人に対する好奇心が、僕を映画作りに駆り立てる
今回のニューヨーカー
フランス・パリ郊外出身
マーク・パテュレさん MARC PATURET1957年モロッコ生まれ。子供時代を祖国フランスで過ごす。83年渡米。現在、マンハッタンに映画製作のオフィスを構える。妻と二人の子供と4人暮らし。
左写真:パリにて、母とマーク
僕は、モロッコのメクネスという町で生まれました。父が石油会社に勤めていた関係で、両親は当時そこに住んでいたのです。生後数カ月でパリに戻りました。幼稚園に上がった頃、今度はセネガルに赴任。小学校1年生の時、フランスに戻り、パリの郊外に暮らし始めました。
近所には労働者階級の家族が住んでいて、やんちゃな子供ばかりでした。スペインやポルトガルから来て、ろくにフランス語が話せない子も多かったですね。小学校は男子校だったので、わんぱくな子たちがいたずらし放題でした。教室で、先生めがけてエアガンを撃ったり、職員室で爆竹を鳴らしたり……。
男子校の同じ敷地内に女子校があって、登下校は女の子たちと一緒になるんです。僕の家は学校から5分ほどで、沿道に花が咲く小道で結ばれていました。髪の長いかわいい女の子がいたのですが、帰り際、彼女に会うのがとても楽しみでした。僕はといえば、彼女の髪を引っ張ったりして意地悪ばかりしていましたけど……(笑)。
毎年、夏休みには両親と弟たちと5人でよく旅行に出かけました。フレンチリヴィエラにサマーハウスがあって、車で10時間ほどかけて向かうのです。ビーチに行ったり、森を散歩したり、楽しい時間を過ごしました。
父は仕事の関係で出張が多く、家を空けていることが多かったので、家事や育児の一切を母が一人でこなしていました。一方、ソーシャルワーカーとして精神病院にも勤務していて、多忙な毎日だったようです。休日には趣味のテニスをやっていました。母は物事をオーガナイズするのがとても上手で、仕事も家事もテキパキと要領よくこなしていました。PTAにも積極的に参加していましたし、僕たちの学校生活に何か問題があると、即、先生に掛け合ってくれました。
海外出張の多い父の影響からか、僕は子供の頃から旅行が好きでした。高校に入ってからは、長い休暇を利用して、友達とよく旅をしました。16歳の夏休みには、友達と二人で、オランダやドイツ、北欧などをヒッチハイクとキャンピングで巡りました。北欧は性に関する情報がオープンだから、何かと刺激されることが多くて……。特に女性たちのミニスカート姿には目を見張りました(笑)。
17歳の夏には、友達とそのお姉さんと3人で、モロッコを旅しました。僕の生まれた国です。映画に興味を持ち始めたのは、その頃からだったような気がします。もともと、小さい頃から文章を書いたり、本を読んだり、人と話をするのが好きで、映画もその延長線上にあったと思います。
映画はジャンルを問わず、よく見ていました。パリは映画の都でもありますから、古い映画でも名作であれば、必ずどこかで上映されているのです。例えば大島渚監督の『愛のコリーダ』も、初演から20年以上たちますが、未だにどこかで観られます。
特に僕が興味を持ったのは、1960年代のフランスに起こった、シネマ・ヴェリテ(Cin士a-V屍it)というスタイルのドキュメンタリー映画です。ロシアのジガ・ヴェルトフというドキュメンタリー作家が、自分たちのニュース映画に付けた呼称「キノプラウダ」の仏語で、「映画・真実」という意味です。
通常、ドキュメンタリー映画の場合、あくまでもカメラは客観的な存在とされていますが、シネマ・ヴェリテの場合は、被写体となる人々はもちろん、制作側のスタッフも積極的にカメラに関わりながら、真実を表出させようとします。
ドキュメンタリー映画は、たとえそれがノンフィクションだとしても、カメラが入ることで被写体はカメラを意識し、何らかの違った行動を取ります。その非日常的な経験を、カメラクルーも含めて共有するのは、非常に面白いものです。
学校を卒業してからは、映画会社で働き始めました。アシスタントを経て、26歳の時に渡米、しばらく音響の仕事をしていました。その傍ら、ドキュメンタリー映画を製作してきました。人に対する好奇心、経験を分かち合う楽しさが、僕を映画作りに駆り立てます。
母の訃報が届いたのは、僕が32歳の時でした。母は40歳くらいの頃から、仕事や家事の傍ら、大学に行き、法律を学び始めていました。きっかけは、僕たちの家のあたりに高速道路が走ることになり、市から立ち退きを要請されたことでした。市の理不尽な条件に対抗するべく、法律の知識を身につけようと思ったのです。随分、長い歳月をかけて、母は市を相手に裁判で戦いましたが、結果的に母は敗訴しました。本来、勝つ見込みの少ない裁判に、母はよく尽力したと思います。
この敗訴を機に、母の精神が少しずつ病み始めました。父も僕ら兄弟も、母の病状をたいへん気に病んではいたのですが……。最終的に、母は自らの命を絶ちました。
今は、妻の真由美と子供たちの4人で、マンハッタンに暮らしています。最近、新しいオフィスに移転しました。これからドキュメンタリー映画の製作に、本腰を入れて取り組んでいこうと思っているところです。
1967年、フランスのフロモンティンで。
母と弟、友達と一緒に。
左から長男のマリウス、マーク、
長女のナナ、妻の真由美さん
1960年、セネガルのダカールにて、
母ピエレットとマーク。