パンひとつを買うために、

三度、長い列に並ばなければならなかった。

 


今回のニューヨーカー
ロシア・モスクワ出身 
レブ・ザイトリンさん Lev Zeitlin

1956年モスクワ生まれ。18歳の時、家族と共にアメリカへ亡命。現在、フラットアイアンエリアに、夫婦でデザインオフィスを運営。グラフィックデザインや商業デザインを手がける。2人の子供と4人家族。写真は妻のナディーンさんとともに。


 

旧ソビエト連邦のモスクワで、僕はユダヤ人中流家庭の長男として生まれました。エンジニアの父、専業主婦の母、そして僕の三人は、集合住宅で他の二家族と共に暮らしていました。一家族一部屋、台所とバス・トイレは共同。狭くて不自由な住まいでした。

集合住宅の広い中庭が、僕らの遊び場でした。近所のおばさんやお年寄りたちも見かけます。中庭は大人にとっても子供にとっても大切な社交の場でした。冬の間は、雪で基地を作って遊んだり、春になれば雪解け水が流れ込む小川で遊んだり……。部屋が狭かった分、外でよく遊びました。

僕が4歳の頃でしたか、家計を助けるために母がスカーフ織りの内職を始めました。母の傍らで色とりどりの糸を巻いたりして手伝ったことを覚えています。今思えば、その時が、僕が母と二人で過ごした貴重なひとときだったように思います。

子供の頃の出来事で、強く印象に残っている思い出があります。僕が6歳の時でした。その日、母は朝から張り切って、父の誕生日パーティーの準備をしていました。ところがパーティーを始める直前になって、急に陣痛が始まったのです。出産予定日までにはまだ数カ月あったので、父も僕も慌てました。そのころは病院ではなく助産婦さんのところで出産する人が多く、母もその一人でした。

僕らは近所にある木造の小さな産院へ駆け込みました。そしてその夜、双子の弟たちが生まれたのです。彼らは本当に本当に小さかった。しかし、その質素な産院には保育器などありません。綿のオムツにくるまれた、手のひらに載るほどの小さな弟たちを両親に手渡しながら、助産婦さんはこう言いました。

「この赤ちゃんたちが生き延びることができるかどうか、私にはわかりません。あとはあなた方でなんとかしてください」

たくさんのお湯を沸かすことすらままならなかった不便な住まいで、両親は寝る間もなく、弟たちの面倒を見続けました。

弟たちが生まれた直後、僕は遠くの祖父母の家に丸一年間、預けられました。両親が弟たちに付きっきりだったということもありますが、何より部屋が狭すぎて眠る場所すら確保できない状況だったのです。

当時、不動産は国のものでしたから、どんなに不都合でも、基本的には、国から与えられた住居に暮らすしかありませんでした。広い部屋に移りたいと申請しても、長いこと順番を待たねばなりません。両親に会うこともできず、友達とも遊べなかったあの一年間は寂しかったですね。 

社会主義体制そのものは安定していた当時、しかし僕らの暮らしは極めて質素で、食生活も単調なものでした。何しろ食材を手に入れるのが大変なのです。

例えばパン屋に行くとします。そこには三つの長い列ができています。まず最初の窓口で、何を購入したいかを申請し、チケットをもらいます。次の窓口でチケットを提示し、お金を払って引換券を受け取る。そして最後の窓口で引換券を渡し、パンを受け取る。

一つのものを購入するのに三回も列に並ぶ必要があるんです。しかも各々の列に数十分ずつかかるんですよ。ようやくパンを手に入れたら、今度は離れた場所にある肉屋へ、次は八百屋へ、という具合に転々としなければなりません。購入の手続きはいずれもパン屋と同様。商品の選択肢も限られている。それを思うと、スーパーマーケットなんて夢のような場所ですよね。

食材を手に入れるのにこれだけ手間がかかるのですから、凝った家庭料理なんてまずあり得ませんでした。たいてい、同じようなシチューを食べていましたね。

当時、ソ連の社会において、ユダヤ人たちへの待遇は極めて厳しいものでした。1973年、叔父の一人がアメリカに亡命したのを皮切りに、親戚や知人たちが次々にソ連を離れ始めました。

その頃は、十数年後に社会主義体制が崩壊するなど誰も想像しませんでしたから、この国での将来に希望を見いだせなかった両親も随分と悩んだようです。僕ら一家は話し合いを重ねた結果、亡命を決意しました。すでに亡命した人たちからの手紙や人の噂だけを頼りに、一年ほどかけて準備をしました。

母の父親は厳格な共産主義者で社会的な地位のある人でしたから、母がソ連を離れるということは、即ち生涯自分の両親に会えなくなるということでもありました。

そして1974年、ついに僕たちはモスクワを後にしました。僕が18歳の時です。最初にたどり着いたのはオーストリアのウィーンでした。ここにはユダヤ人コミュニティーの非営利団体があり、亡命の斡旋をしていました。

ここで亡命者たちの前途は「イスラエル行き」「イスラエル以外のどこか」の大きく二つに分けられます。「イスラエル以外のどこか」を選んだ人たちは、その時の状況によって、アメリカや旧西ドイツ、カナダなどに移り住みました。

ビザなどの書類の手続きを待つ間、僕らは自分たちがどこへたどり着くのか不確かなまま、ウィーンからローマに渡り、6カ月後、1975年の春、ついにアメリカの土を踏みました。叔父の住むフィラデルフィアで僕たちの新しい生活が始まったのです。

英語が全く理解できなかった僕たちは、語学学校に通うことから始めました。僕や双子の弟たちは徐々にアメリカでの生活に溶け込んでいったけれど、両親にとっては、言葉も生活習慣も全く異なる日々は本当に大変だったようです。特に母はロシア人コミュニティーになじめず、付き合いに苦労していました。

僕が妻の Nadine と出会ったのは、今から16年前。彼女もレバノンからの亡命者です。アラブ人とドイツ人の混血である彼女と、ロシア出身のユダヤ人である僕が結婚できたのも、きっと出会った場所がニューヨークだったからだと思います。

両親と弟の一人は今でもフィラデルフィアに住んでいるので、月に一度は妻と子供たちを連れて会いに行っています。母は、アメリカで暮らし始めて25年経つけれど、いまだになじめなくて戸惑っているみたいですよ(笑)。

 


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