喉元過ぎても熱さを忘れないために
2/22/2000

ミューズ・パブリッシングのオフィス兼坂田の自宅があるビルは、1998年の年末、火災に見舞われた。出火元がマコーレ・カルキン(映画「ホーム・アローン」の主人公をやっていた男の子)の家族が住んでいた部屋だったこと、煙に巻かれて住民4名が亡くなったことで、大々的に報道された火事だった。日本のテレビニュースでも報道されていたようである。月日の流れと共に、火事の恐ろしさの記憶も薄れていく。忘れてしまわないためにも、このことは、日記から書き起こして改めて文字にしておこうと思う。


1999年1月9日

 年末年始を日本で過ごし、昨日ニューヨークに戻ってきた。出発の日。12月23日の惨事を思うと、今でも心が痛む。

 その朝、わたしは1年半ぶりに日本へ帰国するために、荷造りをしていた。深夜の便でニューヨークを発つ。荷物の準備をしたあとは、洗濯や掃除などをするつもりでいた。午前10時頃、外のフロアから非常ベルの音が聞こえた。しかしその音のあまりのか細さに、特に緊迫感を覚えず、いつものことかと無視していた。前日にも同じように非常ベルが鳴っていたからだ。

 ところが、間もなく、多分1分もたっていないだろう、外から消防車のけたたましいサイレンの音が響いてきた。まさか、と思いつつ窓を開ける。ふと見上げると、まさに斜め上の部屋、19-Dの窓から、灰色の煙がもうもうと吹き出しているではないか。瞬時に鼓動が高まるのがわかった。なぜ、よりによってこんな日に、しかもこんな間近な部屋で火災が発生するのか。わたしの部屋は18-C。相当近い。このアパートメントは52階建てで、少なくとも600世帯はあるのに、運が悪すぎる。憤りと焦りとが入り交じった思いを抱きつつ、どうしようかと部屋を見回す。まずはスーツケースに詰め込んでいたスニーカーを取り出して履く。上下グレーのスエットスーツを着ていたが、上にコートを羽織るなどという発想は沸かなかった。結局、洋服を詰め込んでいたスーツケースに財布と鍵を放り込んで抱え、外へでる。パスポートやチケットなどをいれたバッグを置き去りにしたまま。

 外のフロアでは、すでに消防士たちが行き来しており、アパートのハンディマンも一名見られた。住人の姿はない。仕事に出かけている人が多いことに加え、ホリデーシーズンなので旅行に出かけている人も多かったせいだろう。二つある非常階段のうち、どちらから下りるべきかもわからない。どちらも消防士たちが占拠しているのだ。「あっちを使え」「こっちから下りろ」と双方から指示されたわたしは数回往復したあげく、最後には「どっちから下りればいいのよ!」と声を荒げた。

 結局、どちらかは覚えていないが下り始めると、階段の途中で二人の女性に出会った。一人は20-Dに住んでいる女性。まさに火災が発生した部屋の真上だ。彼女はキルティング風のナイトドレスを着、裸足のまま。妊婦である。眠っていると突然煙に包まれて、靴を履く余裕もなく飛び出してきたという。もう一人の女性も20階から避難してきたという。3人で、いったい何が起こったのかと話しながら階段を下りる。9階の非常階段から病院のビルへ移る際(このビルは2階から8階が病院になっている)、勤務している看護婦の一人に出くわす。彼女はまだ火災発生をしらず、わたしたちの姿に驚きながらも、裸足の妊婦にスリッパを貸してあげるといって彼女を導いていった。

 1階のロビーにはすでに避難してきた50人ほどの住人たちであふれていた。わたしは荷物をフロントへ預け、火災の状況を見ようと外へ出る。歩道いっぱいにたむろする野次馬。行き交う報道陣。この日は、この冬初の冷え込みで気温は氷点下だった。わたしは寒さを感じる余裕もなく駆け出し、道路を横切ってビルを見上げる。

 部屋から見たときは灰色に思えた煙は、どす黒く変化しており、とどまることを知らず窓から吹きだし続けている。濃いオレンジ色の炎も共に吹き出す。「舐めるような炎」とはよく言ったものだ。本当に、ビルの壁を這うようにめらめらと燃えさかっている。最初は南側のリビングルームの窓からだけ吹きだしていた炎は、やがて北側のキッチンの窓へ広がっていく。こんなに消防車が来ていて、消火活動がなされているはずなのに、なぜくい止められないのか。わたしの部屋の方に、炎がどんどん近づいてくる。ついにはキッチンをこえてベッドルームの方まで至った。火災に気づいてから1時間たとうとしているのに、火勢は弱まるどころか、勢いを増すばかりである。いったい消防士は何をしているのか、いらだちを覚える。一瞬で大量の人々を殺戮できる原爆のような武器を作れる技術がありながら、なぜこの程度の火を一瞬で消す技術を編み出せないのか、などと不条理なことを思う。

 ついに、わたしの部屋の真上の部屋(19-C)の左端の窓ガラスが消防隊によって割られた。炎は上に向かうだろうから、燃え移ることはないだろうと思いつつも、不安で胸はいっぱいである。たとえ燃え移らなくても、消火水で水浸しには間違いないだろう。火災保険には入っていないし、もしも家財がめちゃめちゃになったら、いったいどうすればいいのだろう。会社を立ち上げたばかりなのに。コンピュータをはじめとするオフィス機器がだめになったら、どうやって仕事をすればいいのか。買い換える余裕なんて全然ないし……。最悪、すべてが燃え尽きたら、あるいは水浸しでダメになったら、わたしは志半ばで日本へ帰るしかないのだろうか……。炎を見つめながらあれこれと考えを巡らす。そんな風に焦る気持ちを抱えて見つめるわたしの横で、シャッターを切りながら「いい写真が撮れた」「まったくいい被写体だ」などと悦に入っている野次馬のおやじがいる。不謹慎なヤツだと怒りがこみ上げるが、文句をいう気にもなれず、ひたすら状況を見守る。

 そのうち、報道陣を通して4人が亡くなったという知らせを耳にする。なんということか。クリスマスを控えたこの時期に、こんな惨事に見舞われるとは。亡くなった方への哀悼の意をとなえつつも、自分の部屋と、日本への旅行が気になって仕方がない。この旅行は日本がはじめてのボーイフレンドと一緒に出かける予定で、富士山や京都、実家のある福岡、そして湯布院温泉など、盛りだくさんの企画を組んでいて、二人とも随分楽しみにしていたのだ。しかし、こんな状況で、今夜出発できるのかどうか、なんとも怪しいところである。

 火災の様子を見守っている間、新聞やテレビのインタビューを受ける。住民の殆どは、寒いこともあり皆、避難場所に待機しているようだが、出火元から近いわたしには、状況を見守り続ける以外、身動きが取れなかった。そういうわけで、薄着ですっぴんで悲壮的な表情のわたしは一目で住民とわかるため、次々とインタビューを受ける羽目になったのだ。興奮していて何を話したかは明確に覚えていないが、非常ベルの音がとても小さかったこと、スプリンクラーもなく、消化器も設置されていなかったこと、今夜日本に発つ予定なのに、どうなるのだろう、といったことを話した。避難してきた状況も加えて説明した。

 インタビュアーの女性の一人が、薄着の私に気づいて手袋をくれた。また、レッドクロス(赤十字)が差し入れたホットココアを持ってきてくれた。カメラマンの一人がジャケットを貸してくれた。そこでようやく、落ち着きを取り戻した。しかし、1時間過ぎた辺りで炎は消えたものの、煙はまだまだ激しく窓からあふれ出し続けている。結局12時頃まで、煙は消えなかった。煙が消えるまで、気が気ではなく、向かいにあるフォーダム大学の玄関フロアからしばらく状況を見守る。時々ジムで見かけていた中国系の女性と話をする。彼女はジョギングに出て帰ってきて火災を知った。人が亡くなったことにとても心を痛めた様子だった。

 わたしは、火災の様子をもう少しはっきり見たくなり、正面玄関のある60丁目から、火災の現場側に近い59丁目の方に回ってみた。そのとき初めて、火元の家(マコーレ・カルキンの家族)が19-Dと19-Eの2部屋をぶち抜いて住まいにしており、東西両方の部屋に等しくダメージが与えられていることを知る。これまでは東側しか見えていなかったが、西側も燃えさかっていたのである。

 たまたま見かけた日本人の野次馬に携帯電話を借り、フィラデルフィアに住んでいるボーイフレンドに電話を入れる。日本人の彼らは「多分、あの部屋だったら水浸しでしょうね」と、冷静な判断を下して立ち去っていった。

 ビルの隣の教会にある寄宿舎のダイニングルームが、住人の避難場所として開放されていた。レッドクロスによって差し入れられたスナックやドリンクを口にしながら、人々はひたすら状況が変わるのを待っている。わたしは取りあえず、もう一度ホットココアを飲み、レッドクロスに名前や住所を登録し、待機する。それにしても落ち着かない。周りにいる人々と火災の状況などの情報交換をしながら、時間を過ごす。心配ではあるものの、お腹が空いてきたので、差し入れのさめたマクドナルドのハンバーガーを頬張る。トレーナーにすっぴんのわたしにとっては、どこに行くこともできず、そこで待つしかないのだ。

 寄宿舎で電話を借り、日本の両親に連絡する。火災のため帰国できないかもしれない旨を告げる。改めてボーイフレンドに電話をいれる。最初の電話で火災の重大さを理解していなかったが、人が4人亡くなったと聞いてはじめて、やや事の大きさを理解したようだ。

 結局、朝の10時に火災が発生して以来、延々と待機していた住民たちが部屋に戻れたのは夜の7時を過ぎた頃だった。9時間ほども不安な時間を過ごしたのである。夕刻近くになり、火事を知らずに仕事を終えて帰ってくる人たちも、次々に待機場所であるダイニングルームに現れてくる。

 隣の部屋から若い女性の泣き叫ぶ声が響き渡り、人々の間に沈黙が走る。夫が亡くなった旨を告げられたらしい。同じ部屋に、赤ちゃんを抱きかかえ、顔面蒼白になったスーツ姿の男性も入っていった。激しく心がきしんだ。亡くなった人たちは、みな、非常階段の途中で、煙に巻かれて亡くなったのだ。27階のあたりで、遺体が見つけられたという。非常階段は、死の煙突と化していたのである。

 顔をすすだらけにして避難してきた人の中には、40階から駆け下りてきた人もいる。出火元は19階だから、間近の部屋でもない限り、本来は部屋の中にいて、煙が入り込まぬよう、濡れたタオルなどでドアの隙間を塞ぐなどの対応が正しかったのだろう。しかし、出火元を知らせるアナウンスもなければ、対処方法を知らせる手だても打たれなかった。2時間もの間、である。

 ジュリアーニ市長が「高層ビルは通常、ファイアープルーフになっているのだから、火災の際は、むやみに逃げず、部屋にいるべきだ」などとテレビで言ったものだから、住民の感情を逆撫でた。上空にはヘリコプターが旋回し、報道陣が駆けつけ大騒ぎしているのだ。スピーカーなどで部屋にいる住民たちに指示を送ることができなかったのか。

 結局、火災の原因ははっきりとはわからなかったようだ。ヒーターから火がでたと言われているが、どうも確実ではないらしい。マコーレ・カルキンの母と弟、妹たちは、一番に逃げ出し、消防署への通報も遅れたということで、悪評の的となっているが、詳細はわからない。

 さて、その夜、8時頃、ようやく入り口のロープが解かれ、ビル内に入った。エレベータは使えないので、18階まで階段で上る。非常階段のドアをあけ、フロアに出るなり目を見張った。水浸しのカーペットにすすだらけの壁、電気は壊れ、臨時の電球がともされている。まるで廃屋、お化け屋敷のようだ。どの部屋も、ドアノブが破壊され、大きな南京錠がかけられている。幸いわたしの部屋はオートロック解除しているので、鍵がかかっておらず、ドアを壊されず済んだようだ。

 胸が締め付けられるような思いで、部屋のドアを開ける。ああ、ちゃんと部屋がある。コンピュータも無事だ。慌てて部屋中を確認する。床とバスルームに水がたまり、クローゼットの隅から水がもれて服が濡れてはいるものの、想像していたほどのダメージではない。安心のあまり、涙がこぼれてきた。神様ありがとうございます、と、何度もつぶやきながら、大急ぎで部屋の掃除に取りかかった。バスタオルで床の水を吸い取り、クローゼットの服を取り出し……。

 少し心に余裕が出てきたら、19階の火災現場が気になり非常階段を上ってみた。そして愕然とした。非常階段もフロアも、一面、墨汁をたらしたように真っ黒なのだ。煤けている、なんてものではない。ただ、べったりと黒いのである。火炎の力をまざまざと見せつけられた。

 荷物を詰め直し、パスポートとチケットを確認したわたしは、興奮さめやらぬまま、帰国の途についた。中途半端に片づけたまま、落ち着かない気持ちで部屋を後にするのは不安だったが、それでも帰ることができたことを、ありがたく思う。


火災から半月後の様子。窓の部分に板が張られているのが燃えた部屋。上部の壁がすすだらけになっている。白いカーテンが左右で束ねられているのがミューズ・パブリッシングのオフィス(兼坂田自宅)。際どい場所である。

 

火災騒動の後日談

 年が明けてニューヨーク戻ってきた後、他の住民から話を聞いた。火災から1週間以上、暖房が効かず、ガスも通らなかったこと。19階から上の部屋は煙の匂いでいっぱいだということなど。もちろん、わたしの部屋も煙臭かったが、上のほうが当然きついだろう。一年で最も寒い時期に暖房が入らなかったのも辛かったに違いない。
 あの火災が、もし平日の深夜などに発生していれば、死者の数は相当数に上っていただろうとの見解もあった。火事の際は逃げればいいというものではないということを、思い知った。
 わたしの隣室、および斜め前の部屋は水浸しの壊滅状態だった。もちろん顔を合わせる機会もなく隣人たちは去っていった。どろどろの水浸しになった家具が隣から運び出されて来るのを見るにつけ、自分の部屋が多少の水漏れで済んだことを幸いに思う。向かいの部屋の人も引っ越したようだ。火事の後は、ぼろぼろの部屋を改装する工事の騒音に悩まされたが、仕方のないことである。
 壁や天井の水のシミは、アパートの管理事務所によって補修工事がなされたが、クリーニングに要した数百ドルは戻ってこなかった。フロアの工事も長引き、結局すべてが元通りに機能しはじめたのは春を過ぎた頃だった。
 火災から1カ月ほど経ったころ、住民たちの間で組織が結成され任意の参加で訴訟することになった。会合の席ではさまざまな問題点が指摘された。最近のニューヨークの高層アパートは、スプリンクラーや消化器の設置を義務づけられていないことも改めて知った。
 一度、会合に出席して以来、わたしはその訴訟団体に参加しなかったが、慰謝料をもらうまで家賃を支払わないなど強硬な手段に出ていたようだ。
 その後、わたしは火災保険に入り(年間200ドル程のプラン)、管理事務所が支給する消火器(任意で借りる)を受け取りにいった。
 このビルの火災が起こって間もなく、マンハッタン内の高層アパートメントに、火災の際のガイドラインが記されたチラシが配布された。消防局とニューヨーク市が共同で発行している「BE SMART BE SAFE」というもので、火災発生の際の対応の仕方が記されている。
 ニューヨークは、セントラルヒーティングの老朽化や火気の不始末による火災が多い。知人たちの多くは「火事を見た」「隣のビルが燃えた」といった経験をしている。せめて、火事が発生したときにどう対処するべきかを考えておいても悪くはないと思う。

 この火災を通して、わたし自身は、精神的にストレスを感じた以外、幸いにも失うものはなかったに等しい。クリーニング代だけで済んだのだから。それにしても、このような状況に直面すると、考えさせられる。わたしにとって絶対に失うことのできない大切なものとは何なのか、ということを。

 結局、コンピュータも、机も、なにもかも、お金さえあれば、買い換えることができるのである。

 あの日の、夫の死を知らされて泣き叫ぶ女性の声が、今でも耳に残っている。(M)


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