互いに対する期待値を下げたら、いい関係を保てるようになった。

 


小畑澄子さん Sumiko Obata 
1965年埼玉県生まれ。翻訳 / ライター

ケヴィン・ヘルドマンさん Kevin Heldman 
1965年ニューヨーク生まれ、ユダヤ系アメリカ人。ジャーナリスト


 

 クリスチャンだった祖母の影響もあり、澄子さんは中学時代から、米国の大学留学を考えていた。高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳の時、渡米した。

 澄子さんがケヴィンと出会ったのは、ニューヨーク州立大学に在籍中のこと。彼女が1年生の時、彼は4年生。ケヴィンが卒業した後、彼が二人の共通の友達を訪ねて、学生寮に遊びに来るようになってから親しくなり、付き合い始めるようになった。

 大学の卒業を控え、澄子さんは今後の身の振り方について悩んだ。日本に帰るべきか、米国に残るべきか。その結果、コロンビア大学の大学院に進むことにした。もちろん、ケヴィンの存在も大きかった。彼女の大学院進学と同時に、二人は一緒に暮らし始めた。

 澄子さんは大学院でアジア研究科を専攻。小人数のクラスでドナルド・キーンの講義を受けるなど、刺激的な環境の中で学んだ。一方、州立大学を卒業後、コロンビア大学のジャーナリズムスクールを卒業していたケヴィンは、昼間は肉体労働、夜はレジュメや企画書を作り、ジャーナリストとしての仕事を探す日々を送っていた。

 やがて澄子さんの大学院卒業が近づいて来た。卒業すれば、ビザが切れることはケヴィンも知っていることだった。

 「私たち、二人とも、結婚願望ゼロなんです。いや、マイナスといった方がいいくらい」

 しかしながら、このままだと澄子さんは日本へ帰らざるを得なくなる。

 「結局、ケヴィンが結婚を提案してきたんです。私のグリーンカードのために。彼には色々と事情があって、家族と縁を切っていたから、周囲の干渉は一切ありませんでした」

 結婚を決めた直接のきっかけはビザの問題だったが、もちろん、お互いを生涯のパートナーと認め合ったからこその結婚である。

 「その頃、彼が言ったんです。『料理をしている時間があれば、新聞を読め』って。その言葉を聞いたとき、ああ、この人とならやっていけるなと思いました」

 二人はシティホールで結婚の申請をし、式を挙げた。指輪はケヴィンがふざけて買った、25¢のガチャガチャで出てくるおもちゃだった。

 結婚はしたものの、澄子さんの心に引っかかっていたのは日本の家族のことだった。

 「うちは両親と姉、妹、みんな仲がよくて家族愛も強い。だから、家族に黙って結婚したことが心苦しくて……」

 もし結婚したことを告げても、これまで通り、両親は決して反対したり文句を言うことはないだろう。しかし、いくら電話では言いづらかったとはいえ、相談なしに結婚したことを知れば、悲しむに違いないと思った。

 「当時、私たちは貧しくて、日本に帰るお金がなかったんです。結局、結婚して数年後、ようやくケヴィンと一緒に帰国しました」

 帰国前、二人は話し合った。この帰国は「結婚します」という報告の帰国で、アメリカに戻って籍を入れるということにしようと。

 澄子さんの家族は二人を温かく迎えてくれた。ところが、日を追うごとにケヴィンの様子がおかしくなってきた。食欲がなくなり、夜はうなされて目を覚ます……。そもそも家族愛に恵まれていなかった彼は、澄子さんの家族の優しさに触れ、自分たちが嘘をついていることに耐えられなくなったのだ。滞在予定の2週間も残りわずか、2日後には日本を離れるという時になって、彼は澄子さんに訴えた。やっぱり本当のことを言おうと。

 「真実を言うにしても、彼は日本語をしゃべれないし、結局私が話さなければなりません。父は仕事に出ていたから、母と姉を部屋に呼んで。本当に緊張しました」

 「母は悲しむどころか大喜び、涙もろい姉は、感極まって泣き出すし……。最後の日、ケヴィンは人が変わったように元気になって、ご飯もバクバク食べてました。今思えば、本当にバカなことをしたと思います(笑)」

 彼と結婚して、今年で6年なる。出会ったころは、自分たちは似たもの同士だと感じていたが、時が経つにつれ、違いが見えてきた。

 「映画の趣味とか、部屋のインテリアを気にしないとか、嗜好の共通点は多いけれど、性格は違うんです。彼は生まれつきのジャーナリスト。討論が好きで、とことん話し合う。行動的でじっとしていない。一方、私は家で落ち着いている方が好きだし、多弁でもない」

 お互いが、相手を自分の基準に合わせようとすればするほど、喧嘩が増えてきた。 

 「ある日、ケヴィンに、彼の将来に対する助言を求められたんです。『どうにかなるさ』という私の考え方を、彼はどうしても受け入れられない。意見を言うからには、必ず根拠も必要。そこで口論が始まって……。何が何でも突き詰めようとする彼の姿勢に耐えられず、長いこと、口を利きませんでした」

 そして2カ月後、和解し合えなければ、別れることも覚悟の上で、彼女は自分の考えを綴ったEメールを彼に送る。毎日顔を合わせてはいたものの、直接話すのには抵抗があった。その日の午後、彼女の勤務先に花束が届いた。添えらたカードには、彼女が以前勤めていた会社の社長の名前が。ケヴィン流のいたずらがにじんだプレゼントだった。

 この頃から二人の関係が変わった。お互いに対する期待値の尺度を、ぐっと下げることにしたのだ。相手を自分に合わせようと多くを望むから喧嘩になる。互いの存在を必要としていながら、争うのは苦痛だ。だからこそ、過剰に干渉し合わない関係を保つことにした。

 最近は、いい精神状態で付き合えるようになってきた。喧嘩によるストレスも減った。

 「去年、二人で日本に帰った時、彼が、米国人が収監されている横須賀刑務所を取材したいというので、通訳として同行したんです。彼の熱意が所長さんに伝わり、所内を見学させてもらうなど、私自身も得難い経験ができました。彼はその記事で、この4月、ジャーナリズムの賞を受賞しました」

 お互いのやりたいことを尊重し、ほどよい距離を保ちながら、それぞれが自分の仕事や好きなことに専念できる時間を大切にする。意見を交わし合い、試行錯誤を繰り返しながら、彼らは自分たちの関係を育み続けている。


Back