124 West, 60th Street.
Between Columbus & Amsterdam Avenues. そもそもここは、夫が住んでいたアパートメント・ビルディングだった。1996年の4月に渡米したわたしは、最初の1カ月、マンハッタン郊外のリバーデールにある語学学校に通い、ブロンクスの家庭にホームステイしていた。ブロンクス。かなり環境の悪いエリアであった。 5月にはその学校をやめ、同じ学校に通っていた日本人の青年をルームメイトに、マンハッタンで部屋を借りることにした。リンカーンセンターの裏手、63丁目にあった安めのビルディングだった。 7月に夫と出会い、9月には付き合い始め、そうして10月には夫が住む、この高層ビルディングの部屋「14N」に、まさに「転がり込むように」して、一緒に暮らし始めた。 当時、彼にはイタリア人のルームメイトがいたので、2ベッドルームを3人で共有する状態だった。そういう混沌生活を数カ月続けたのち、翌1997年の2月に、同じビルの1ベッドルーム「11M」に二人で移転。ここで1年ほど一緒に暮らした。 「11M」に住んでいた間、わたしはミューズ・パブリッシングを起業し、独立した。日本から母が泊まりに来たこともあった。インドから義父や義姉夫婦が泊まりに来たこともあった。 しかし1年後には、夫がフィラデルフィアのビジネススクールに通うことになり、わたしは窮地に立たされる。なにしろそれまでは、家賃を折半していたわけで、とても一人では払いきれない。仕方なく、ステュディオ(1ルーム)の物件を探し回ったが、時は好景気のただ中で、マンハッタンの家賃は怖ろしく高騰していた。 狭苦しい、ろくでもないステュディオでさえ、1カ月2000ドルほどもするのだ。本当に、泣きたくなった。でも、泣いている場合でもなかったので、しばらくあちこちの物件を探したが、どこもここも高い。同じ高いなら、引っ越しが便利な同じビル内で移動した方が、結局は経済的かも知れない。と思い至り、同じビルディングのステュディオ「18C」に移った。 その部屋は、あくまでも「オフィス優先」の位置づけで、坂田は「オフィスに寝泊まりしている」という感覚での生活であった。夜になるとソファーベッド(FUTON)を広げて、シーツを敷いて寝る。朝にはベッドを畳んで、何事もなかったように装う。従って、打ち合わせに来た人たちの多くは、ここをステュディオとは思わず、もう一部屋ベッドルームがあると思いこんでいた。 「18C」は、わたしがニューヨークで一番長く(約3年)住んだ部屋であり、思い出深い部屋でもある。仕事の打ち合わせで人の出入りも多く、パーティーもしばしば開き、なにかと社交的だった。しかし、斜め上の「19D」から出火したときには、本当に、もう、わたしのニューヨーク生活は終わってしまうかも知れないと、燃えさかる炎を地上から見上げて思った。 4人もの人が亡くなった大変な火事だったが、わたしの部屋は軽い水漏れだけですみ、本当に、本当に、不幸中の幸いだった。 そんな我々夫婦の思い出に満ちたアパートメント・ビルディングに立ち寄った。ドアマンのアレンが、相変わらずの笑顔で迎えてくれる。「屋上を見に行ってもいい?」と尋ねたら、「もちろん」と、中へ通してくれた。 わたしは、この屋上から見下ろすマンハッタンの風景が大好きだ。 最後に、ここからの風景を、脳裏にしっかりと焼き付けられて、本当に、よかった。
NEW YORK,
NY
懐かしのビルディングの屋上から、マンハッタンを見下ろす
MAY 24,
2005
60丁目とコロンバス・アヴェニューの交差点を西へ曲がる。 教会の脇の舗道を歩いて、アパートメント・ビルディングへ ドアマンのアレン。このビルで20年以上働いている。9年前から全然老けない。
ロビーに飾られた、遠い昔のコロンバスサークル。今とは全く異なる光景。 ペントハウスのボタンを押して屋上へ タイムワーナー・ビルディングと、トランプホテル。すっかり視界が遮られている。
マンハッタン島の西側。北を望む光景。ハドソン川の向こうにニュージャージー州が広がる。右端に見えているのは、ジョージワシントン・ブリッジ。 左の光景から、やや視点を南にずらす。右下の隅に見えているのは、最初住んでいたアパートメント・ビルディング。
更に南側。いくつもの埠頭がせり出している様子が見える。 真南に向かう風景。ミッドタウンウエスト、ヘルズキッチンと呼ばれるエリア。彼方にはロウアーマンハッタン、自由の女神像も見える。
ミッドタウンを望む。一番高い建物は、エンパイアステート・ビルディング。 2004年、コロンバスサークルにできたばかりのタイムワーナー・ビルディング。