坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ

Vol. 110 2/20/2004

 


ここ数日、寒さが和らぎ、少し春めいた日が訪れるようになりました。先週は2泊3日の温泉で、すっかりくつろいで来ました。滞在中、とてもいい出会いもあり、やっぱり、それがたとえすぐ近所であれ、旅はいいものだと思いました。

さて、明日からは、3泊4日でロサンゼルスです。本当は行く予定ではなかったのですが、A男のカンファレンスに急遽便乗して、わたしも旅行することにしました。カンファレンスはディズニーランド内のホテルで行われるのです。

ロサンゼルスのディズニーランドは、わたしが初めての海外旅行(ホームステイ)の折に訪れて以来、実に18.5年ぶりの訪問です。久しぶりに、暖かくて賑やかなところで遊んでこようと思います。

今日は、またもやインド関係の話題です。岡本太郎氏の著書を読んで、自分の中の考えをまとめておきたくなり、書きあげました。

 

●インドについて考えたこと(岡本太郎の著書を読んで)

去年、マンハッタンにある日系書店に行ったとき、なぜか岡本太郎の著書が数冊、目立つ場所に並べられていた。岡本太郎の書いたものを、それまでは読んだことがなかったが、数年前、高校時代の男友達と電話で話をしたとき、彼が「今、岡本太郎を読んでいる、彼の文章は本当におもしろい」といっていたのを思い出し、並んでいた3冊を買った。

みすず書房から発行された『神秘日本』『わが世界美術史』『宇宙を翔ぶ眼』がそれだ。

その一部は、直後に読み、残りは読まないままに、書棚にあった。それをつい先日、インドから帰国した直後に開いてみた。「宇宙を翔ぶ眼」の第一章が「匂いと彩りのインド」とあるのを見つけ、読み始めた。

岡本太郎氏は、1971年、インド政府の招待で、初めてインドの土を踏んだ。主には政府の組んだスケジュールに従った旅で、モダンアートのコレクションなどを見学したあと、いくつかの観光コースを巡り、岡本氏としては自由に飛び回ることの出来ない窮屈さのある旅だったようだ。

しかし、その旅で彼が感じたことを記したそのエッセイには、随所に、深く頷く箇所があり、それがあまりにも的確に表現されていることに感嘆し、従って、ここで紹介したくなった。

衆知の通り、岡本氏は画家であり、その言動は少々奇天烈に感じられることもあるが、彼の文章はその印象とは裏腹に、非常に理路整然としており、端的で美しくわかりやすい。

まずはその冒頭文に、強い共感を覚えた。

===========================================

 インドに行くことに、私は、一種恐怖に近い抵抗を覚え続けた。

 インドへの憧れはたしかにある。根深い切望として。あの広大なひろがり、その彩り、そして歴史の深さに、この眼と耳、全身で触れ、インドを体験したいと願う。しかし、そこに旅立とうとするいま(一九七一年)、なんともいえぬ重さにうちひしがれることも事実である。

(中略)

一度行かなければ、と思いながら、つい今日までのばしのばしして来た。必ず行こう。しかし、なるべくはトドのつまりで行くことにしたい、そんな気持ちだ。

(18-19ページ)

===========================================

 

【インドへの畏怖】

インド旅日記の冒頭文にも記したが、わたしもまた、インドを避けていた。高名な芸術家でもなければ作家でもないわたしが、岡本氏と同じ土俵で物事を捉えるのはおこがましいことを承知の上で書けば、岡本氏のような人物でさえもが、いや、岡本氏のような人物だからこそ、であろうか、インドに対してある種の距離感を抱いていたことを知って、心が躍った。

インドには、他の国にはない、独特の敷居の高さというものがあるような気がしていた。なんだか神秘的で、宗教めいていて、独自の世界観のもとに世界が展開していて、一旦、そこに呑まれると、ちょっとやそっとでははい上がれないような敷居の高さ。

無論それは、メディアの発する情報をもとに創出されたイメージであり、だからインドを訪れる前は、少なくともA男と出会う前のわたしは、インドに対して神秘性や特殊性が色濃い偏った印象を持っていた。

わたしにとってインドという国は、A男との出会いによって急速に身近になった。更には米国を訪れた彼の父や姉夫婦、親戚らとの関わりにおいて、インド人とつながるようになり、わたしはことごとく、それまでのインド観を覆された。

わたしを取り巻くインド人らは、少しも神秘的ではなく、宗教めいてもいなかった。わたしたちがインドと聞いて想像するガンジス川、沐浴する人々、敬虔なヒンドゥー教徒、あるいはサイババ、などから、むしろほど遠かった。

夫の家族は誰一人として、ガンジス川のあるベナレスに行ったことがない。わたしはA男と出会った当初、彼に問うた。

「インド人はガンジス川で沐浴することを切望しているのではないの?」

すると彼は答えた。

「僕はいやだよ。だって、汚いし。病気になるよ」

更にはヒンドゥー教徒の癖して、家族一同、焼き肉が大好きだ。特にA男の姉夫婦は「インドでは余り食べられないから」と、米国滞在中はやたらビーフステーキを食べたがる。

どうやらインドには、一筋縄ではいかない、いくつもの常識が存在するようだということを、わたしは彼らを通して知った。

2001年夏の、わたしにとって最初のインド訪問は、あくまで結婚式が主体だったため、ゆっくりと国に肉薄して何かをつかみ取る余裕はなかった。昨年末の旅で、初めてインドという国の素顔が垣間見られた気がした。

【やりすごす今世】

わたしは、インドの貧困や貧富の差を、問題だと思う。問題だとは思うが、それが不幸とは言い切れないと、ごく一部ではあるにせよ、貧しげな人々を見て思った。なぜなら彼らは、わたしが想像していたほど、不幸そうにみえなかったからだ。

富める者にくってかかるように物乞う人々。惨めさを強調するために、子供の手足を切り落とし、情けを乞いやすくする親も多いという。生まれたときから定められたヒエラルキーをどうにかしようとも、どうにかできるとも思ってはいない達観。無論、どうにもできないのであろうが。

都会でも、田舎でも、ぼんやりと路傍で語り合う男たちがいる。目的があるのだか、ないのだか、のろのろと歩く人がいる。攻撃的に、手当たり次第、金銭を乞う人がいる。

彼らに直接尋ねたわけではないから、これは憶測に過ぎないのだが、そして彼らが「輪廻転生」というものを、どこまで信じているかも、わたしは知らないが、しかし敢えて傍観の立場で言わせてもらえば、彼らはこういう風に見えるのだ。

「今世はとりあえず、貧家に生まれてしまったから、仕方ない。軽くやり過ごそう」

「今回、これだけひどいんだから、来世はかなり、ましかもしれない」

それを切に感じたのは、ゴアのビーチリゾートでだった。わたしたちはホテルを離れ、丘の上から海を見下ろす場所で、アラビア海に沈む夕陽を眺めていた。

わたしたちのほかには、数人の旅行者とおぼしき人々と、地元の男たちがいた。

いかにも仲のよさそうな地元の男たちは、実に楽しそうに、3、4人単位でかたまって、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしていた。アラビア海に沈む、だいだい色の巨大な太陽と、茜色に映えた海との、恐ろしいくらいに美しい夕景の中で。

薄汚れた肌と髪。古びた衣服を着て裸足の彼らは、見るからに「貧乏」のようであった。しかし同時に、こんなにも美しい夕陽を、多分毎日、楽しげに眺めている彼らは、果たして「貧乏が故に」不幸だろうか。時間に追い立てられている風もなく、慌てる風もなく、夕暮れどきを過ごしている彼らは果たして。

彼らにとって、一日は長いだろうか、それとも短いだろうか。わたしのそれと比べて。

===========================================

 この飢えた国の乞食の、あの執拗なものねだりは、いったいなんのためなのか。その非情な厚かましさ。酷薄に要求する眼差しは。

 もの乞う者も、与える者も、愛や情けというセンチメンタルな人間関係ではなく、輪廻の思想によって、互いに当然果たすべき役割をやっているのだろう。

 インドは怖ろしい、ある意味ではゾッとするほどいやな国だ。そのいやな国が、どうしてあんなに良いのか。正しいのか……。世界中の人がインドに惹きつけられる。とりわけ先進国のエリートたちほどインドに憧れずにはいられないというのは、その凄さによるのだ。いまその矛盾と、問題の意味が把握できたような気がする。

 民衆は、いまはこうだけれど、来世はまったく別の人生だと信じて現在を平気で生きている。(28-29ページ)

===========================================

わたしは、感じこそはすれ、しかし岡本氏のように断言できる確信も勇気もない。しかし、やはり

「民衆は、いまはこうだけれど、来世はまったく別の人生だと信じて現在を平気で生きている」ように、本当に思えた。

そうでも思わないことには、自分の中での「つじつま」が合わないのかもしれない。それは、「富める国」に生きている自分の価値観を、正当化するための言い訳でもあるだろう。

===========================================

 インドには「時代」はない。太古と現代の間にはさまれて、平気で浮き漂っている時代だ。(32ページ)

===========================================

岡本氏がインドを訪れてからすでに30年がたち、現在は否応なく、インドにも「資本主義的文化」が流入している。それは即ち、欧米資本の流入であり、欧米的現代的な物々が、インドの都市部で、明らかに見受けられる。

しかし、一旦、都市を離れたらどうだろう。これが同じ国だろうかと思えるほどに、時代が「逆行」するのだ。

南インドのバンガロールからマイソールをドライブしたときには、その機械という物を一切使用しない農村の風景に、時間旅行をしている気にさえさせられた。

ヤシの木々の向こうに広がる水田で、腰をかがめて田植えをしている人々の姿が見えた。かと思えば、耕田で、水牛に鋤(すき)や鍬(くわ)を引かせ耕している人がいた。かと思えば、鎌(かま)を片手に、稲を刈っている人がいた。

つまり、ここでは米の二期作、三期作が行われていた。四季すらも、ここでは渾然一体となっているのだ。

山ほどの稲穂を摘んだ牛車とすれ違う。時折、道路の上に、稲が一面、敷き詰められているのを見かけた。最初、これは稲を乾燥させているのだろうかと思ったが、実際は、稲を道路に広げて車に「踏ませる」ことで、稲の脱穀をしているとのことだった。

そんな風景の中に、「時代に遅れた悲哀」は見あたらなかった。ただ単に、そこには別の時代が存在しているように見受けられるばかりだった。

【我々の行き着く場所】

わたしがどうしてこんなにもインドに惹かれてしまったかといえば、それは米国に暮らす必然性が、自分の中ではっきりと見いだせなくなったことも影響している。

ニューヨークに住むのが楽しかった時代は、「若さ」が理屈を凌駕していた。いろんなことに挑戦をしたい。新しいものを見たい。気に入った場所であれば、ともかくは、その国のイデオロギーが、政治がどうであれ、よかった。根拠なく「雰囲気」で突っ走れた。

特にニューヨークという場所は、他の典型的な米国の都市とは異なり、米国にして米国ではなかった。だから、居心地の悪さや違和感をさほど意識することなく、ただ、目先のやるべきに没頭していられた。それは、それでよかった。

しかし、ワシントンDCに移り、米国の象徴のような場所で暮らすにつけ、どうしようもなく鬱々とした気持ちがこみ上げてくるのだ。それは2000年の大統領選挙の際に認識した、米国に対する深い不信感、さらに9月11日以降のこの国の姿勢……。

わたしは、しかし、この国に住む者として、この国の恩恵を受けている者として、できるだけ「ニュートラル」な視点を持とうと努めていた。無論、今でもそうだ。なぜなら、たとえば米国を批判する自分を見たとき、誰でもない、自分自身の内なる声が、「そんなに米国がいやなら、自分の国に帰ればいいじゃないか」とくってかかるのだ。

しかしながら、わたしはもう、日本に帰りたくない。だから、自分の行きつく場所が見極められない混乱があった。否定しないまでも、妥協するしかないのかもしれないと思っていた。

自分を取り巻く一つ一つを、そのよさを見いだせず、否定しながら生きるのは醜いことだと考える気持ちも、わたしには強くあるからだ。

DCで暮らし始めて以来、何度となくA男と「家を買う」ことについて話し合った。アパートメントの高い家賃を払い続けるくらいなら、家を買った方が税金対策にもなるし、得策であると周囲からも勧められた。

しかし、わたしはどうしても、ワシントンDCに腰を落ち着ける心境にはならず、不動産会社への訪問も延ばし延ばしにしてきた。例えば自分の周囲を見回すと、わたしたちと同様「移民」の友人らも、わたしほどの年齢になると、すでに家を買って、ひとまずの定住の地を築く準備にかかっている。

わたしの中で「腰を落ち着けたい」という気持ちと「いや、ここではないどこかだ」という気持ちが、常に交錯していた。その煮え切らない気持ちは、日本人であるわたしとインド人であるA男が、種類こそ異なれど、ここ数年、常に抱いていた感情だった。

わたしたちは、わたしたちが米国に住み続けることの意味を問うている最中に、インドに再会したのである。

==========================================

 インドを神秘の世界だと思っていた。だが体験した限り、インドは神秘ではないのだ。極めてリアルである。そこにかえって「哲学」を見とる。世界中がそういう意味でインドを誤解していると思う。(35ページ)

===========================================

繰り返すが、わたしは、インドを訪れる前に、夫とその家族を通して、「神秘的な国としてのインド」に疑いを持っていた。少なくともこの身近なインド人は、ちっとも神秘的ではない。その彼らが住むインドが神秘である方が、不自然である。

わたしにとってインドは2度しか訪れたことがないにもかかわらず、夫とともに、「里帰り」する故郷である。そこには、わたしたちの家族や親戚が住んでいる。

つまりわたしは、あくまでも、「アルヴィンドの妻として」、インドに住みたいと考える。貧民や農民として住みたいとは一切思わない。だから「真にインドに惚れている」わけではないということも自覚している。

それに関して、異論を唱える人もあるかもしれないが、一向かまわない。

わたしは、貧乏暮らしをしたいわけでも、インドのカオスの中にさまよいたいわけでもない。わたしは、自分の40歳代を(A男は当分30歳代だが)、精神的にも経済的にも豊かな環境の元で暮らしたいと願っている。そのために、わたし(たち)は努力してきたし、今も努力している。

今、自分の母国と、自分が暮らす国以外の国に住むことが可能だという選択肢があることを、このうえなく、ありがたいことだと感じる。それは、わたしがインド人と結婚したことによって得たいわば「幸運」であり「醍醐味」である。(苦労も絶えないけど)

繰りかえすが、わたしはインドが理想郷などと思ってはいない。けれど、退屈しないことは明らかだ。

===========================================

 この巨大な迷路を手さぐりで歩いてきた私の精神のコンプレックス。実体として感じ続けながら、惹きつけられながら、やはり遠い。この不思議な存在のくいちがいの波動。……しかし私はいま、一だんと生きる力を全身に感じるのだ。

 あの町々にあふれていた民衆の、生きた黒い顔。白くギョロッとこちらを見かえすあの眼ざしが、私を見つめている。(36ページ)

===========================================

アルヴィンドはしかし、わたしよりも慎重だ。自分の母国でありながら、帰国を望みながらも、常に一抹の不安を抱えている。

我々は、常に「作戦会議」を欠かさないが、前線に立つのはもっぱら彼で、わたしは現在「後方支援」担当だから、ストレスがまだ浅い。だから好き勝手を言えるのかも知れない。

以前、精神科のドクターと話をした折、「高学歴で失敗せずに来た人ほど、そうでない人には想像できないほど失敗を回避したがるため、優柔不断になる、決断力がなくなるケースが多い」のだという。

それを逆に考えれば、わたしは失敗だらけだったので、決断力がある。だからそうでない彼とは、しばしば衝突するが、しかしこれはいい組み合わせなのかも知れないと最近になって思う。

わたしは相変わらず先走っていて、まだ1年後か2年後か、あるいは3年後になるか知れないインド転居を、さも数カ月後に実現する勢いでイメージしている。しかし、タイミングは、実はそんなには、重要ではないのかも知れないと思う。

なぜなら、わたしたちは、去年と同じ街で生活をしているにも関わらず、まったく心境が異なるからだ。

“わたしたちには、インドがある。”

それが一つの暗示のように、呪文のように、目前の問題に打ちのめされたりしない力をくれている気がする。

それは例えば、「たとえ離れて暮らしていても愛し合う相手がいる」とか、あるいは「当面は使わなくても、潤沢な預金がある」とか、そういう感覚に似ているかもしれない。

なにはともあれ、まだまだしばらくは、DCに住み続けることであろうわたしたちだが、インドのお陰で、去年の今ごろとはまったく異なる心境にあることが、ともかくはありがたいのである。

-------------------------------------------

岡本太郎『宇宙を翔ぶ眼』 2000年2月 みすず書房

-------------------------------------------

(2/20/2004) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


Back