SCENE 02: 窓を開けば、カラス舞う、朝の港。
MUMBAI (BOMBAY), APRIL15, 2004

朝。窓を開けば、海の匂いとカラスの鳴き声。朝の空気は、軽やかで涼しげだが、やがて蒸し暑くなることを予感させる朝日の鋭さだ。港を舞うはカモメか、と思いきや、ほぼすべて、カラス。これがムンバイの風情というところか。港に、沖に、停泊する大小の船々……。


見た目には爽やかな青空だが、海辺とだということもあり、かなり湿度が高い。ホテル周辺には、英国統治時代の面影を偲ばせるコロニアル建築の建物がそこここに。海風や埃や排気ガスなどで、くすんで煤けて痛んではいるけれど、補修工事をすると、きっと見違えるほど美しいに違いない、という建物が、あちこちに点在している。彼方に見える高層ビル群よりも、情趣あふれる町並み。

Gateway of India。ハチミツ色したインド門。1911年の英国王のジョージ5世とメアリー王妃のインド訪問を記念して建立されたが、完成したのは1924年。そこはかとなく、パリの凱旋門を思わせる、しかしグジャラート地方の建築様式(ヒンドゥとムスリムの混合)らしい。ここから、クルーズ船などや観光地エレファンタ島への連絡船が出ている。常に人々が取り巻いている、賑やかな門。

ホテルの敷地から一歩外に出ると、そこは、得も言われぬ喧騒。一方、ホテルの中は、まるで別世界のように涼しげな空間。プールサイドでビールを飲みつつ、本のページをめくりつつ、どんな塀にも遮られることなく、自由に飛び交うカラスを、鳶を眺めながら。


4月15日(木)

■スーツケースから忽然と消えた電気機器にうろたえる朝

7時起床。時差ボケ解消とばかりに、ヨガマットを広げ、ヨガを行うこと約30分。

朝の光の具合がよかったので、写真を撮ろうとスーツケースからカメラを取り出そうとするが、ない! 夫が米国で用意してきていたレンタル携帯電話も、わたしのコンピュータのバッテリー類も、ケースごと、ない!!

朝の静寂が一転、パニックとなる。どこを探しても、黒い小さなスーツケースに入れていたはずの電気機器一切が、ないのだ。夫は今後ミーティングする人たちに、携帯電話の番号を伝えてある。午後からの打ち合わせの段取りも、その電話にかかってくる予定なのだ。まさか家に置き忘れて来たとは思えない。確かに入れた。

じゃあ、いったい、どうしてないんだ?! 

万一、盗まれたとしたならば、インドの空港とホテルのチェックインの際しかない。大慌てでホテルのスタッフを呼び寄せ、事情を話し、警察にレポートしてもらい、空港に連絡してもらい、てんやわんやで清澄な朝の空気がもう、めちゃくちゃである。

基本的に大切な物は手荷物にしているが、すでにコンピュータなどで荷物が多くなり、ついついまとめてスーツケースにいれてしまったのが失敗だった。

彼の携帯電話はすぐさま盗難の旨をレポートし、ホテルのビジネスセンターで改めて借りることにて一件落着。しかし、わたしの損失は大きい。念のため、カメラはもう一台、手荷物として持参していたものの、そのバッテリーチャージャーもなければ、写真をダウンロードするためのコンピュータのバッテリーチャージャーもない。カメラとコンピュータを繋ぐコネクタもない。文章も書けなければ、写真も少ししか取れない。

せめてバッテリーチャージャーとコネクタを購入できれば、夫のコンピュータに写真をダウンロードできるのだが、いくら大都市ボンベイでも、そういう部品がすぐに見つかるとは思えない。

仕方ない。いざとなれば、使い捨てカメラでも買って撮影すりゃいいだろう。ああ。それにしても、新品のカメラなのに、くやしい。

ちなみに後日、この一連の紛失は、米国の空港でのセキュリティチェックの際、手違い(ミス)で他人のスーツケースに詰め込まれたらしきことが発覚した。クレーム処理などを行ったが、結局、1000ドル相当の損害を被ったにも関わらず、補償されず。泣き寝入り状態である。このことはすでに、メールマガジンにも書いたので、このくらいにしておく。

そんなわけで、思い切り出鼻をくじかれた朝だが、くじけているわけにもいかぬ。今回の旅の目的は、夫の仕事。彼の仕事がうまくいけば、わたしの写真撮影なんぞ二の次なのだ。そうだそうだ。

ともかくは、彼に伴いビジネスセンターへ。レンタル携帯電話が意外に安かったので、わたしも借りることにする。しかし、スタッフは

「丁寧だけど、のろい」うえ、「親切だけど、頼りない」。

わたしたちが手続きをしていると、ラテン系の女性がすごい剣幕でビジネスセンターに怒鳴り込んできた。

「ちょっと、どうなってるの?! このホテルのハイスピードインターネットは!! わたしは今すぐ、仕事を仕上げて書類をメールしなきゃならないって言ってるのに、さっきから断絶してばかりで、ちっともつながらないじゃない! わたしが何度、ここに電話したと思ってるの? ノープロブレム、ノープロブレムって言いながら、どれだけ待ってりゃつながるの!? 話しにならないわ!」

「アイム・ソーリー、マダム。もう少し、お待ちください。今、復旧作業をしています」

「あのねえ! もう待てないのよ! アイム・ソーリーなんて聞いたってしょうがないの! 早くなんとかしてよ!!!!」

延々と怒鳴りまくる取り乱したビジネス客と、あくまでも淡々とスローなインド人スタッフ。それを苦笑しながら見つめる、居合わせた我々ゲスト……。

かなりのパニック状態に陥っている彼女を気の毒に思わないでもないが、どんな高級ホテルでも、ここはインドだもの。スケジュールは前倒しで仕事をしたほうがいいと思います。などと言ったら逆鱗に触れるだろうな。というわけで、人の憤怒状態を見て、自分の怒りがおさまった不思議現象。


【インドの常識その1】

ノープロブレム。No Problem。インドでそれは、「問題ない」という意味では、多分、ない。
「わかった。やってみます(だめかもしれないけど)」
「多分、無理だろうなあ、でも、あたってみるよ」
「はいはい。やりますよ。でもあんまり期待しないでね」
といったニュアンスだろう。だから「問題ない」どころか、「問題あり。大あり」って時にも使われるから、真に受けないよう要注意。


■カメラ店を探しつつ、ムンバイの雑踏を歩く、歩く……。

午後、夫が打ち合わせに出かけた後、わたしはカメラ店巡りを兼ねての町歩き。出発前にホテルのスタッフに「大きなカメラショップ」の場所を尋ねる。

「ファウンテン地区、セントラルカメラ」

とだけ書いた紙をくれる。これでわかるのか? と尋ねたら、「ノープロブレム」と彼。ファウンテン地区に向かって、テクテク歩く。

ホテルを出るなり、蒸し暑い。それにしても、ホテルの中の静寂と高級感と、ホテルの外の汚さと雑踏のギャップの激しいこと。

ホテルを出て数メートルも歩けば、襲ってくる物乞いらの大きな瞳。汚れた手。残飯の猛烈な悪臭が鼻を突き刺す。スケートボードのような板きれに乗った脚のない女が目の前を横切りる。物売りが「カシミア、パシュミナ」と囁きかける。裸足の子供が米を乞う。

わたしは、ファウンテン地区を目指してずんずん歩く。暑い。汗がにじんでくる。歩道から人があふれ出ている。わたしもあふれながら歩く。

10分ほど歩いた。もうそろそろだろう、このあたりにあるはずだ。ビジネスマンらしき通行人に
「セントラル・カメラはどこですか?」と尋ねる。
「ここをまっすぐ、あと5分くらい」

5分くらい歩く。やはりビジネスマンらしき通行人に尋ねる。
「セントラル・カメラはどこですか?」
「ここをまっすぐ、あと10分くらい」

なぜ? さらに10分? 再び5分くらい歩く。やはり今度もビジネスマンらしき通行人に尋ねる。
「セントラル・カメラはどこですか?」
「ここをまっすぐ、あと10分くらい」

いったい、どこまで歩けばいいのだ! 本当に、あるんだろうな、セントラル・カメラ。

いよいよ引き返そうかと思ったときに、たどり着いたセントラル・カメラ。しかしそこには、予想通りチャージャーはなく。気の毒に思ってくれた店の人が、「隣のブロックのスタンダード・サプライにあるかも」という。

行ってみたが、なかった。しかしやはり、気の毒に思ってくれた(のだと思う)店の人が、「なんとか取り寄せてみよう」と言ってくれる。従ってわたしは、今朝、借りたばかりの携帯電話の番号を残して去る。が、あまり期待はしない。だから、あまり写真は撮らず、バッテリーを惜しみ惜しみ使おうと思う。

帰り道、衣料品店でインド綿の七分袖のブラウスを2枚買った。半袖よりも、日差しを遮る七分袖の方が実用的だと今日歩いて実感したのだ。そして、インド版スターバックスカフェ、「バリスタ・カフェ」でカフェラテを飲む。生き返った気分になる。

夕方は、昼間と打って変わって、爽やかな風が吹く。プールサイドでビールを飲みつつ、空を眺める。本を持ってきてはいるけれど、あまり読まない。ただ、空を見たり、プールサイドを眺めたりしている。

 

■妙においしい中国料理を出すレストランにて。親戚のおじさんと食事。

夫の親戚のおじさんと、今日は夕食の約束をしていた。彼はムンバイと、その近郊都市プーネに会社を持っていて、両都市を行き来する生活をしている。

彼が「ムンバイで僕が一番好きな中国料理店」だと連れていってくれたその店は、ホテルの真裏にあった。

エビ入りの南京スープに始まり、蝦球揚げ(エビのすり身のボール揚げ)、仏陀ディライト(各種野菜炒め)、白身魚のフライのジンジャー&ガーリックソースあんかけ、そしてニンジン、カボチャ、大根、キクラゲなどの具がたくさん入った炊き込みご飯など。

いきなり初日からインドにて中国料理で、しかもそれが抜群においしくて、夫とおじさんはもっぱら仕事の話ばかりしているが、わたしは気にせず、おいしい料理に黙々と専念し、時々相づちを打ったり質問をしたりはするものの、やはり黙々と食べ続けた。おいしかった。また来ようと思う。

Ling's Pavilion Chinese Restaurant
19/21 Mahakavi Bhushan Marg, (Lands Downe Rd.), Behind Regal Cinema, Mumbai
Phone: 2285 00 23


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