どんなに時代を経ても、輝きを失わず、刻んできた時間を思い出させてくれる……
宝石を通して物を愛おしむ気持ちを伝えたい。
Honoka Kawazoe 川添微さん1971年生まれ、香川県出身。高校卒業後、上京。日本獣医畜産大学中退。東南アジア各国を放浪したのち、貿易会社に就職。エメラルドのバイヤーとしてコロンビアと日本を行き来する。1999年に渡米。
小学1年生の時のこと。焼却炉に焼け残っていた鉛筆の芯を集め、それを「コンパスの芯」として、近所の無人駅に手作りの看板を立て、販売した。微さんが「商売」をした最初の経験だ。
電気設計士であり発明家でもあった父と、伝統工芸を手がける芸術家の母、そして姉の4人家族。「自立しなければ自由は得られない」という両親の教育方針のもとに育った。
幼い頃から馬が好きで、乗馬をやっていた。一方、商売に強い興味を持っていた。数字の後に「円」をつけると、足し算がスイスイわかった。特にお金が欲しかったわけではない。なぜだかよくわからないが、物を売ることにスリルや楽しさを感じていたという。
小学6年生になると、遠足のたびにクラスメートに弁当を作り、1個300円で売った。年を重ねるごとに商売の内容はエスカレート。高校生の時には、かなりの収入を得るまでになっていた。毎朝、朝4時に起床して、乗馬のレッスンをし、その後、50個ほどの弁当を作る。遅刻しそうな時は、馬に乗って学校へ駆けつけることもあった。
彼女が育ったのは、香川県の田舎町。小学校から高校まで制服が決められていたが、彼女は一度も着たことがなかったという。
「入学前、母が『もし自分に制服が必要だと思うなら買いなさい』と言ってお金をくれたんです。いろいろ考えた挙げ句、なぜ制服を着なければならないか理由が見つからなかったから、結局、買いませんでした」
私服通学をしていた彼女は、自分で作った洋服を高校に着て行き、注文を取った。そして、貯まったお金で日本各地を旅行した。
「東京に行った時、耳にピアスをしたんです。その店に穴を開けるパンチが売っていて、これは商売になる! とひらめいて……。高かったけど思い切って買いました」
休み明け、早速、教室で希望者を募ると、20人くらいの列がずらーっとできた。次から次へ、バチン、バチンと穴をあけた。
こんな彼女の振る舞いが、学校で目立たない訳がない。問題になることもしばしばだった。しかし、その都度、母親が先生を「説得」しに行ったという。彼女の行動が間違っているという明確な理由がない限り、好きなことをやっもいいのではないか、というのが母親の判断だった。
「一人だけ私服だし、商売してるし、すごく目立ってたと思うけど、仲間はずれにされたりいじめられた経験はありませんでした」
馬が好きだった彼女の夢は、馬の獣医になることだった。国体の馬術競技では何度も入賞し、よい成績をおさめていた。高校卒業後は、東京にある日本獣医畜産大学に入学した。しかし、6年間勉強するつもりが1年半で退学。自分が獣医になるビジョンがまったく浮かばず、不確かな将来に不安を感じたのだ。
「当初は、1年くらい休学するつもりで母に相談したんです。ところが、母は中退しろというんです。本当に必要だと思ったらもう一度受験してやり直せ、と。『後ろのドアをきちんとしめて、一旦、部屋を真っ暗にしなければ、次の小さな明かりは見えてこない』って言うんです。いい表現でしょ。誰かの受け売りだとは思うんですけどね(笑)」
大学をやめた後、日本を離れ、タイ、マレーシア、インドネシア、オーストラリアなどを転々とする。当時、日本ではエスニックビジネスが流行していた。各地で雑貨や小物などを仕入れては日本へ送り、生計を立てた。
オーストラリアに滞在中、放浪生活に終止符を打つべく、東京での仕事を探し始めた。
やがて、知人に紹介されたコロンビア・エメラルドの貿易会社で働き始める。社長以下数名の小さな会社で彼女に与えられたのは、エメラルドのバイヤーの仕事。まもなく日本とコロンビアを行き来する生活が始まった。
「最初はどの石に価値があるかわからなかったんですが、一年もたつと、いい石かどうかを鑑定できるようになりました」
仕事は歩合制だったから、働くだけ収入が得られる。年齢も性別も関係ない。自分の審美眼だけが決め手だというのもいい。世界中、どこに行っても普遍的な価値がある宝石を扱うことに、充足感があった。とはいえ、政治的に不安定で治安の悪いコロンビアでの仕事には、常に危険がつきまとっていた。
緊張度が高い生活の中で、知らず知らずのうちにストレスがたまっていたのだろう。ある日、熱が出た。風邪だと思って体温を測ると、42度の目盛りを振り切っている。鏡を見ると、顔が土色になっていた。帰国し、病院に行くや、即入院。劇症肝炎と診断された。
劇症肝炎とは、発病のメカニズムが解明されていない、死亡率が極めて高い病である。病院に呼び出された家族は、医師からの宣告を受け、激しく動揺した。しかしながら、彼女は山を乗り越え、3カ月の入院ののち、無事に退院。その後しばらくは、身体を癒すために静かな生活を送った。
そして、1999年夏、ニューヨークを訪れた。エメラルドの貿易で培った経験を生かして、宝石関係の仕事をするためだ。現在は、英語をきっちりと身につけるために、語学学校へ通う傍ら、宝石鑑定士養成の学校であるGIAに入学するべく、宝石の勉強をしている。
「宝石に関わり、宝石にひかれるにつれて、なぜ、宝石にはこんなに魅力があるのだろうという素朴な疑問がわいてきて……。それを知るためにも、きちんと宝石の勉強をした方がいいと思うようになったんです」
近い将来、自分で原石を選び、デザインをし、彫金した商品を売りたい、と考えている。アイデアは次々と浮かぶ。早くビジネスを始めたいという、はやる気持ちを抑えながら、勉強やリサーチをする毎日だ。
「宝石にひかれるのは、もちろん美しいからということもあるけれど、大きな金額を動かせるところに魅力がありますね……」
彼女のジュエリーを身につける人たちがニューヨークに現れるのは、そう遠い先のことではないだろう。
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