「叱られてぶたれたこともあったけど、

 たいていは穏やかで温かい母でした」

 

 


今回のニューヨーカー
インド・ニューデリー出身
アーヴァンド・マルハンさん 
Arvind Malhan 

1972年、インドの首都、ニューデリーに生まれる。18歳の時、大学入学を契機に渡米。ボストンで大学生活を送った後、ニューヨークの企業に就職。現在はMBAの学生。


 

僕の名前 「Arvind アーヴァンド」は、梵語(サンスクリット語)で「蓮の花」という意味です。インドでは一般に、梵語や伝説の登場人物から名前を取って命名します。本当は、「太陽」という意味の名前を付けたかったそうですが、父が勘違いして命名したようです。僕の姉の
「Sujata スジャータ」は、「良い生い立ち、素性」を意味します。

僕はニューデリーの比較的裕福な家庭に生まれました。ニューデリーは英国植民地時代、20世紀に入ってから、インドの首都として英国によって築かれた新しい街で、中心部には美しい建物や公園があります。

父と母はお見合いを通して出会い、お互いのことがとても気に入って結婚したようです。母はインドの大学を出た後、イギリスで修士号を取得、その後、帰国して国連の保健機関で仕事をしていましたが、結婚してからは仕事をやめ、家庭に入りました。

僕が両親と姉の家族4人で暮らしたのは8歳までです。父が転勤の多い仕事についていたことで、母は僕と姉の学校のことで頭を悩ませていました。インドは州によって教育制度や言語が異なりますから、転校を重ねることは僕たちにとって重荷になると考えたのでしょう。結局、僕らは母の父、つまり僕の祖父の家に預けられることになったのです。

僕たちの教育については、おっとりとした性格の父よりも、母の方に絶対的な裁量がありました。

祖父は、当時、大きな砂糖工場を経営していた事もあり、金銭的には恵まれた生活をしていました。そのころすでに妻を亡くしていたので、広い邸宅には使用人が暮らすばかりでした。僕たちの食事や身の回りの世話も、使用人たちがしてくれました。

夕食はいつも祖父と姉と3人で食べましたが、祖父とは当然、話が合わないし、厳格な人だったからくつろげませんでした。なんだかいつも寂しかったのを覚えています。だから尚更、母が来ているときは、本当にうれしかった。

母は、1ヶ月ごとに僕たちのところへ来てくれて、1ヶ月間一緒に暮らしていたのです。叱られてぶたれたこともあったけれど、たいていは穏やかで温かく、ユーモアのある明るい女性でした。

母が父との生活、そして僕たちとの生活をきっちりと半分に分けて両立していたことは、今思えば大変なことだったと思います。

母は好奇心が旺盛な人でしたから、僕たちのために洋菓子の作り方を勉強してくれたりもしました。自分で味噌を醸造して味噌汁を作ってくれたこともありましたよ。

当時、母と姉と3人でよく外出したものです。書店で本を買ってもらったり、市場に出かけてスナックを買ってもらったり。たとえば、サモサやチャートなどは、こちらのインド料理店では前菜として出されますが、本場インドでは、これらはレストランで食べる料理ではありません。市場やストリートの屋台で食べるスナックなのです。決して衛生的ではないけれど、屋台の食べ物はおいしくて大好きでした。

両親は特に勉強をしろと言うタイプではありませんでした。ただ、どうしても僕自身、二番になることが許せなくて、テスト前には一生懸命勉強しました。だから、成績はたいてい一番でした。でも試験の時期以外はクリケットを観戦したり、本を読んだり、気ままに好きなことをやっていました。

インドの学校では一般に、同級生がグループになる「クラス」のほかに、「ハウス」というカテゴリーがあります。7歳から18歳までの生徒が入り交じって、いくつかのグループになるのです。学芸会やスポーツ大会などの行事のときには、ハウス単位で行動します。ですから、同じハウスの生徒たちと遊ぶことも多かったですね。

子供の頃は、将来についてあれこれと思い描いてました。クリケットの選手や天文学者、政治家になりたいとか…。クリケットはずいぶん攻略法を研究したから、本を書けるくらいです。でも、実践の方は…全然ダメでしたね(笑)。

母が白血病に冒されているとわかったのは僕が15歳のときでした。医者からは8ヶ月の余命だと宣告されました。母は成功する確率の低い手術を受けることを拒み、さまざまな情報を集めた結果、食事療法などで病気と闘う決意をしました。

精神的にも、前向きであろうと努力する人でしたから、それから約5年、がんばって生きていてくれました。母が亡くなったのは、姉が結婚式を終えた直後、僕がアメリカの大学に進んで1年目のことです。僕は、誰よりも、母のことが大好きだった。だから、すっかり痩せてしまって死の床についていた母の姿を見たときは、心が張り裂けそうでした。

母が亡くなってから、姉が遺品の中から日記を見つけました。それは、発病して以来、毎日、書きためていたものです。僕と姉、そして父のことを、どんなに思ってくれていたかが痛いほど伝わってきました。

母が亡くなってすでに6年の歳月が流れますが、今でも時々夢に現れます。母の死は、僕の中でまだ折り合いのついていない事実として横たわっているのです。

旅行先のスイスにて、12歳のころ。
母と姉とともに


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