11月7日(日)
■まだ夜明け前。月明かりの下で。
午前5時55分。ロビーに行ったら、もうすでにヴィンとトム、そしてガイドのお兄さんは集合していた。なんてことだ。時間に遅れるどころか、早いとは。
外へ出る。まだ暗い。空を見上げると、月と、木星と金星が、寄り添うみたいにして、煌々と光を放っている。
「僕は毎朝5時に起きて、ジョギングをするんだよ。一昨日の朝も、あの月と星を見た。カリフォルニアとはこんなに違う世界に立っているのに、同じ月と星を眺めていることが、なんだかとても不思議に思えるよ」
天を仰ぎながら、トムがゆっくりと独り言のように話す。
彼は米国から「ブラックベリー」という携帯のモバイルを持参してきていた。ブラックベリーの中でも新しい機種らしく、世界中どこからでも電子メールの送受信ができるという。数カ月前イスラエルに行った時も、ロシアに行った時も使えた。そしてここインドでも。
夫もヴィンもブラックベリーを持っているが、二人のは米国内でしか使えないらしく、二人してトムのブラックベリーをうらやましがる。
トムは昨日、車中で眠ることもなく、外の風景を見ている以外はメールのチェックをしたり、小さなキーボードをプチプチと押しながらメールを書いていた。よく、気分が悪くならなかったものである。
夕べは、昨日一日のうちに見た光景が強烈だったせいか、疲れているにも関わらずなかなか寝つけなくて、妻に詳細を報告するメールを送ったのだという。
タージ・マハルに到着したころより、夜が白々と明けてきた。あたり一面に霧が立ち込めていて、昨日とは一変して静寂の世界だ。訪れる人の姿もまばらで、周辺はしんと静まり返っている。
ガイドのお兄さんから、昨日とはまた別の、タージ・マハルの建築技術に関する細かい説明を受けながら、4人で静かに歩いて行く。
こうして朝、訪れてみて初めて、ここが「墓」だったのだということを痛切に感じた。にぎわいの中でかき消されていた悲しみが、建物全体から発せられているのが、目に見えるようである。
タージ・マハルを建立したムガル朝のシャー・ジャハーン帝は、晩年、息子たちの後継者争いに巻き込まれ、三男のアウラングゼーブによって、アグラ城に幽閉された。アグラ城の窓から、愛妻の眠るタージ・マハルを眺めつつ、彼は息を引き取ったのだ。
彼の亡骸は、妻の亡骸に寄り添うように、タージ・マハルに葬られている。
■大霊廟を、しんとした気持ちで巡っていたのに……なんてこと!
霊廟の周辺をしばらく散策したあと、霊廟の中に入るべく、靴に布のカバーを付けてもらう。土足での進入は禁止されているので、靴にカバーをつけるか、はだしになるか、せねばならないのだ。
大理石の、白い階段を昇る。手で壁を伝うようにして、滑らないように昇る。大理石の冷たい感触が、指先からしんしんと伝わってくる。
ちょうど上についたところで、昨日の女性ガイドとメジャー元首相夫妻に出くわした。昨日は数名の護衛付きで歩いていたが、今日は3人だけである。ヴィンがメジャー氏に近寄って行き、まるで友人でも迎えるような親しさで「ようこそ、インドへ! 旅を楽しんでますか?」と声をかける。彼は誰にでも、フレンドリーだ。
更には、
「ぼくたち、本当は、彼女に案内してもらう予定だったんですよ。あなたは僕たちのガイドを盗んだんですよ!」
メジャー氏の肩をポンポンと叩きつつ、笑いながら言う。フレンドリー過ぎだ。
メジャー氏はにこやかに、
「それは申し訳なかった。I' m
sorry」
と謝る。彼もまた、フレンドリーだが軟弱そうだ。そんな二人のやりとりを見ながら(なんて不謹慎な人たち!?)と呆れ顔で我々を見るメジャー氏の妻。呆れられて当然である。いきなり「盗んだ」だもの。メジャー氏は別れ際にも謝っていた。謝らなくていいのに。
さて、われわれは、霊廟の内部に入り、その大理石に施された象嵌や彫刻に関する説明などを受ける。より緻密な装飾が施された内部は撮影禁止なので、中に入る前に外壁を撮影した。
イタリアはフィレンツェにあるドゥオモの技術を模倣したといわれる、その美しい花模様の彫刻に触れてみようと、手をのばした瞬間。
生温かい衝撃!!
手の甲全体が、濃緑の半液体に覆われている!!
何だこれは??!!!
天を仰いで合点がいった。ハトのフンだ!
"Oh, No!!!!!!!!!"
思わず大声で叫ぶわたしの声に、周囲の視線が集中する。地元の人らしきおじさんらは笑いながら、口々に
「それは幸運のしるしだよ」
「今日はいいことがあるよ」
と言ってくれるが、ちょっとどうにかしてよ、このフン!
それは、とてもハトのフンだとは思えないほどの、「桁外れな量の多さ」だった。ジャケットのそで口から腕時計、ブレスレット、手の甲全体に至るまで、大さじ約5杯分ほどボリュームである。どういうこと?!
持参のティッシュで拭うものの、とても間に合わない。夫がポケットからティッシュを出すがまだ足りない。ヴィンが飲み水のボトルを手の甲にかけて洗い流してくれるが、それでもきれいにならない。
欧州からの旅行者らしき青年が、「僕も同じ目にあったから、それ以来、いつも持ち歩いているんだ」と、ウエットティッシュを差し出してくれる。ありがたい。ひとまず表面的にはきれいになったが、ジャケットは袖口が濡れてしまって着ていられない。
よく見れば、そで口だけでなく、前身ごろのあたりにもフンが飛散している。いったい、何を食べたらこんなフンが出るのだハトよ。勘弁してよね〜もう。
「ぼくは10年、ここでガイドをしてきて、フンの被害に遭った人を何人か見てきたけど、そんなに大量のフンを見るのは初めてだ。きっと、とてもいいことがあるんですよ」
と、ガイドの兄さんが笑いながら言う。ううう。どんないいことがあるんでしょうかっ!
しんみりと物思いに耽ってたのにさ〜。ったくぶち壊してくれるよね〜。早くホテルに戻って、手とジャケットを洗いたい!
もう! ハトのばか。
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