ここはニューヨークだけど、我が家はアフリカなんだ。


今回のニューヨーカー
カメルーン・ドゥアラ出身 
エペ・エロングさん EPEE ELLONG

1952年カメルーン、ドゥアラ生まれ。バリの大学・大学院で建築とエンジニアリングを専攻。卒業後カメルーンで妻のダイアンと共に設計事務所を開く。1984年、長男サミ誕生。1995年渡米、ブルックリン在住。写真は右からエペ、妻のダイアン、息子のサミ


 

アフリカ中西部、ギニア湾に面した場所に位置するカメルーン。エペはこの国最大の都市、ドゥアラに生まれ育った。

15世紀末にポルトガル人が訪れて以来、ドイツ、フランス、イギリスの統治時代を経て独立したカメルーンは、複雑な歴史に彩られてきた。公用語はフランス語と英語だが、伝統的なアフリカの部族語も使われている。

「10kmごとに言葉が変わる、というくらい、さまざまな部族語が使われているんです。他の地域の人たちと意志の疎通を図るという意味では、フランス語や英語が公用語になったことはよかったと思う」とエペは言う。

カメルーンの人々は、古くから家族や親戚が同じ集落に固まって暮らすのが常であった。その土地を守り、次代に受け継いでいくことは、親族としての義務でもある。

「どんなに遠い親戚でも、一つの家族のように親密です。誰かが病気になれば助け、一家の長を失った家庭には生活費を分け合うなど、互いに支え合いながら生活するんです」

4歳の頃、エペは初めて、川に架かる大きな橋を見た。その時、いつか自分もこんなものを作りたいと強く思った。

子供の頃は、木や竹、ゴザなどを使っておもちゃを作ったり、彫刻をしたりして遊んだ。両親にランプを作って贈ったこともある。

「実は、両親、特に母のことを話すのは、とても辛いんです……。僕らが生まれたあと、父は第二の妻を娶りました。宗教や地域によっては一夫多妻制を認めているところもありますが、少なくとも僕らの家庭は違った。その時の母には、家を出て行くか、苦痛を忍んで残るかの二つしか選択肢がありませんでした。最終的に母は家に残りました。彼女にとって、僕ら兄弟を育てること、家族を守ることは、生きがいであり使命でもあったのです」

エペの母は家庭を守る傍ら、Deacon(教会の司祭の補佐役)を20年間つとめ、家庭だけでなく地域社会にも貢献した。

「母はとても強く、責任感のある女性でした。僕らは男4人女1人の兄弟ですが、皆同じように教育されました。料理も習いましたし、身の回りの片づけなども叩き込まれました。あなたたちの将来は誰にもわからない、どんな妻をもらうかもわからないのだから、自分のことは自分でできなければだめだ、というのが彼女の考えでした」

高校卒業後は、幼い頃からの夢だった建築の勉強をしにパリの大学へ進学するつもりだった。しかし父親に、国内の大学に行かないのなら働けと言われ、就職を決めた。川底を穿孔し、地下資源の有無を調査する仕事だった。照りつける太陽の下、広大な鉄板の上で作業する。赤道直下の国で、この仕事は余りにも過酷だった。それに建築家への道も諦めきれない。8カ月間働いたのち、彼は当初の希望通り、パリの大学に入学した。 

パリにはかつて父が面倒を見ていた叔父が暮らしていた。今度はその叔父がエペの面倒を見てくれることになった。妻のダイアンと知り合ったのは大学在学中のことだ。

「なんてきれいな女性だろう、っていつも気になっていたんです。でも、初めて言葉を交わすまで3年もかかりました(笑)」

ダイアンはアメリカ生まれのレバノン育ち。レバノン人の父とシリア系アメリカ人の母を持つ。1981年、彼らはカメルーンで結婚し、2人で建築事務所を開いた。そして3年後、息子のサミが生まれる。

「アフリカの女性は強いと言われるけれど、エペの母もまた、信念をもった、気丈でやさしい人でした。私が出産する時、ずっと付き添ってくれたんです。夜は病室のフロアに寝て……。あの時は本当に心強かった」

今は亡き義母を懐かしむように、ダイアンは続ける。

「でもね、生まれて数日しかたってない赤ちゃんの頭を揉み始めた時はびっくりしました。『お母さん、何してるの!』って思わず叫ぶと、『こうすると頭の形がよくなるんだよ』って。それに、ハーブティーのようなものも飲ませるんです。最初はハラハラしたけれど、エペもそうやって育ったんだと聞いて安心しました」

エペとダイアンの会社は、創業後十数年の間、150ものレストランやビル、住宅を手がけた。壁面にアフリカの伝統的な文様を配するなど、温かみのある個性的な建物ばかりだ。クライアントは皆、親しい友人になった。しかし、色々な事情が絡み合い、次第に会社の経営が困難になっていった。  

1995年、家族3人はカメルーンを離れ、ニューヨークの土を踏んだ。現在、ダイアンはMTAに勤務、エペは家具のデザイナーとして仕事をしている。

* * *

取材を終えて立ち去ろうとする私にエペはこう言った。

「ここはニューヨークだけど、我が家はアフリカなんだ。誰でも気軽に訪ねて来られる場所なんだよ。だから、来たいときにはいつでも遊びにおいで」

アフリカの家庭料理でもてなしてくれたダイアンも、家族のアルバムを見せてくれたサミも、満面の笑顔で見送ってくれた。

母は4人の子供たちに、自分の出身地の言葉であるアボ語を徹底的に教えた。母子の会話だけに使われた言葉だった。

1973年、弟と。左がエペ

 


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