坂田マルハン美穂のDC&NY通信

Vol. 136 5/23/2005 


●5年に一度の同窓会。A男と共に振り返る歳月
●古い手紙にみる、我が父、我が夫。
●人生いろいろ。核心まで15分。
●北京ダックと、リリーの祝福


目の前には積み重なる段ボール箱。机の上は散らかっていて、いかにも集中できない環境です。いよいよ6月中旬の引っ越しに向けて、荷造りをはじめました。

行き先は当初の予定通り、カリフォルニアのベイエリア、シリコンヴァレーです。そこに半年ほど暮らしてのち、うまくいけば「インド移住」に流れることでしょう。

何かと気ぜわしいただ中ではありますが、明日から3泊4日でマンハッタンに行きます。引っ越し前の、最後の訪問です。

ニューヨークから戻ったら、いよいよ本腰を入れて荷造りをし、お別れパーティーなどをしたあと、このワシントンDCを離れます。

西海岸へは、車で約2週間ほどかけて、大陸横断旅行をするつもりです。約3000マイル、5000キロの旅。

東半分はできるだけ突っ走り、西側に入ってから、ニューメキシコ州のサンタフェや、アリゾナ州のグランドキャニオンなどの国立公園、ルート66など、観光を楽しみながら走ろうと思います。

ところで先々週は金曜から日曜にかけて、フィラデルフィアへ行きました。今日はそのときのことなどを。

 

●5年に一度の同窓会。A男と共に振り返る歳月

2000年にMBA(ビジネススクール)を卒業したA男の、今年は5年に一度の同窓会が行われた。米国の大学、大学院では、毎年卒業式のシーズンに大規模な同窓会(Reunion)が催され、卒業生らは5年に一度、参加する仕組みになっている。

つまり2005年の今年は、2000年、1995年、1990年……と、5の倍数年に卒業した人々が集まった。

初日の夜はカクテルパーティーなど。A男の友人らと再会し、互いの近況を語り合う。翌日はレクチャーやアトラクション、ツアーなどが催されたほか、ピクニックランチに、やはりカクテルパーティー、ディナーパーティーなどが行われた。

わたしはA男に同行しつつも、合間を縫って買い物に出かけたり、カフェで休憩したりと、気ままに自由行動を楽しんだ。

さて、5年に一度のイベントに際しては、5年前のことを思い返さずにはいられない。2000年6月は、A男のMBAの卒業式がフィラデルフィアで、それから1995年に卒業した大学の同窓会がボストンで開かれた。

あの時期、それら一連のイベントに参加しようと、インドから渡米した義父のロメイシュ、義姉のスジャータ、そして偶然にもボストンに出張中だった義兄ラグバンと5人で、行動を共にしたのだった。

ワシントンDCに就職が決まったA男の新居を探しに行くときにも、インド家族はついてきた。フィラデルフィアの卒業式はもちろん、ボストンの同窓会も、もちろん一緒だった。一連の行事のあとに、我々は5人でイエローストーン国立公園へ、夏の休暇に出かけたのだった。

振り返れば、当時のわたしはニューヨークで自活していくのに精一杯だったはずなのに、よくもまあ、A男及びその家族との行動に、かなりの時間を割いていたものだと感心する。

そのときのことを回想しながら、フィラデルフィアへの車中、A男と語り合った。

「あのころは、わたし、妻でもないのに、あなたの家族と、長いこと一緒に過ごしたわよね〜」

「あれ、あのとき結婚してなかったっけ?」

「してないでしょ! 結婚したのは2001年じゃない」

「あれ? 僕、ミホのこと、家族になんて紹介してたっけ? 」

「なんてって……ガールフレンドでしょ?!」

「それってさ、インドじゃありえないよね〜。最初のころは、ルームメイトって言ってたんだっけ?」

「言ってない言ってない! あなた、何にも覚えてないのね。わたしとあなたが出会ったのが1996年の夏で、秋にはわたしがあなたのアパートになだれ込んで、1997年の春には一緒に引っ越したでしょ? その直後に、ロメイシュ、泊まりに来たじゃない! ルームメイトが同じベッドルームに寝るわけないでしょ」

「そうだったね〜。懐かしいね〜」

「ロメイシュ、毎日、朝っぱらからアバのCD、聴いてたよね。うるさかったよね〜」

「あのCD、パパが帰るときにあげたんだよね」

……と、ロメイシュに関する逸話がしばらく続く。

ところであれは、イエローストーン国立公園で、わたしとロメイシュが二人になったときのこと。彼はわたしにA男のことを、まるで懇願するように頼んだものだ。

「ミホ、彼は寂しがりやだから、できるだけ、ワシントンDCに行ってやってね」

わたしだって、自分のことで、精一杯だったのに。

あのときは、まだ結婚してもいなかったのに。

何もかも、割り勘だったのに。

あれから5年。思えば、このメールマガジンを開始したのは、A男がDCに移った直後の2000年秋のことだった。それからの歳月の大まかを、読者の方々と共有してきたと思うとそれもまた、不思議な感慨を覚える。

 

●古い手紙にみる、我が父、我が夫。

引っ越しに先駆け、クローゼットの整理をしていたところ、古い手紙やファックスが出てきた。感熱紙が感光して、もう読めなくなった物は処分しようとパラパラとめくっていたとき、父からのファックスが見つかった。

1997年8月9日。A男の誕生日に送られてきたものだ。「美穂が英語に訳して伝えてください」と注意書きがある。

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アーバント(正しくはアルヴィンド)くん。25歳バースデーおめでとう。

初めてのお便りです。色々と美穂がお世話になっている事と思いますが、よろしくお願いします。

また、9月には、妻とあゆみ夫婦が訪米しますので、迷惑をかけるかと思います。特に妻は可愛いけど少々わがままですので、少々手こずるかも知れませんが、よろしくお願いします。

質問

1. アーバントはインドに帰るのですか? それともアメリカに永住するのですか。

2. 美穂とは結婚するのですか? 

返事待っています。

最後になりましたが、アーバントは身体があまり丈夫でないようなので、特に気を付けて、健康管理につとめてください。

美穂パパより。

(空欄に、リンゴ、扇風機、イチゴ、ブドウ、ブタ、アイスキャンデー、「昔の」と注釈が添えられた4本脚のテレビ、A男の似顔絵などのイラストが描かれている)

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滑稽すぎる。

我々が出会って1年あまり。25歳になったばかりのA男に、早くも「結婚するのですか?」「返事待っています」と詰め寄る親父心。これをどうやってわたしに「訳して伝えろ」というのか。

それに加え、「身体があまり丈夫ではないようなので」などという、誕生日におよそ似つかわしくない失敬な発言。日本に送った写真数枚を見ただけで、A男を「たくましくない」と判断した様子である。

たくましくない=運動神経鈍そう=丈夫でない。

俺は頑丈なスポーツマンだ健康だ食欲旺盛だどんと来い! と肩で風を切って歩いていた父の言いそうなことである。いつだったか、父は電話で言ったものだ。

「彼の体型は、気を付けんと、膝を痛めやすいね」

いやいやいいんです。A男は走り込んだりしないから。それにしても、だ。

「健康管理につとめてください」

人ごとじゃないやろ。と言いたいね。今更ながら。

古い手紙に、目頭が熱くなるどころか、大笑いしてしまった。さらにはA男から両親へファックスした手紙も発見。

もちろん、結婚その他のことは、わたしは彼に伝えなかった。当たり前だ。

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お誕生日のメッセージをありがとうございます。

夕べはミホとイタリア料理店に行って、おいしい料理を食べました。キャンティの赤ワインをたっぷり飲んで帰ってきたあと、ミホが用意してくれていた、とてもおいしいフルーツタルト(キウイとピーチとイチゴが載っている)を食べました。

ミホのお母さんたちが来るのを、とても楽しみにしています。僕たちはまた、ミホに違う種類のおいしいタルトを焼いてもらえることでしょう。

アルヴィンド

(空欄に、「タルト一切れ送ります」と注釈を添えた、タルト一切れのイラスト)

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こっちは食べ物の話で終始している。さりげなく、次のタルトを催促している。イラストは、キウイやイチゴの粒々も鮮明に、しっかりと描き込まれており、かなり時間を要したと察せられる。言葉が通じぬ故の努力か。

ロメイシュを含め、みなそれぞれに、甲乙付けがたい味わいを持った、我が周辺の男たちではある。

 

●人生いろいろ。核心まで15分。

同窓会で、旧友たちに再会したことは、A男にとってとてもいい経験だった。A男とともに転機を迎えているわたしにとっても、自分たちの来た道を確認し、また次へ進むためのエネルギーを、間接的に享受することが出来たように思う。

知っている人も、知らない人も、笑顔で言葉を交わし、近況を語り合う。インド人、中国人、ロシア人、ウクライナ人、日本人、イギリス人、ドイツ人……。ニューヨークに住む人、カリフォルニアに住む人、テキサスに住む人、ロンドンに住む人……。

5年のうちに、結婚したり、離婚したり、再婚したり、子供が産まれていたり、職を転々としていたり、同じ会社に勤めていたり、新規ビジネスをはじめていたり、人それぞれの5年間だ。

自分たちの「山あり谷あり」は、切実で、長く重いのに、数分の間に人から聞く、人の「山あり谷あり」は、さらりと軽く短く、要点だけを耳にして……。

そんな中で、印象的だった会話があった。初日の夜、ビアパーティーでのこと。人々の会話が渦巻く中、わたしは少しくたびれたので、一人、テーブルで休憩していた。すると、一人の女性(米国人)が空いている椅子に座り、話しかけてきた。

「はじめまして。わたしはKです。あなたは卒業生?」

「わたしはミホです。夫が卒業生だから、一緒に来たの。あなたは?」

「わたしも、友人に連れられてきたの」

「まあ、あなたのその象のペンダント、すてきね!」

「ありがとう、これ、妹が作ったのよ。象牙で出来てるの。このネックレスのビーズも妹が編んだのよ」

「すごくかわいい。うちは夫がインド人だから、象がモチーフの小物が結構、気になるのよ。かわいいわよね、象って」

「あら、ご主人、インド人? 今日、わたしを招いてくれた彼もインド人なのよ!」

「まあ、そうなの? 偶然ね」

「あなたたち、どこに住んでるの?」

「今はDCだけど、来月には西海岸に引っ越して、近々インドに移るつもりなの」

「まあ、そうなの! それは楽しそうね。インドは奥深い国だからね!」

「インドに、行ったこと、あるの?」

「ええ。実は1年ほど住んでたの」

「え? 仕事で……?」

「実はその友人っていうのは、エックス・ハズバンド(元夫)なのよ。彼の赴任で、一時期、プネの郊外に住んでたの」

「へえ〜。そうなんだ! 今はどこに住んでるの?」

「知ってるかしら。ケープメイよ。ニュージャージー州の」

「知ってるどころか、何度か行ったことがある大好きな海辺よ! わたし、ニューヨークにいたときに出版の仕事をしていて、冊子を出していたんだけど、創刊号の特集が、ケープメイだったの。だから思い入れも深いのよ。あそこはいい海辺よねえ」

「じゃあ、デラウエア州のルイスは知ってる?」

「知ってる知ってる! 去年の夏、初めて行って、とても気に入った海辺なの! あそこは古くて味わいのある町よね〜。立て続けに2回も行ったわよ。あの角のビストロ、サンドイッチがおいしくて何度も行った……」

「ストライプ・バイツでしょ! わたし、今日、あそこでランチを食べたのよ! あそこ、いいわよね〜。ねえ、ケープメイとルイスを結ぶフェリーがあるのは知ってる? わたしあのフェリーの中で働いてるのよ」

「え〜っ! あのフェリーで? すばらしいわねえ! 毎日すてきな海辺の町を行き来してるなんて。何だか物語ができそうね! ねえねえ、あのあたり、イルカやクジラがいるでしょ? わたしたち、天気が悪くて遊覧船に乗れなかったのよ」

「実はね。今日も仕事をして来たんだけど、イルカの群を見てきたわよ! 何十頭ものイルカが、ピョンピョン跳ねながら船についてくるの。本当にすばらしいわよ」

「わ〜。見たい見たい! すてきな仕事ね〜!」

「ほんとに申し分のない仕事よ。乗客はみんなニコニコして、とても幸せそうだし。わたしは好きな町を往復しながら仕事ができるし。夕暮れの眺めは最高だし……」

「あなたは今、ひとり暮らし?」

「ううん。(左手薬指の指輪をなぞりながら)……生涯のパートナーと決めた人はいるけれど、彼女とは、結婚してる、とは言えないのよね」

「彼女……?」

「いやだ、わたし、初対面なのに、あれこれ話してるわね。信じられないわ。そう彼女なの。だから制度としての結婚は、ね」

「そうなんだ。失礼なこと聞くようだけど……いやだったら、そう言ってね。そのことは、前の結婚のときには、気付いてなかったの?」

「うん……。うすうす、気付いてはいたんだけど、でも、違うと思いたかったのかな。確信はなかったの。で、結婚して、明らかに自分はそうだ、って気付いたのよ」

「そうだったんだ〜。でも、今は幸せそうだから、よかったわね!」

「実はね。明日、彼の今の奥さんと子供と、初めて会うことになってるの。できれば避けたかったんだけど、いろいろ事情があってね。わたし何を話せばいいのかわからないし、すごく緊張しているの! 彼女にしたって、ほら、きっと複雑な心境に違いないでしょ。ああ、胸がどきどきする! あ、あとであなたに、彼を紹介するわね」

彼らが出会って結婚して別れて再婚するまで、きっと一筋縄じゃいかなかったに違いない。第一相手はインド人。一般的には封建的なインド人。彼にしてみても、大変だったろう。いやはや。事実は小説より奇なり、である。

人ぞれぞれ、人生、いろいろあるものだと、わずか15分の会話を通しても思う。

 

●北京ダックと、リリーの祝福

2泊3日の滞在を終え、昼頃、フィラデルフィアを出たわたしたちは、帰りにロングウッドガーデンに立ち寄った。2月に訪れたブランデーワイン・ヴァレーにある大庭園だ。

初夏の庭園は、生き生きした緑に包まれていて、冬にはなかった華やかさに満ちあふれ、それはそれは気持ちがよかった。特に今はアジサイが盛りで、温室で見た、目を見張るほどに大きなピンク色のアジサイは圧巻だった。

アジサイや桜やツツジなど、日本からこの国に来た花はさまざまにあるけれど、どれもが日本で見るよりも、遥かに大きくのびのびと成長しているのには驚かされる。土地の養分が違うのだろうか。

※庭や温室の写真はホームページに掲載しているので、どうぞご覧ください。

http://www.museny.com/2005/longwood01.htm

さて、午後を庭園でゆっくりと過ごした後、夕暮れのハイウェイを走る。

「夕飯はどうする?」と尋ねると、「久しぶりに、北京ダック食べに行こう!」と夫。「それはいいね、そうしよう」とわたし。

ヴァージニア州にある北京ダック専門店「ペキン・グルメ・イン」。ひところは月に一度出かけていたお気に入りの店だったが、この1年半ほど、なぜか行く機会を逃していた。

この店は『muse DC』の最初の号で取材をした、やはり思い入れのある店だ。以下はそのときの記事である。

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『父の教えを受け継ぎ、兄弟4人で店を守り育てる』 

ペキン・グルメ・イン:リリー・ツィさん Peking Gourmet Inn: Lily Tsui

おいしいペキンダックをリーズナブルに味わえることで有名な中国料理店「ペキン・グルメ・イン」。週末ともなると、テーブルを待つ人々が入り口付近で列をなし、店内は活気に包まれる。

店の壁は、政治家をはじめとする著名人の写真で埋め尽くされている。著名人と一緒に写真におさまっている男性がオーナーだと疑わず取材を申し込んだ。ところが取材の当日、出迎えてくれたのは、リリーという女性だった。

「この店を創業したのは、5年前に他界した父のエディです。現在は兄たちと妹ニナとの4人で店を切り盛りしています。写真に写っているのは、著名人と撮影してもらうのが大好きな次男のジョージ、撮影しているのは長男のロバートです」

彼らの両親は中国の山東省出身。1950年代に一家は香港に渡り、両親はレストランビジネスを始めた。

「父は全く料理を作れない人でした。しかし料理を吟味する力、店を運営する能力は抜群に長けていました」

1950〜60年代にかけて、エディの手がけた香港の店は成功を収めていたが、彼にはアメリカで一旗揚げたいという夢があった。1969年、彼は一家を率いて渡米、ヴァージニア州のアーリントンに店を開いた。

「両親は、毎日休みなく働いていました。彼らには休暇の概念さえなかったのです」

ひたすら働き続けてきた父も、60歳を過ぎてようやく引退する。ところが今度は、時間を持て余してしまう。

「ペキン・グルメ・インは、父が退屈に耐えられず始めた店なんです。1978年の開店当初、大学1年だった私を含め、兄弟全員が店の手伝いに駆り出されました」

当初は、現在の店舗の左端部分だけの小さな店だった。主に中国人客ばかりだったが、徐々に人気を集め、やがて店が手狭になる。84年には隣の自動車部品店、86年にはその隣の衣料品店だったスペースにダイニングを拡張、現在の規模となった。

エディは日ごろから、レストランビジネスに大切な心得を、子供たちに説き続けてきた。それは「常によいクオリティの料理とよいサービスを、ゲストに提供すること」。極めてシンプルに聞こえるが、それを実現・継続することは簡単ではない。

「開店当初、あれこれと試した結果、ニューヨーク州のロングアイランドにある農家で飼育されているダックを選びました。スーパーマーケットなどでは入手できない良質のものです。ダックと一緒に出すパンケーキもまた高品質の小麦粉を用い、手で捏ねています。そして自家農園で育てたネギに秘伝のタレ。いずれも他の店では味わえません」

現在、ダックは2日おきに、ロングアイランドから届けられている。1週間の消費量は平均600〜700羽だという。

「ペキンダックの調理には丸2日を要します。最初に乾燥させ、焼き、テーブルに出す直前に揚げます。調味料は一切、加えません。だからこそ、調理の技術と素材のよさ、タレやネギなど付け合わせの味も問われるのです。

ちなみに本場北京では、ダックの脂身と皮を一緒にサーブしますが、アメリカでは脂肪を避ける方が多いので、サーブする際、削ぎ落としています」

この店には、ペキンダック以外の自慢料理に、風味・歯ごたえのいい「ニンニクの芽」を使った料理がある。このニンニクの芽は、有機化学の博士号を持つ長男のロバートが15年前に開発したもので、やはり自家農園で育てている。

このほか、自慢料理のLamb Chop Peking Styleはニュージーランドのラムを、Juon-Pao Soft Shell Crabはタイのソフトシェルクラブを、Juo-Yen Shrimpはメキシコのエビを使用するなど、良質の素材を世界各国から取り寄せている。

「父の教えをきちんと守っていれば、店は大丈夫だと信じています。シェフをはじめ、80名近い従業員は、よく働いてくれる人ばかり。長く勤めている人が大半です。店の規模は今がちょうどいいので、これ以上大きくするつもりはありません」

創業以来、毎日休まずに営業しているが、年に一度、サンクスギビングデーだけは休業する。

一家で米国に来た当初、父エディが言った「サンクスギビングデーは家族の日だ」という言葉に従って。

Peking Gourmet Inn
6029 Leesburg Pike, Falls Church, VA
703-671-8088

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久しぶりに店のドアを開けたら、リリーが迎えてくれた。

「まあ、ミホ、久しぶり! 元気だった? 随分、顔を見せてくれなかったのね」

「ごめんなさい。この1年余り、色々なことがあってね。実は来月、ここを離れてカリフォルニアに引っ越すの。だからその前にぜひ、ここの北京ダックを食べて行こうと思って」

リリーはわたしたちを席に案内し、傍らに立ってしばらく話をする。

インドでのビジネスチャンスを求めて、新しいステップを踏み出すのだ、と語るA男の話に耳を傾け、それはすばらしいこと、インドも中国も、今は伸びている最中だから、と笑顔で励ましてくれる。

そしてウエイトレスに、

「彼らはわたしの友達だから」と言って、また仕事に戻っていった。

以前は二人で1羽などという大胆な食べ方をしていたけれど、今回は控えめに人並みに半羽。それに自家栽培のチンゲンサイとシイタケのソテーを注文。

ウエイトレスがテーブルの傍らで、ペキンダックの皮や身を削ぎ切り、皿に並べてテーブルに供してくれる。温かなパンケーキに、秘伝のたれを塗り、長男が開発した風味のよいネギをたっぷり載せ、パリッと香ばしい皮を載せ、くるりと包んで食べる。おいしい!

満腹で幸せ、さてお会計を……というときに、ウエイトレスがやってきた。

「今夜はリリーのごちそうですから、お支払いは結構です」

顔を見合わせる我々。そんなわけにはいかない。思い返せば2年前、取材した直後、A男と二人で訪れたときにも、リリーはごちそうしてくれたのだ。「今回だけだから。次からはちゃんと払ってもらうから」と言って。

やがてリリーがやってきた。

「どうぞわたしたちに、支払わせてください」という我々に、彼女は言った。

「今日は、あなた方の新たな一歩に、祝福をしたいの。だから受け取って」と。

そしてA男に向かって、彼女は言った。

「人生に、同じ好機 (opportunity) は、二度訪れることはないと思うの。だから、今、リスクを負ってでも、がんばって挑戦して! そしてインドで一旗揚げたら、あなたの写真を送ってちょうだい。壁に貼らせてもらうわ」

わたしはもう、お腹だけじゃなくて、胸までいっぱいになってしまった。実のところは、「リスクを負う」ことが苦手なA男の心にも、その言葉は響いたようだった。

たった一度取材をさせてもらっただけで、あとは時々、食べに行くだけで、じっくりと話をしたわけでも、親しい友人だったわけでもないのに、こんな風に接してくれるなんて。

わたしたちは、せめてもとの思いで、多めのチップをテーブルに残し、席を立った。

もう、この店に来ることも、多分ないだろうけれど、今夜のことはいつまでも、忘れたくないと思った。

(5/23/2005) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


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