ファッションの仕事一筋だった東京時代。
ニューヨークで出産し、新しい人生が始まった。

どんなに疲れても、息子を見ると心が安らぐ。

 


Kyoko Kageyama 影山今日子さん

1963年生まれ、静岡県伊豆出身。コム デ ギャルソン青山店の店長を経て、1996年ニューヨークへ。現在、ソーホーにあるアパレル・ホールセールの会社でセールス業務を行っている。夫と1歳の息子の3人家族。


 

 子供のころは、ぜんそくを患っていて、いつも体調が悪かった。遠足や運動会などの前日は、決まって発作が起こる。自ずと性格も内向的になり、いじめられることも少なくなかった。小学6年生のころから、発作が減り、ようやく「自分らしい」人生が始まったような気がした。

 「中学の入学式のとき、自分の殻がパンとはじけて、生まれ変わったような気がしました。ぜんそくと入れ替わりでアトピーになったけれど、体調はよくなっていたので、バレー部に入るなど、新しい生活を始めました」

 子供のころから洋服に興味があった今日子さんは、中学・高校時代、連休や夏休みになると、おしゃれ好きな友達と連れだって原宿に出かけた。アンアンなどの雑誌を見ては研究し、流行のスタイルを追った。スタイリストに憧れ、部屋に貼ったパリの地図を見ては「私はいつか、ここへ行くわ」と思っていた。

 そのころ、雑誌などでいいな、と思う服を見つけると、それは決まってコム デ ギャルソンの服だった。高校3年のとき、就職活動を前にして、彼女はコム デ ギャルソンに入社したいと電話をかけるが、入社するには経験が必要だと丁寧に断られる。

 高校卒業後は新宿の丸井に就職。ヤング館に配属されるとばかり思っていたら、本館の、しかもメンズコーナーの担当になった。

 「レディス・ファッションの仕事がしたかったのに、ラコステのシャツとかを売らなきゃならないんです。セールスとかラッピングとか、最初の1年は新人トレーニングで鍛えられましたが全然ダメ。いつもビリでした。高校時代の友達が職場の様子を見に来たときには泣けてきました。ああ、私のスタイリストへの道はどうなってしまったんだろうって」

 ところが当時、巷ではデザイナーズブームが到来。丸井の本館は改装され、イッセイ・ミヤケやビギ、ニコル、そしてコム デ ギャルソンなどのデザイナーズブランドが顔をそろえたのだ。就職2年目にしてメンズではあるが、希望通りコム デ ギャルソンの担当になった。そのころは、努力の甲斐あって成績も伸びていた。コム デ ギャルソンで働くようになってからはいっそうがんばった。

 「当時はハウスマヌカン全盛期で、販売員がいばってました。私も最初、それを真似したんですが、うまくいかなくて。それで、自分なりに親切な接客をしようと思ったんです」

 セールスの仕事を通して、多くの人間関係を学んだ。お客に対してもそうだが、ファッション業界の人間模様も少しずつ知っていった。仕事に対する感覚もつかんでいった。

 とはいえ、いくらコム デ ギャルソンで働いているとはいえ、「コム デ ギャルソンの店長と数名の社員」のもと、彼女は「丸井の社員」として勤務していた。どうしても、コム デ ギャルソンの社員になりたいと思った彼女は、こっそりと面接を受けに行った。そして1985年、21歳の時、今日子さんは晴れてコム デ ギャルソンに入社した。

 研修期間を経て配属されたのは、池袋の丸井にあるトリコというブランドの店舗。コム デ ギャルソンが持っていたレディス・ブランドのひとつだった。当時、その店は売り上げがふるわず、引き継ぎを終えたあとは、彼女一人だけが残された。それでも、念願かなっての仕事である。一生懸命働くうち、売り上げは伸び、再び社員も拡充された。数年後には新宿の伊勢丹、さらに数年後には渋谷西武に異動。ここでようやく、コム デ ギャルソンそのもののレディスを扱う店で仕事ができるようになったのだ。

 「気軽には入りにくい印象の店なので、にこやかにお客様を迎えました。その人が、全然違うファッションの服を着ていても、『この人は買う』と思い込んで、気に入ったものが見つかるまで試着してもらいました。コム デ ギャルソンの服はすばらしいと思っているからこそ、できたのかもしれません」

 そして29歳の時、コム デ ギャルソン青山店の店長に抜擢される。ここはメンズ、レディス、関連ブランドを含め、すべてを扱った店だ。年長、年少者を含め15人ほどのスタッフを総轄して仕事を進めなければならない。

 「最初はみんなをまとめなきゃ、という気負いがあったけれど、次第に自分だけががんばっても無理があると気づきました」

 各界の著名人が訪れる店は華やかで、試練ももちろんあったが、仕事は順調に運んでいた。しかし、30歳になったころ「この次に目指すのは何だろう」と思い始めた。その時、昔から憧れていたパリが脳裏に浮かんだ。

 「長い間、私にとってコム デ ギャルソンが一番だったから、次の目標は海外しかなかった。それで1カ月、フランス語を勉強したんですが……余りの難しさに挫折しました」

 英語だったら大丈夫かも、と思い友達と一緒にロンドンに下見に行くも、冬だったせいもあり、寒いし雨は降るしで、想像と違う。その後、友人に誘われてニューヨークへ旅行。

 「ニューヨークのファッションには、全然興味はなかったんですが、街の空気が気に入って、ここに住みたい、と思いました」

 そして32歳の時、11年間勤めたコム デ ギャルソンを辞め、ニューヨークへ。語学学校、日系出版社勤務を経て、東京時代の友人がニューヨークで仕事をしていることを知り、そこに就職。ヨーロッパとアメリカのデザイナーズブランドの卸販売会社で、今日子さんはセールスを担当している。現在は、数年前、ニューヨークで出会った日本人男性と結婚し、1歳になったばかりの息子と3人暮らし。ソーホーの職場へは、息子を連れて出勤している。オフィスには託児室があるから安心だ。

 「子供はあと一人、できれば女の子が欲しい。夫が子煩悩で、家事も私よりうまいくらいだから助かります」

 今までは、仕事をして落ち込むと、スランプに陥っていたが、今はどんなに身体が疲れていても、子供を見ると心が安らぐという。

 「ここ数年は、育児に追われると思うけれど、仕事に対する『野心』は、心の中にこっそりあるんです。今は焦らずに、今やるべきことを一生懸命やって、時期が来たらまた動き出そうと思っています」


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