振り回されて、大切な時間を浪費していたように思う。最近、日本の雑誌などを読むにつけ、その「余計な情報」の多さにも愕然とさせられる。なにを「余計」に思うかは、個々人の価値観によるが、「知っていて当然、知っていなければならない」というニュアンスを漂わせた、どうでもいい話が多いように思うのだ。

インターネットもそうだ。コンピュータに向かって、ウェブ・サーフィンをして、瞬く間に時間が過ぎて、あとに何も残らない。「それもまた楽し」と考える人も多いのだろうが、私はそれを避けたい。その分、ぐっすりと眠った方がいい。

こちらに住んでいれば、英語がすんなり入ってこないことが幸いして、余計な情報が入らないのは、むしろいいことなのかもしれない。テレビもあまり見ないし、大して気の合わない人と付き合いで食事をすることもない。会いたい人と会い、話したい人と話して、自分の時間を持つ。

そういう生活の方が、「人間関係の軋轢(あつれき)」が緩和されて、人の悪口を言ったり、人の言動に一喜一憂するようなことも少なくなり、精神衛生上、私にとっては、とてもいいのだ。

なんだか、話が漠然とあちこちに飛んでしまったが、「欲望」は、捨てられたもんじゃない。したいこと、ほしいものはたくさんある。そのことで、自分の首をしめないように、心が「不満」に包まれないように、ささやかな一日にも「感謝」の心でいられるように、心がけたいものである。

なんだか、相変わらず善人めいた文章になってしまったが、こんなことを思う、花曇りの春のひととき、である。


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