序章:ごあいさつにかえて

(2003年1月号)

 


かつて東京でフリーランスのライター兼編集者をしていた私は、1996年春、一年間の語学留学予定で渡米した。ところがニューヨークに暮らし始めた途端、この街特有の磁力に引きつけられ、離れられなくなった。就労ビザの取得が目的で出版社を興し、やがてビジネスが軌道に乗り始めた頃から、業務の傍らフリーペーパーを発行し始めた。試行錯誤の連続だったが、街から沸き出るエネルギーに支えられつつ、日々を過ごしていた。

「私はマンハッタンが好きなのであって、アメリカが好きなのではない」などと無茶な理屈を言い放ってはばからなかった。

2001年7月、渡米当初ニューヨークで出会って以来、5年以上付き合っていた男性(インド人)と結婚した。MBAを経てDC郊外に就職した彼とは、遠距離での付き合いを続けており、結婚した後も当面はその状況を継続する気でいた。ニューヨークで5年の間に築き上げた自身の基盤を、結婚のために棒に振ることなどできない。夫は何年か後に転職するかもしれないし、そのたびに自分の仕事を犠牲にするのはいやだ。無論、彼がニューヨークに戻って来る可能性だってある。

一緒に住もうと言う夫の要求に頑として耳を貸さなかったある日、ワールドトレートレードセンターが崩壊した。そんな矢先、親しい同年の友人が病に冒されていることを知る。自分の在り方について深く考えずにはいられなくなった。私は自分の人生における物事の優先順位を大幅に見直し、夫と一緒に暮らすことを決意した。

そう決めたが早いか、インターネットで部屋探しを始めた。当時夫はアーリントンに住んでいたが、私は郊外に住むことに抵抗があったため、DC内の物件を検索した。アパートメントの間取りや相場を見ながら、私の心はいつしか高揚していた。家賃がマンハッタンに比べて格段に安いのだ。

当時の私はアッパーウエストサイドの、リンカーンセンターやセントラルパークに近い高層アパートメントにオフィス兼自宅を構えていた。本来なら最低でも1BRは必要な状況だったが、そんな経済的余裕はなかった。少々広めだったとはいえ、私が住んでいたのはSTUDIOにもかかわらず家賃は1カ月2000ドルを超えていた。渡米した当初は1500ドル程度だったのが、好景気の波に乗り、家賃は呆れるほどに順調に高騰し続けていた。なにも格別高級なアパートメントに住んでいたわけではない。ドアマンもいないダウンタウンの古びたタウンハウスですら、同じような相場だったのだから。

STUDIOでオフィスと自宅を兼用するのはなかなかに気合いが必要だった。朝目覚めると、まずはブランケットや枕を狭苦しいクローゼットに押し込み、FUTONソファーをガタンと起こす。クッションを散らし、いかにも「そもそもからソファーですよ」という雰囲気を漂わせるよう工夫する。オフィスを訪れる人は、私がこの一室で寝起きすることを知ると一様に驚いたものだ。

ついでに言えば、マンハッタンのアパートメントの多くは、台所に換気扇を備えていない。申し訳程度に換気口がついているが、魚の塩焼きはおろか、揚げ物すらできない。換気扇がない理由を不動産会社を経営する友人に尋ねたところ「ニューヨーカーは料理をしないから」と即答された。返す言葉もない。

さらに言えば、洗濯機を設置するスペースが部屋にないため、階下の共同ランドリーを使用せねばならない。洗濯のたびに大量のクオーターを握りしめ、上下階を往復するのは実に面倒だった。

従って、マンハッタンを離れることは、言葉にし難い、大いなる悲しみだったが、こと住環境に関しては、全く未練がなかった。

2002年が明けたばかりの1月末、私はDCの、国立大聖堂近くのアパートメントに引っ越した。夫と二人で暮らす、新しい人生の第一歩だ。しかし窓から見下ろせるのは、冬枯れの木々と石造りの家並みの寂寥とした光景。それは欧州の片田舎を彷彿とさせる味わい深いものであったと同時に寂しすぎた。

一方、住まい自体には非常に満足していた。部屋に洗濯機があるからいつでも気軽にガンガン回せるし、パワー抜群の換気扇のおかげで天ぷらも揚げられる。勢い余ってお菓子まで焼いてしまう始末だ。

家が快適な分、外出が減った。マンハッタンにいたころは四季を問わず、街を縦横無尽に歩く毎日だったから、寒い時節とはいえ、家でできる仕事ばかりをしている自分が、徐々にくすぶっていくのがわかった。そんなある日の夕食時、言わぬと決めていたはずの愚痴がため息混じりに出た。

「あぁ……。DCはつまんないよ」

すると、夫が言った。

「ミホ、ここはアイダホでもユタでもない。アメリカ合衆国の首都なんだよ」

アイダホやユタに住んでいる人には恐縮だが、その当たり前の一言が、妙に心に響いた。ぐずぐず言っている場合ではない。ここで私ができる何かを見つけなければ。

桜のつぼみがほころび始める頃から積極的に外出した。桜はタイダルベイスン周辺にだけ咲くものと思っていたが、DC及び近郊の随所で見られること、またその種類の豊富さに深く感銘を受けた。カメラを持ち歩き写真を撮りまくった。DCの桜の歴史を紐解けばまた興味深く、それを雑誌の記事にしたこともある。桜ばかりじゃない。この街の、緑豊かな自然美は、心に爽やかな風を送ってくれた。積極的な目で見れば、マンハッタンとは違った、何も政治関連ばかりではない、この街には取材の対象がたくさんあることの手応えを、次第に感じ始めた。

日米協会などが主催する種々のパーティーにも積極的に参加し、ネットワーク作りも始めた。数カ月もするうち同じアメリカの大都市でありながら、これほどにも異なる個性を持った二都市<ニューヨークとDC>の有様が、非常に面白く思えてきた。出会う日本人の職種やバックグラウンドもまたニューヨークのそれとは著しく異なり新鮮だった。

そうこうしているうちにも瞬く間に月日は流れ、DCに移って一年が経とうとしている。今年は、ニューヨーカーとの触れ合いを描いた『街の灯』(ポプラ社刊)という随筆集を出版したこともあり、DCに暮らしながらもニューヨークを引きずらざるを得ない一年だった。しかし来年からは、いよいよDCに「肉薄」しながらの生活、仕事をしたいと思っている。

知人よりワイルス蓉子さんを紹介していただき、今号より「ポトマック通信」に寄稿させていただく運びとなった。今回は自己紹介を兼ねて、私事に終始したが、次回からは私なりの視点でニューヨークとDCの「生活比較論」なるものを書くつもりだ。

読者の皆様、今後とも、どうぞよろしくお願いします。

 


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