ときには愛情や感謝の気持ちを言葉にして相手に伝える。
そのことで、二人の心の距離がぐっと近くなることを
結婚して10年以上たった今、実感しているところです。

 


クラーク庸子さん Yoko Clark
1958年大阪府生まれ。

ケン・クラークさん Ken Clark
1958年生まれ。アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身。


 

 大阪の短大を卒業後、庸子さんは東京にある、多言語のクラスを持つ語学学校に就職した。世界各国から来た人々が働いている職場は刺激的だった一方で、給与などの待遇には常々不満を抱いており、現状打破の機会を探っていた。

 就職して4年目の夏休み、友人と共にニューヨークへ2週間の旅行に出る。単なる休暇ではなく、自分がニューヨークで働ける可能性があるかどうかを探るための旅でもあった。時代は日本がバブル経済に突入する直前。あらゆる日系企業がニューヨーク支店をオープンし始めた時期で、日本人の自分にも就職できる可能性があることを実感して帰国した。

 それから半年後の1984年冬、勤め先を辞め、ひとまずは1年間の語学留学予定で、ニューヨークに渡った。渡米後まもなく、日系の保険会社で就職する機会を得、しばらくは語学学校と並行して仕事をしていたが、数カ月後には独立、日系企業のイベントのサポートやコーディネーションなどの仕事を始めた。

 交換留学生として大阪の大学に通っていたアメリカ人のケンさんとは、日本にいたころに知り合っていた。大学を卒業した彼も、ニューヨークで働いているということを知り、連絡を取り合う。久しぶりに再会した二人は急速に親しくなり、付き合い始めた。

 「2、3度目のデートの待ち合わせをしたときのことです。私、うっかり約束を忘れてしまって、45分も遅れて待ち合わせの場所に行ったんです。すると彼は私を待っていてくれて、しかも第一声が『大丈夫?』だったんです。遅れたことを責めるどころか、疑うこともなく私を心配してくれる彼のことを、なんて心の大きな人なんだろうと思いました」

 付き合い始めて約3年後、二人は結婚することを決めた。そのことを両親に報告しようと、庸子さんは日本へ電話をする。

 「それまでは、何につけても両親へは事後報告でした。封建的な家庭ではあったものの、父は特に、私の判断に反対することはなかったんです。ところが、あのときは違いました。アメリカ人と結婚すると言ったら『どこの馬の骨ともわからない毛唐にやれるか』って怒鳴られたんです。すごくショックでした」

 予想以上に両親が閉鎖的であると知った庸子さんは、ケンさんが日本に留学していたこともある親日家で、ジャーナリズムの仕事に就いていることなど、彼に関するあらゆる前向きな情報を両親に伝えた。

 電話報告のわずか2週間後、両親はニューヨークにやって来た。庸子さんの心配をよそに、父親はケンさんを一目見るなり気に入った様子だった。庸子さんの家族に一生懸命、日本語で話そうとするケンさんの姿勢もまた、印象的だった。一方、ケンさんの家族は、二世代前にモントリオールからアメリカに移り住んで来たフレンチ・カナディアン。ニューイングランドの頑なな気質を受け継ぐ一家だったが、二人の結婚を反対されるようなことはなかった。

 翌88年の冬、国連のそばにある教会で結婚式を挙げ、家族や友人を招いてのパーティーを開いた。順風満帆に事が運んだかのようだが、庸子さんに不安がないわけではなかった。

 「私は、仕事にせよ、恋愛にせよ、ある程度、目標を達成すると、フッと熱が冷めるタイプなんです。彼と付き合っている間はとても仲良くやっていたけれど、将来、二人の関係が安定するとどうなるのだろうか、とも思いました。とはいえ、今後日本へ帰ることも考えられず、やはり結婚するならこの人しかいないと冷静に考えて、決断したんです」

 結婚してからは、それまでになかった諍いも発生した。当時、ケンさんはジャーナリストなどの職を転々としていて、忙しいものの収入は決して安定していなかった。一方、庸子さんのビジネスは、日本のバブル経済の波に乗り、収入も多い。金銭感覚の違いで二人の意見が衝突することも少なくなかった。

 結婚して7年後、一人娘のイザベルちゃんの誕生を境に、ケンさんに異変が起きた。

 「責任感が芽生えたのでしょうか。子供が産まれた途端、彼は収入を得なければと、それまで以上に仕事をするようになったんです」

 ところが、それはそれで、問題がないわけではなかった。極端に仕事に集中する余り、かつては育児も分担してやろうと相談していたのが、実際には、家庭のことは妻に任せっきりの、典型的な日本の父親のようになってしまったのだ。それは奇しくも、ケンさんと馬が合わなかった彼の実父の姿そのままでもあった。一方、頼る人がそばにいない異国での育児に追われる庸子さん。困ったことに直面するたび、ペンシルベニアに住む義母に連絡した。赤ちゃんの抱き方や、風邪をひいたときの対処法など、日本の常識とは違うことも多く、戸惑うことも少なくなかったが、それでも随分、助けられた。一方、仕事人間と化した夫との間に、精神的な距離が生じ始める。

 「彼は読書などで得た無限大の知識を持っているにもかかわらず、ちっともイザベルに反映させてくれず、不満は募るばかりでした。とはいえ、危機感を持っているのは私の方で、彼の方は『家族とはこんなものだ』と思っている節がありました。実はついこの間まで、私たちの気持ちは平行線のままで行くのかしら、とも思っていたんです」

 ところが、最近読んだ本の一節に、心に響く言葉を見つけた。「相手の性格を変えることはできないが、自分が変わろうと努力することで、その姿を見た相手の心が動き、相手の態度が変わることもある」という主旨だった。

 それまでは、人の性格を変えるのは無理だと気持ちのどこかで諦めていたのだが、その言葉に従って、その日すぐに実行してみた。いつもは事務的な会話に終始していたのを、さりげなく感謝の気持ちを伝えてみたのだ。すると驚くほどに、彼の態度も変わり始めた。二人の間で久しく封印されていた会話が蘇ってきた。それは、かつて他愛のない会話を楽しんでいた時代をひっぱり出すような作業でもあった。時には言葉で愛情を表現し、それを伝える。そのささやかな心がけが新たな関係を築くのだということを、結婚して10年以上たった今、新鮮に実感しているところだ。


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