ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 21 12/11/2000

 


12月9日土曜日。今、ワシントンDCオフィスにいます。昨日の午後、ニューヨークを出てこちらに来ました。昨日は、ジョン・レノンが亡くなって20年目の命日でした。彼の死を悼むかのように、朝からしんしんと雪が降り、静かな一日でした。記念碑があるセントラルパークの「ストロベリー・フィールズ」には、世界各地から大勢のファンが駆けつけ、献花していたようです。

 

●ジョン・レノン没後20周年に日本から駆けつけた知人のこと。

インターネットによって「新しい出会いの形」が誕生している。例えばこのメールマガジンの読者の方々との出会いもそうだし、ネットサーフィンをしていて、私のホームページを偶然見つけた人との出会いもそうだ。

私の会社をホームページで知り、長崎県佐世保市に住む女性(仮に山田さんとしておこう)が、先日弊社を訪れた。前号のジョージさんに続き、偶然にも佐世保の人である。ニューヨークで仕事を始めて以来、さまざまな「見知らぬ人たち」が訪ねてくるようになった。それは日本に暮らす友人の友人だったり、ホームページやメールマガジンの読者だったりとさまざまだ。「袖振り合うも多生の縁」と思い、これまでいろいろな方にお会いした。

山田さんは熱狂的なジョン・レノンのファンで、これまで数回、イギリスのリバプールにも行っているし、ニューヨークも初めてではない。ニューヨークに到着したら、まず最初にストロベリー・フィールズへ行って献花するのだという。今回は、12月8日、ジョン・レノン没後20周年のセレモニーに参加するため、ニューヨークにやって来た。

約束の12時ちょうどに、彼女は福砂屋のカステラを持ってオフィスのドアを叩いた。簡単に互いの自己紹介をしたあと、私のセカンドオフィスである「ハドソン・ホテル」でランチを取ることにする。

オフィスからホテルまではわずか2ブロックだが、その途中に「ルーズベルト病院」というのがある。そこを指さして彼女が言う。

「ここ、ジョン・レノンが亡くなった病院なんですよね」

「あ、そうだったの。全然知らなかった」と私。

山田さんと私は同世代。長崎の学校を卒業した後、彼女は東京に出て中堅の印刷会社で10年近く働いていたという。現在は佐世保に戻り、フリーランスのライターなどの仕事をしている。

東京で同じ時期、同じ業界の仕事をしていたということで、互いに九州弁を織り交ぜながら、話は異様に盛り上がる。私もニューヨークに来て以来、日本で社会人経験をした同業者と出会う機会は少ないから、妙に懐かしい。

彼女の話を聞いていて、本当に日本人は完璧な仕事をこなしていると痛感する。私は、アメリカの印刷所に精通しているわけではないので、一概には言えないが、少なくともニューヨーク郊外にある中小の印刷工場には、紙の保管場所に空調設備がない。日本のように湿気がないからいいけれど、それでも寒い季節は紙に影響がでる。冷え切った保管場所から暖かい印刷室に運ばれてくると、急激な温度差で紙が若干ふやけてサイズが微妙に変わるのだ。

日本の場合、印刷所の規模にもよるだろうが、空調設備が整っており、紙の管理にもぬかりがない。山田さんによれば、それでも梅雨の時期は紙が微妙にふやけてのびるため、「のびた分の誤差」を、その時の湿気と紙の質に照らし合わせて、現場のスタッフが「勘」で調整して断裁するのだという。なんと格好いい職人芸であろうか。

「日本人って本当に、緻密で完璧な仕事をするものだ」と、彼女の話を聞いてつくづく思う。

入社したてのころ、彼女は会社の寮に住んでいたらしいのだが、ある日の真夜中、会社から召集がかかった。発行日を大々的に発表している人気作家の本の印刷を終え、製本作業に入る段になって、作家側のミスで一部を差し替えなければならなくなったとか。差し替えるページは用意できたものの、翌朝を待って作業するのでは発行に間に合わない。しかも、1枚だけを差し替える作業は機械にはできないから、人間が手作業するしかない。

召集された会議室に、寮生約50人が集合した。別の部署の人間ばかりだ。彼らの前で、普段は厳しい上司が「泣きながら」急遽、徹夜での作業を頼んだ。その上司の姿に、「ああ、彼もたいへんなんだな」と思い、皆、文句を言わず手伝ったという。彼女らは、広い会議室にずらりと並び、山と積まれた紙の束を前に、一枚ずつ、まるで機械のごとく黙々と差し替える作業を続け、翌朝には完成させた。

こんな話は、日本にはありがちだろうが、アメリカではあり得ない。まず第一に、発行予定日に遅れそうになっても、多分「間に合わなかった」の一言で終わる。だから、上司が泣きながら部下に仕事を頼むことすら、ありえないだろう。たとえ頼まれたとしても、部下は、他の部署の仕事を、自分の責任でもないのになんでやるの? ということになり、実を結ばないだろう。

アメリカでは「予定が延期される」ことは、珍しくない。だいたい、街のレストランやショップなど、開店予定日通りに開店する方が珍しいくらいで、工期は大幅に遅れて普通なのだ。予定日とは「努力目標」のようなもので、厳守されるものではない。

さて、山田さんはその後、東京時代のビートルズファンの友人たちと合流し、数日ニューヨーク滞在を楽しんで帰るのだとか。どの国でも、「ビートルズのファンだ」という共通項があれば、ドイツ人だろうがブラジル人だろうが、言葉の壁を超えて親近感を持ってつきあえるのが楽しいと言っていた。

ニューヨークでデザインやアウトプットの会社を経営している知人夫婦も、フェラーリのF1レーサー、シューマッハの大ファンで、F1観戦にとどまらず、彼ゆかりの地を巡る旅などもしている。先日もイタリアの、フェラーリの工場がある町へ出かけ、現地のシューマッハ・ファンと親交を深めて来たそうだ。

彼らのように、何かに熱中し「テーマ」を持って旅をするというのも、思いがけない出会いや体験がありそうで、とてもいいものだなと感じた。

 

●真珠湾攻撃の日に思うこと。

12月7日木曜日、仕事の帰りにロックフェラーセンターにある紀伊国屋に立ち寄った。あたりは巨大なクリスマスツリーを見ようと、大勢の観光客で賑わっている。私も観光客さながらに、ツリーをカメラにおさめた(写真はホームページに掲載しているので興味のある方はご覧ください)。

週末、DCへ行く途中の列車で読む本でも買おうと思い、文庫本のセクションに行く。雑誌コーナーとは違ってこちらは人が少なく、静かに本を選ぶことができる。ヘミングウェイの作品の前でしばし足を止める。年末、彼のゆかりの地であるキーウエストに行くので、かの地で読もうと数冊、手に取る。その他、普段は余り読まないアメリカ作家の小説を数冊選び、日本の文学コーナーへ。

山崎豊子の「二つの祖国」が目に飛び込んできた。シベリアに抑留されていた男性が日本の高度経済成長の一端を担うさまを描いた「不毛地帯」や、中国残留孤児を描き、NHKでテレビドラマ化された「大地の子」など、彼女の作品はいくつか読んでいたが、「二つの祖国」は、以前から気になっていたものの機を逃してきた。分厚い上中下巻をまとめて3冊手に取る。

ずっしりと本の重みを感じながら帰宅し、仕事を片づけた後、ソファーに腰掛け、今日、購入して来た本をテーブルに並べる。10冊ほどのなかから「二つの祖国(上)」を手に取り読み始める。ストーリーは「パールハーバー・アタック(真珠湾攻撃)」に始まる太平洋戦争開始のくだりから始まっている。日本時間の12月8日、つまりアメリカ時間の12月7日が真珠湾攻撃の日である。特に意識することなく、奇しくも12月7日にこの本を手に取った。

ちょうど先ほど、上巻を読み終えた。この物語は、アメリカに生まれアメリカ人として育った日系二世が、日米開戦により、アメリカと日本という二つの祖国の間で過酷な運命にさらされるさまを、描いている。中巻では原爆投下など戦中の描写を、下巻では東京裁判を軸にした敗戦後の日本が、日系二世の一男性のエピソードを通して描かれているようだ。彼女の他の作品同様、緻密な取材に基づき、限りなくノンフィクションに近い形で小説は展開されている。

明治、大正時代、数多くの貧しい日本人たちは、アメリカに新天地を求めて移民として旅立った(南米にも日系移民はたいへん多い)。しかしながら、夢とは裏腹に、待ち受けていた現実は過酷なものだった。身を粉にして荒れた大地を耕し、信じがたいほど残酷な人種差別と戦い、数々の不遇に見舞われながら、ひたすら働く毎日。もはや故国に帰ることもできず、苦労を重ね、ようやく自分たちの生活が落ち着いてきた頃、真珠湾攻撃を機に太平洋戦争が勃発。彼らは強制収容所での生活を余儀なくされる。

今の時代からは想像もつかない、残酷な時代。読み進める間、何度も泣けてくる。

歴史的な出来事を扱う書物を読むたびに思うのは、果たして私たちはどこまでの歴史を、どの程度認識していればいいのかということだ。1945年以来、明治から昭和に至る歴史の中で、日本の行いの多くは否定的に語られているように思う。一概に「正しい」「間違い」どちらか一方では語れないようなことですら、「敗戦国」であるがゆえに、間違いだったと言わざるを得ないのも事実だろう。

戦後50年以上たった今でさえ、国旗や国歌の問題で揺れ、愛国者は即ち右翼と見なされ、若い世代は、なぜそのような趨勢になってしまったのかを知る術もない。いまだ「アメリカに押しつけられた民主主義」という認識を覆すことができず、実現できない公約をだらだらと並べる政治家が、独自の民主主義を叫ぶ。さらに想像力のない政治家は、数々の失言を繰り返し、そのたびに周辺国の顰蹙をかう。

国民の支持率が過半数を大きく下回る男が総理大臣の椅子に座り、政治改革という茶番劇が展開され、血の通わない「革命」だとか「謀反」だとかいう言葉が乱舞する。体制を批判する人間は大勢いるのに、「俺がやってやろう」という人間が、出てこないし、出てこられる環境がない。それでも、民主主義である。

戦後、文部省が検定する社会科の教科書は、歴史を忠実に記していないとされ、歴史家の家永氏による「家永裁判」が起こった。後年、今度はその反動のように「従軍慰安婦問題」や「南京大虐殺事件」など「日本がしてきた残酷なこと」ばかりが次々と声高に取り沙汰される。

戦争を実体験してきた世代は、自己の価値観に基づいた歴史観で物事を見られるだろう。しかしながら、偏った教育を受けてきた後に、さらに振り子が大きく反対側へ振られるような、偏った情報を与えられた若い世代や子供たちはどうなるだろう。

今から6、7年ほど前、私がまだ日本にいた頃のことだ。ニュースステーションで終戦記念日の特集をやっていたのを見た。戦時中のアジア諸外国における日本の残虐行為を、講義などで見知った小学生の子供たちが、画面に映し出されていた。神妙な顔つきの彼らに向かい、久米宏氏が「君たちはどう思いましたか」と問う。一人の男の子が、「日本人は、他のアジアの国にひどいことをしてきたんだということがわかりました」と、優等生のような口調で答える。

その少年の言葉を受けて、「日本がきちんと謝罪するのは、君たちが大人になってからのことになるかもしれません」といった内容のことを、久米宏氏が言った。その一言が、今でもひっかかっている。

確かに、日本が行ってきた過去の行為を知ることは大切だ。では、なぜ、真珠湾を攻撃したのか、なぜ、大東亜共栄圏という構想が生まれたのか、欧米列強の植民地政策はなんだったのか、ABCD包囲陣や不平等条約とはなんだったのか……同時に知らなければ、情報のバランスがとれないことがあるはずなのだ。

私が社会人になって初めての海外取材は台湾だった。日清戦争後の下関条約により、台湾は日本になった。1895年から1945年までの50年間、台湾で生まれて死んだ人は、日本人として生まれ、日本人として死んだのである。教科書で習っただけではピンと来なかったが、実際に自分が彼の地を訪れると、身を以て歴史の断片が感じられた。

年輩の人は流暢な日本語をしゃべる。今では大半が取り壊されているが、10数年前の台北は、日本統治時代の建築物もまだ残っていた。西門町というところで、裸電球がぶら下がった薄暗い西門市場を訪れたときは、得体の知れない激しい郷愁がこみ上げて来て、鳥肌が立った。かつて日本人墓地があった場所はバラックになっており、日本人の墓碑銘が刻まれた墓石が、煉瓦よろしく小さく切られて、壁にはめ込まれていた。

マレーシアのボルネオ島に行ったときには、立ち寄ったレストランで親しくなった中国人華僑のオーナーから、大日本帝国時代の軍票を見せられた。軍票とは、戦地や占領地で、軍隊が通貨の代用として使用する手形のことだ。見た目は普通のお札と変わりない。彼らは笑顔で、それを私たち日本人に見せるのだ。

シンガポールに取材に行けば、そこが日本統治時代「昭南島」と呼ばれており、ラッフルズ・ホテルは「昭南旅館」と言われていたと知る。チャンギ国際空港の近くに、かつて捕虜の収容所があったことも教えられた。

日本にいた頃、在日コリアンの友人が多く、「ワンコリアフェスティバル」というイベントなども手伝っていたから、朝鮮半島の人たちが日本人によって受けてきた数々の語るに忍びない出来事も、少なからず知っている。豊臣秀吉のころからの朝鮮半島と日本との関係に始まり、日韓併合、35年間の占領時代と日本への強制連行、今日に至る在日コリアンに対する日本政府及び日本人の対応と認識についても、知る機会は多かった。

自分の目で、見て、感じて、私の振り子も大きく揺れた。そうして揺れたあと、今、現在の私にわかるのは、イエスもノーも、「正しい」も「間違い」も、一概に言えないということだ。

以前もオリンピックの記事を書いたときに触れたが、アメリカに暮らし始めるようになって、自分が日本人であることを意識せねばならない状況にしばしば出くわす。日本人としてどう思うか、日本についてどう思うか、聞かれる機会も少なくない。

国際化するというのは、異国に関する情報を得ることでは決してないと、最近、身を以て思う。たとえばこれからアメリカに留学しようと考える学生は、もちろん英語を勉強せねばならないだろう。同時に、アメリカ文化も勉強しておこうと書物に向かうかも知れない。それはそれで、大切な心がけだと思う。

しかしながら、アメリカ人が日本人に向かって尋ねるのは、アメリカの大統領の名前でも、インディアンの歴史でもない。「日本のこと」だ。

「なぜアメリカに来たのか?」と尋ねられて「日本がつまんないから」とか、「日本が嫌いだから」などと答える留学生をよく見かける。このように母国をないがしろに語る他国の人を、私は見たことがない。どんなに、貧困でも内戦があっても、子が親を選べないように、母国を選べない。そして親を嫌いだと公言する人は、あまりいない。

ずーっと日本の中で、海外との交流なくこれから生きていくのならば、別に日本をあえて知る必要もないだろう。しかしながら、これほど海外に出る人が多く、何かと言えば「グローバル」だとか「インターナショナル」を叫ぶ昨今である。

したり顔で「日本はひどい国だ」という子供たちがいるのは、どうしたって健全ではない。バランスのとれた教育、と一言で言うのはたやすいが、その実現は非常に難しいだろう。しかしながら、何をおいても「教育の現場」を整えることが大切に思う。そして、すがすがしい気持ちで仰げる国旗と、朗らかに歌える国歌があればと思うのだ。

アメリカに暮らすようになって、日本にいた頃は考えもしなかったことを思いつくようになった。そのうちの一つ、私なりの持論に「子供を持つ駐在員の妻が日本の未来を変える」というのがある。

英語を操り、二つ以上の国の価値観を体験する子供たちは、「グローバルでインターナショナル」な未来において、大きな力を発揮すると思われるのだ。彼らが日本に戻っていじめられたり、あるいは海外において挫折しないためには、母親の力が非常に大きいと思われる。しかしながら、母親自身が語学の問題や友人との交流で頭を痛め、精神的に参っている人が少なくない。

そもそも、muse new york は、「子供を持つ駐在員の妻が日本の未来を変える」というテーマを一つのコンセプトにして発行開始されたのだが、今ひとつ内容が間接的過ぎたので、来年は、muse new york を媒介にして、教育の問題にも触れていこうと考えている。

-------------------------------------------------------今日は、なんだかとても熱血してしまいましたが、時にはこんなテーマもいいだろうと思い、書きました。バラバラした内容になってしまいましたが、共通するテーマは「教育」です。

このようなテーマに興味のない読者も多いかと思いますが、一方、このメールマガジンの読者は年輩の方が多く、先輩方のご意見も聞けたらと思い、ちょっと書いてみました。しかしながら、書き始めると、簡単には語れないテーマだけに、散漫になってしまいました。

これからも、ときどき、このようなテーマについて、書いてみたいと思います。


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