自分がコスチュームを手がけた映画が
全米のシアターで公開されることが目下の夢

 


Yukiko Sato さとうゆきこさん

1967年宮城県生まれ。東京の女子美術大学短期大学部造形学科卒業。広告代理店勤務を経て、88年よりスタイリスト事務所に所属。94年渡米。現在、スタイリスト業の傍ら、オリジナルバッグの販売などを行う。


 

 幼いころは身体が弱く、運動をすると貧血を起こすので、家の中で過ごす時間が長かった。洋裁をしていた母から端切れをもらい、ミルクのみ人形の洋服を作るのが好きだった。幼稚園のころには手縫いができるようになり、小学校にあがってしばらくすると、ミシンも操れるようになった。

 小学校4年生で転校したころから、片道約4キロほども歩いて通学するようになったせいか、身体が強くなった。それと同時に、学校の友達も増え始める。クラスメートを集めて「人形作り」の講習会を開いたりもした。  

 中学生になると、自分で洋服も作るようになる。友達から注文を取っては服を縫い、お小遣いの足しにした。さらに高校に入ってからは弁当用のバッグも販売するようになった。

 当時から、自分でデザインして縫い上げることの困難さを理解していたゆきこさんは、将来、スタイリストになろうと考えていた。

 「企業のデザイナーになると、仕事の内容に限界がある。でも、スタイリストになれば、いろんなデザイナーの洋服を、自分の好みに合わせてコーディネートできるから、幅も広いし、楽しそうに思えたんです」 

 高校卒業後は、スタイリスト養成の専門学校を目指そうとしたが、「気が変わったときに応用がきくように」と母に勧められ、東京にある女子美術大学短期大学部の造形学科に進学し、衣服デザインを専攻する。在学中、デッサン、油絵、水彩、彫刻、美術史など美術全般を学ぶと同時に、洋裁やパターンメーキング、染め、織物、編み物など、衣服デザインに関する技術も習得した。

 在学中もスタイリストになりたいという希望は変わることなく、卒業後は、広告関連のスタイリスト事務所に入社。雑誌やポスターなど印刷媒体の広告を扱う事務所だった。そこで自分に与えられたのは、アートディレクターが決めた内容に従って、必要な衣類や小物を取り揃える「おつかい」のような仕事ばかりだった。これは自分のやりたいことではないと思った彼女は、映像関係のスタイリストをやりたいという希望もあったため、1年後に転職、テレビ関係のスタイリストエージェンシーに所属する。

 新しい会社では、衣裳のデザインや製作をする機会も与えられ、責任が重いと同時にやりがいのある仕事を次々に任せられた。中でも時代背景や役柄、性格、場面など、台本を読みながらイメージを創り上げていくドラマの仕事が、刺激的で楽しかった。

 ところが、まもなくバブル経済が崩壊し、それまではもてはやされていたスタイリストの仕事が減り始める。ドラマの制作現場では旧来通り「衣裳さん」が出演者の衣裳を担当するようになった。その一方、ニュース番組からの需要は安定していて、ゆきこさんは、『ニュースフロンティア』『スポーツフロンティア』『ニュースステーション』の出演者のスタイリストを務める。あるとき、スポーツキャスターの朝岡聡アナウンサーから「トラッド系のファッションで、ジャケットを着ずに個性を出したい」と相談された。朝岡氏の要望を受けて彼女が提案したのは、その後、彼のトレードマークとして定着したサスペンダーや手結びの蝶ネクタイだった。日本ではほとんど需要がないため、気に入ったデザインのものを見つけるのに苦労したが、彼のイメージ作りに大きく貢献することになった。

 彼女に転機が訪れたのは24歳のとき。産休に入った先輩にかわって、杏里のスタイリストを手がけたときのことだ。ロスから来たバックダンサーたちの仕事のやり方が日本とは違うことに驚いた。仕事1本1本を明確に分けて契約書を交わし、その都度ギャラをもらう合理的なスタイルに感化された。そもそもアメリカ映画が好きで、ハリウッドに行きたかったこともあり、ひそかにロス行きを決意。仕事の合間を縫って英会話学校に通い始める。

 渡米予定の半年ほど前、折しもアカデミー賞を受賞した石岡瑛子さんのインタビュー記事を目にする。石岡さんのことをよく知らなかったにもかかわらず、「ロスよりニューヨークの方がクリエイティブな仕事ができる」という一文に影響を受け、行き先をロスから急遽ニューヨークに変更する。

 そして26歳の冬、ニューヨークへ。最初の1年間はNYUの語学学校に通う。ルームメイトだった映画科の学生に誘われ、ボランティアでスタイリストの仕事を手伝う機会もあった。当時から心がけていたのは「自分がなぜニューヨークに来たのか」をだれにでも話すこと。極力、パーティーなど公の場に参加して、会う人ごとに「映画の衣裳の仕事をしたい」と話した。その甲斐があって、少しずつ映画の仕事が入り始める。しかしそれだけでは生活して行くに足らなかったから、ソーホーのアートギャラリーや日系の美容室などで働きつつ、スタイリスト業を並行してやった。

 「アメリカで映画の仕事をする場合、リサーチしなければならないことがたくさんあります。以前ニューヨークを舞台にした映画で囚人服を用意する必要があって調べたところ、ニューヨークの刑務所には囚人服がなく私服だということを知ったんです。ちなみにカリフォルニアはオレンジ色の服なんですけどね。結局そのときは、自分で囚人服を作りました」

 映画作りの現場は、常に新たな出会いや発見があり刺激的だ。一作が終わるごとに、次の仕事への欲求が駆り立てられる。

 98年からは、副業でオリジナルの「手提げバッグ」の販売も始めた。しかし目標の中心にあるのは常に「映画のスタイリスト」だ。

 今は、主にインディペンデント系の映画に携わっている彼女。仕事をした映画が全米のシアターで公開されることが目下の夢だ。 


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